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血と月のワルツ

 夜の森に、静寂が満ちていた。

 月明かりが木々を照らし、風も鳴かぬその空間は、まるで時が止まったかのようだった。――だが、その静けさは、あまりにも唐突に破られた。


 ドサッ――! 


 崖の上から、ひとりの少年が転がり落ちてきた。血と泥にまみれたその身体は、枝をへし折り、岩をかすめながら、無残にも川へと叩きつけられる。激流に飲まれた彼の名前は、エメリク・ヴァン・ドラヴァン。


 白銀の髪に、月を閉じ込めたような青の瞳――

 誇り高きヴァンパイア貴族、ドラヴァン家の嫡男であり、王家にも匹敵する高貴な血を引く少年。しかも彼は、忌むべき“光属性”の力を宿していた。

 だが、その力ゆえに、エメリクは今――権力闘争のただ中に放り込まれ、命を狙われていた。


「くっ……こんな……ところで……っ」


 冷たい川の水が、容赦なく体温を奪っていく。

 震える唇。霞む視界。光属性の魔力が、かろうじて彼の体をかすかに輝かせていたが――それは癒しには至らなかった。ただ生きている証を微かに灯すだけ。


 そしてその灯火すら、岩にぶつかった衝撃で、今にも消えかけていた。

 ──同じ頃、川下。


 闇に溶けるように、一本の影が木々の間をすり抜けていた。

 黒いフードを深くかぶり、音ひとつ立てずに動くその少年の名は、カイ。魔族のシーフ。

 腰に提げた革袋には、数時間前に手に入れた“とんでもないブツ”――小さな国一つ買えるとも言われる巨大な魔石が収まっている。


「……追っ手が思ったより速いな。マジで厄介だぜ」


 木陰に身を潜め、カイは苛立ち気味に舌打ちした。

 魔石の気配を追ってきた魔術兵たちは、もうすぐそこまで迫っている。


 ――その時、川の方から「ゴトッ」という音がした。


「……ん?」


 カイがそっと顔を出し、川面を見やると――流れの中に何かが引っかかっていた。

 白銀の髪。血に濡れたマント。岩にぐったりと寄りかかる細身の身体。


「人間か……? いや、違ぇな。ヴァンパイア……しかも、光の気配だと?」


 一瞬で悟る。

 この少年――尋常な存在じゃない。


 魔族であるカイにとって、光属性のヴァンパイアなんてものは、天敵も同然の存在だ。

 普通なら、見て見ぬふりして通り過ぎる。むしろ、近づかないのが正解だ。


 ……なのに。


「……クソッ。俺って、ほんとお人好しかよ……!」


 カイは舌打ちしてから、フードを脱ぎ捨て、川に飛び込んだ。


 彼が引き上げたエメリクの身体は、冷え切っていて、まるで死体のようだった。

 だが、その胸に宿る小さな光だけが、かろうじて彼が生きていることを示していた。


「……助けて、何になるってんだ。俺の命だって、いくつあっても足りねぇってのに……」


 そう呟いたカイの背後では、闇の気配がすぐそこまで迫っていた。


 ————————————————————


 目を覚ましたとき、エメリクはまず“暖かさ”を感じた。

 血の気が引いた指先に、じんわりと温もりが戻ってくる。周囲を見回せば、岩肌に囲まれた小さな洞窟。その中央では、焚き火がぱちぱちと音を立て、頼りないけれど確かな光を灯していた。


