対人恐怖症ネズミ
「君は相変わらずだな」
夜更け。郊外にひっそりと建つ古びた研究所に足を踏み入れた男は、室内をじろりと眺め、そう言った。ただ、その声音には呆れや皮肉めいた響きはなく、むしろ懐かしさと親しみが滲んでいた。
壁際には未整理の段ボールが塔のように積まれ、古い機材がひっそりと眠っている。机の上には資料や論文のコピー、走り書きのメモや未開封の郵便物が混ざり合い、床にまで散乱している。足元には薄汚れたガラス器具や使い古された計測器が無造作に転がっていた。揮発した薬品の匂いと古い書庫のような匂いが混ざり合い、独特の空気に満ちている。
確かに雑然としているが、不思議と落ち着く空間だった。
「君こそ、相変わらず海外旅行か?」
博士が、部屋の隅に置かれた電気ポットから湯を注ぎ、少しくすんだカップを男に差し出した。コーヒーの仄かな香りとともに、うっすらと白い湯気が立ち上っている。
「まあ、相変わらずってほどでもないがな。定年退職してから、まだ数年しか経ってない」
「いや、働いてた頃からちょくちょく国外へ飛んでいたじゃないか」
「そうでもないさ。ほら、土産の菓子だ。コーヒーには合わんかもしれんがね」
男は手提げ袋から小さな箱を取り出し、机の上の山の合間に置いた。
二人は大学時代からの付き合い。昔からあちこちを飛び回る男とは対照的に、博士は筋金入りの出不精。だから男がこうして訪ねて来なければ、互いに顔を合わせる機会はほとんどなかった。そんな関係が何十年も続いていた。
「で、最近は何の研究してるんだ? ……お、これか?」
男の視線が机の中央に置かれた四角い覆いへと吸い寄せられた。くすんだ布をかけられた中型の箱。男が一歩近づき、箱に影が落ちた――その瞬間、箱の中から「きっ……」という小さく湿った鳴き声が漏れた。
男は思わず身を引いた。しかし、驚きよりも好奇心が勝ったらしく、口元に笑みを浮かべると、布にへそっと指先を伸ばした。
布がひらりとめくれ、透明なアクリルケースが露わになった。その中にいたのは――。
「ネズミ……? しかもドブネズミか?」
一匹のネズミだった。灰色の毛が逆立ち、湿った黒い目が揺れている。細い尻尾が小刻みに震え、ケースの隅に身を押しつけるように小さく丸まっていた。再び「きゅう……」と細い声を漏らした。その響きにはただの警戒ではない、もっと深い恐怖と苦痛の色が滲んでいた。
「おいおい、あまりいじめないでやってくれ」
「いや、おれは何もしてないぞ」
布がするりとケースから滑り落ちる。その影を追うように、ネズミはケースの隅から隅へ走った。そして布が完全に床に落ち、蛍光灯の光が剥き出しのケースを照らすとネズミはさらに身を縮め、かすれた悲鳴を上げた。
「どうやら筋金入りの日陰者らしいな。まるで誰かさんみたいだ」
男は肩越しに博士を見やり、意地悪げに笑った。
「そのネズミはな、“対人恐怖症”なんだ」
「対人恐怖症……?」
男は眉を寄せながら、ゆっくりとケースから距離を取った。すると、離れるにつれてネズミの震えは弱まっていった。しかし、男が再び一歩、二歩と近づくと、まるで警報のような甲高い悲鳴を上げた。
男はケースから離れると、「なるほど」と低く呟いた。
「確かに、かなり重症らしいな。だが、ネズミが人間を怖がるのは当然じゃないか?」
「いや、最近は必ずしもそうとは言えない」
「どういうことだ?」
博士は土産の箱を開けながら、目を細めて言った。
「都内でネズミの目撃例が増えているというニュースを耳にしたことはあるか?」
「ああ。コンビニの棚を走っていたとか、路肩のゴミ袋を堂々と漁っているとか、そんな映像を見たな」
「そうだ。近年の都市のネズミはふてぶてしく、人間が横を通り過ぎても平然と毛づくろいしている」
「ふふっ、海外じゃ珍しくもない光景だが、まさかこの国もそうなるとはな。サンドイッチにネズミが挟まっていないか、食べる前によく見ないとな」
「『このままでは海外に顔向けできない』と批判が相次いでな。対策を講じることになったのだ」
「ほう、浄化作戦というやつか。ネズミを一掃するんだな」
「いや、増えすぎたネズミを一斉に駆除するのは現実的ではない。かといって飲食店にゴミの管理を徹底するよう言っても、効果は期待できない」
博士は菓子の包みを爪でカリカリといじりながら言った。
「強制力もないしな」
「そこで、都から私に依頼が来たわけだ」
「なるほど。それでネズミを研究しているというわけだな。にしても、あれは少々過敏すぎる気もするがな」
「ああ」博士はにやりと笑った。
「あのネズミこそが、その研究の成果だ」
「なに?」
「病原菌を媒介する蚊を減らすために、オスしか生まない蚊を開発したという話は知っているか?」
「ああ、それも前にニュースで見たことがある。まさか――」
「ああ、あのネズミも同じ発想で作ったのだ」
「同じって……オスしか生まないネズミを放つってことか?」
「いや、それは無理だ。哺乳類の遺伝子は昆虫とは比べものにならないほど複雑だ。オスしか生まぬよう操作するのは難しい。仮に成功しても、数世代で元に戻ってしまうだろう。だから私は別の手段を取った。人間を恐れる性質を極端に強化した、いわば“対人恐怖症”のネズミを作り、街中に広めたのだ」
「ということは……そのネズミから生まれた子も、その孫も人間への恐怖心を受け継ぐと……?」
「その通り。すでに何百匹と都内に放った。調査によれば、ネズミの目撃件数は徐々に減っている。成功と言っていいだろう。まあ、都知事はジェノサイドを望んでいたがね」
博士は小さく喉を鳴らして笑った。
「……いや」
「ん?」
「結局、ネズミの数自体は減っていないんだろ? それでは根本的な解決にならないじゃないか」
「ははは、確かにな。だが、飲食店にゴキブリがよく出るのは知っているだろう? 厨房や裏手にな」
「つまり、見えなければ気にしないということか……」
「そういうことだ。まあ、人前に出なくなるということは、ゴミを漁る機会も減るということ。食料が乏しくなれば繁殖力も低下する。結果として、数も減っていくというわけだ」
「なるほどな。案外、理にかなっているじゃないか」
男はうんうんと頷き、コーヒーをすすった。
舌に細く短い毛のような異物が触れたような気がして、眉をひそめた。
「……で、ネズミたちは今どこにいるんだろうな」
「下水道だろうな。ゴキブリを餌にしているだろう」
「となると、ゴキブリも減るわけだ。ははは、いい発明をしたな。どっちも嫌いなおれには助かる話だ。……しかし、世代を重ねるうちに人間に慣れてしまうことはないのか?」
「まあ、断言はできないが心配はいらないだろう。そのネズミの怯えぶりを見ただろう。人間に出会わない生活を続ければ、耐性がつくこともあるまい。下水道の点検員は別として、一般人の目に触れることはもうないはずだ――よし、やっと開いた」
「そうか。それなら安心だな。はははは!」
二人笑い合い、カップを軽くぶつけた。博士は菓子を口に運び、満足げに微笑んだ。
一方その頃、郊外の橋の下では、ネズミたちがごちそうに群がり、舌鼓を打っていた。
足の不自由なホームレスの寝床で――。




