マジックバッグと妖精
午後の森の道を歩いていた。
どこへ行くでもなく、ただこの足の向くままに。肩からかけた小さな茶色いバッグ。外から見れば何の変哲もないが、実は少しばかり特別な力を持っている――マジックバッグだ。もっとも、俺にとってはあまり役に立たない。正確には大抵の人にとってもあまり役に立たない。
このバッグは、最初に入れたものだけを、いくらでも取り出せる仕組みだった。もし最初に宝石を入れていたなら、一生遊んで暮らせただろう。黄金ならばさらに豪奢な暮らしが待っていただろう。けれど俺のバッグは……マドレーヌ。甥っ子が入れた菓子のおかげで、取り出せるのはマドレーヌだけ。
最初は頭を抱えた。けれど、今では少し気に入っている。甘い香りは旅の疲れを癒やすし、腹も満たしてくれる。
――それに、このマドレーヌがあったからこそ、俺は妖精ティナに出会ったのだ。
あの日。肩をちょんと叩かれた気がして振り返った。そこには何もいなかった。気のせいかと思った矢先、目の前に小さな少女が現れた。栗色のツインテールに薄桃色のワンピース、透き通る羽をひらひらさせた姿――まさか妖精が本当にいるとは思わなかった。
「お菓子、ちょうだい」
そう言われて、俺は思わず笑ってしまった。お菓子をねだる妖精なんて絵本の中だけかと思っていた。
バッグからマドレーヌを取り出して渡すと、彼女はぱあっと顔を輝かせて「美味しい!」と笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の中の何かがほどけた気がした。
名前を尋ねると、彼女はティナと名乗った。俺はハリー。旅の途中だと伝えると、彼女は迷いなく「ついていっていい?」と聞いてきた。断る理由なんてなかった。むしろ、独りきりの旅が少しだけ明るくなったようで、心の底からほっとした。
ティナは本当に好奇心のかたまりだった。道端の花に話しかけ、落ち葉を空に舞わせ、木の枝の鳥と歌を交わす。俺には見えなかった世界を、彼女はいつも楽しそうに示してくれた。
その姿を見ていると、俺がこの旅を始めた理由――家族の遺産分けのいざこざから逃げ出した苦い記憶も、ほんの少し和らいでいった。
あの午後の光景を、俺はいまでも鮮明に思い出す。
長いテーブルに弁護士が座り、分厚い遺言書を読み上げていた。重苦しい空気の中、兄も姉も、弟も妹もそれぞれ腕を組んで険しい顔をしている。
内容は単純だった。
兄には本宅と“マジックバッグ”。姉には別荘。俺には貸家三軒。弟と妹にはそれぞれ現金。公平かどうかはともかく、一応筋の通った分配だった。
だが――問題は、マジックバッグだった。
弁護士の口から「兄上にマジックバッグを」という言葉が出たとき、兄は静かにうなずいた。
姉と弟、妹からマジックバッグは兄のものになっても取り出したものは平等にわけるように主張しようと言われていたのだ。俺もそのつもりで、姉が切り出すのを待っていた。
ところが、そのときだ。
「坊ちゃま。行けません」と廊下で甥の乳母の声がした。
姉の息子――まだ十歳にも満たない小さな坊やが、勢いよく部屋へ入って来ると、机の上に置かれたマジックバッグをじっと見るなり、自分が持っていた紙袋を入れたのだ。
紙袋にはマドレーヌが入っていた。
甥っ子が乳母と一緒に買ってきたばかりのマドレーヌが詰まっていた。
俺たちは、全員が凍り付いた。
最初に怒鳴ったのは兄だった。
「馬鹿な……! 俺のバッグに、くだらん菓子を入れたのか!」
額に青筋を浮かべ、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
姉は、甥っ子を平手打ちした。甥っ子は乳母に抱き着いた。姉はその乳母を平手打ちした。
続いて、二度、三度。
ここで俺は動けるようになった。姉を羽交い絞めして止めた。
「姉上、姉上!姉上。いけません」
「止めなかったこいつがいけないのよ。こいつのせいよ」
兄は顔を真っ赤にしながら姉を睨みつけ、声を荒げた。
「殴ったところで、解決せん。このままでは割に合わん! 別荘をよこせ!」
姉は蒼白になりながらも必死に反論する。
「なによ、どうして私が――!それとこれは別よ」
「当然だ! 俺のバッグを台無しにしたんだ!」
口論は収拾がつかなくなり、テーブルの上に遺言書が広がったまま、親族の怒声だけが飛び交った。
俺は必死に姉を止め、兄をなだめようとしたが、誰も耳を貸そうとしない。
貸家三軒をあてがわれた俺にとっては、そもそもどうでもいいはずの争いだった。けれど乳母の震える背中や、泣き出した甥っ子の顔を見ているうちに、胸の奥がひどく重くなった。
気がつけば俺の口からは、こんな言葉がこぼれていた。
「……わかった。貸家を姉上にやるから。その代わり、このバッグは俺がもらう」
すると弟と妹が
「だったら貸家を一軒ずつ渡せ」と言い出した。
マジックバッグの恩恵がなくなったのだから、当たり前だと‥‥‥・
姉は一瞬言葉を失ったが、
「冗談じゃないわよ。三軒ともわたしのよ!お金貰ったくせにずうずうしい!」
ここで俺はいやになってバッグを取ると部屋を出た。
こうして俺は、何の価値もない。いや、マドレーヌ好きには価値のある、マドレーヌしか出ない“素敵バッグ”を手に入れたのだ。
やがてティナとの旅は、他の妖精たちをも引き寄せるようになった。マドレーヌの噂が広まったのだろう。
「わたしも食べたい」と、毎日のように新しい妖精が現れた。最初は驚いたが、彼らが楽しそうに頬張る姿を見ていると、俺の胸の奥まであたたかくなる。
「また明日もお菓子、ちょうだいね」
「もちろん。君のためなら、いくらでも」
そう答えると、別の妖精が「わたしには?」と小さな手で俺の腕を叩く。
「もちろん、君たちのお友達のためにも」
そう言うたびに、ティナは胸を張って「ね、ハリーってすごいでしょ!」と自慢する。俺は苦笑しながらも、その誇らしげな姿が嬉しかった。
◇◇◇◇
この時、ハリーは知らなかったが、妖精たちはこっそり、このマジックバッグに新たな魔法をかけていた。
このバッグはハリーが願うものはなんでも出してくれる”超素敵バッグ”に変わっていた。
そうとは知らず、ハリーはティナや妖精たちと笑い合いながら旅を続けている。
旅で出会った人々に気軽にマドレーヌを渡し、評判を聞いてやって来た妖精にマドレーヌを渡している。
バッグは静かに揺れている。中には無数のマドレーヌと、まだ見ぬたくさんの思い出と、そして――明日の笑顔が眠っている。
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