 そして――その向こう。

 闇に溶け込むように座っていたのは、黒髪に赤い瞳の少年だった。


「……起きたか。お前、死にかけてたぜ。感謝しろよ、貴族の坊ちゃん」


 ナイフで木の枝を削りながら、彼――カイはぶっきらぼうにそう言った。

 その口ぶりにはどこかトゲがある。だが、何も知らない他人を助けた者のセリフにしては、妙に真っ直ぐで、不器用な善意が滲んでいた。


 エメリクは痛む体をゆっくりと起こし、冷え切った体に力を込める。


「……ここは? 君は、誰だ?」


 か細く、それでいて気品を失わぬ声音。

 高貴な生まれは隠せない。どれだけ傷ついても、身についた教養はにじみ出るものだ。


 カイは鼻で笑った。


「カイ。魔族のシーフだ。お前を助けたのは――気まぐれ、ってやつさ。で、そっちは?」


「エメリク・ヴァン・ドラヴァン」――そう名乗る前に、エメリクは一瞬、躊躇した。

 崖の上で自分を突き落とした“あの顔”が、脳裏をよぎる。家族の裏切り、政争の闇。

 誰が味方で、誰が敵かもわからない世界で、この目の前の少年にどこまで話していいのか――。


「エメリク・ヴァン・ドラヴァン。……事情は、複雑だ。だが、君が助けてくれたことには、礼を言う。ありがとう」


 形式的だが、真摯な言葉だった。

 だがエメリクは続けて問いかける。


「……けれど、ひとつだけ訊かせてくれ。なぜだ? 魔族が、ヴァンパイアを助ける理由があるのか?」


 その問いに、カイは一拍だけ目を細め――ふっと肩をすくめた。


「理由? そりゃあ……使えると思ったからだよ」


 そして、にやりと笑う。まるで商人が値踏みするかのような、どこか挑発的な笑みだった。


「お前みたいな貴族、どうせ生きる術なんか持っちゃいないって思ったけど……違った。あの状態で生き延びてたってだけで、尋常じゃない」


 カイはナイフの先で、ぱちんと枝を弾いた。


「ヴァンパイアってのは、身体能力も高けりゃ、頭もキレる。しかも夜目が効いて、魔力も扱えるんだろ? 逃亡中の俺にとっちゃ、そりゃあ……かなり魅力的な“同行者”ってわけだ」


 その言葉に、エメリクの眉がぴくりと動いた。


「……つまり、僕を“利用する”と?」


「利用って言うなよ、坊ちゃん。――これは“取引”だ」


 カイは革袋から、ずしりとした魔石を取り出した。

 それは月光を浴びて、妖しく輝き、洞窟の壁に踊るような光を落とす。


「俺はこれを、安全な場所まで運ばなきゃならない。……だけど、追っ手がしつこくてな。魔術兵に見つかりゃ、俺ひとりじゃどうにもならない」

「けど、お前がいれば話は変わる。夜に強くて、戦える。しかも、こっちの土地勘はねぇだろ? だったら俺の方が先導役ってことで、バランスも取れる」


 さらりと、しかし的確にメリットを並べ立てるカイ。

 その打算的な視線には、多少の警戒と――なぜか、それ以上に興味が混じっていた。


 エメリクは黙って魔石を見つめる。

 そこに映るのは、ただの逃亡者ではない。政治の闇を知り、裏切りを喰らった、かつての貴族社会の頂点――自分自身。


 今の彼には、選べる未来がほとんど残されていなかった。


「……いいだろう。取引、成立だ」


 静かに頷いたエメリクの瞳には、冷静な理性と――もうひとつ、確かな探るような光が宿っていた。


「ただし、僕の知識と力は、契約に値するものだ。中途半端な逃亡なら、こちらから契約を破棄させてもらう」


「へえ。言うじゃん、坊ちゃん」


 カイはニヤリと笑った。けれどその奥には、期待と警戒、そして、どこかくすぐられるような好奇心が見え隠れしていた。


 こうして、光と影の少年たちの逃亡劇が、静かに幕を開けた――。


 ————————————————————


 翌朝。森の奥深く、薄暗い木漏れ日の中を二人の少年が進んでいた。


 エメリクはまだ完全には癒えていない身体を引きずりながらも、一歩ずつ確かな足取りで歩いていた。体の奥で光属性の力がゆっくりと回復の魔力を循環させており、その輝きが彼の白銀の髪に淡く反射していた。


 カイはその隣を歩きながら、しきりに周囲の音に耳をすませている。目は常に動き、影の揺らぎや草の擦れる音に敏感に反応していた。


 そんな中で、ふと口を開く。


「……お前、ほんと貴族っぽいな。歩き方まで気取ってやがる。草の上でも姿勢だけは真っすぐってか?」


 エメリクは涼しい顔で返す。


「君こそ、魔族の割に口が軽い。シーフならもっと音を立てずに歩けないのか?」


「へえ、言うじゃねぇか、坊ちゃん」

 カイが肩をすくめ、枝を払いのけながら笑う。


「ただ歩いてるだけで“音がうるさい”って文句つける貴族様は初めてだぜ」


「ただの観察だよ。……まあ、耳が良すぎるだけかもしれないけどね」


 軽く牽制し合うような言葉のやり取り。噛み合っているとは言い難いが、不思議と互いに引かれるものがある。まるで違う音色の楽器が、いつしか即興の旋律を奏でているかのようだった。


 そんなやり取りをしているうちに、陽は徐々に高くなっていった。森の中の空気も、朝の冷たさから湿った熱気へと変わりつつある。


「……止まれ」

 不意に、カイの声が低くなった。


 エメリクも即座に動きを止める。草むらの奥で、かすかに獣の気配が揺れた。


 次の瞬間――茂みから飛び出してきたのは、猫ほどの大きさの黒い魔獣だった。甲殻を背負い、赤い目をぎらつかせたそれは、おそらく偵察型。人間の匂いを嗅ぎつけ、追っ手へと情報を伝える役割を持っている。


「早めに潰すぞ」

「了解」


 カイはすばやく身を低くし、ナイフを逆手に構える。その刹那、エメリクの指先が淡く光り始める。


 ――瞬間、カイが魔獣の横に回り込み、足を斬りつけて動きを封じた。


「今だ、坊ちゃん!」


「“煌閃 《こうせん》”――!」


 エメリクの手から放たれた光の刃が、魔獣の胸を一直線に貫いた。

 小さな閃光とともに魔獣は崩れ落ち、その身体はすぐに黒い灰となって消えていった。


「……見事な連携だな」

 エメリクが息を整えながら言うと、カイは少しだけ照れたように鼻を鳴らす。


「まあ、な。俺の足止めがあってこその命中だろ?」


「いいや、君の合図が遅れていたら、僕の詠唱も無駄になっていた」


「へえ? そうやってちゃんと返してくれるあたり、坊ちゃんにしては礼儀あるな」


「君も、魔族にしては口が悪いだけで、案外根はまともだ」


 ふたりは互いを見て、わずかに笑った。

 これまでの会話はどこかとげとげしく、警戒を滲ませていたが、今は違う。共に戦い、背中を預けた経験が、その距離をほんの少しだけ縮めていた。


 ――陽が西に傾き始めたころ、ふたりは森の奥の静かな空き地に辿り着いた。


 カイが手早く焚き火の準備をし、エメリクは魔力の流れを整えるように静かに目を閉じる。火が灯ったころには、森の上空には夜の帳が下り始め、星々が一つ、また一つと顔を出していた。


「なあ、エメリク」

「なんだい?」


「今日のアレ、偵察魔獣だろ? ってことは、追っ手は近い。……明日はもっと派手なのが来るかもな」


 エメリクは、焚き火の光に照らされながら、静かに頷いた。


「……その時は、君の“うるさい足音”で敵を攪乱してもらおうか」


「……こら坊ちゃん。そういうのは“皮肉”って言うんだぜ」


「もちろん、君の専売特許だろう?」


 笑い混じりのやりとりが、夜の静けさに消えていった。


 ————————————————————


 森の奥、木々の隙間から漏れる月の光が、ふたりの少年の影を淡く地面に落としていた。


 エメリクとカイは、追っ手の気配をかわしながら、足早に獣道を進んでいた。だが、エメリクの足取りは重く、時おりバランスを崩して木に手をつく。光属性の魔力で外傷は癒えつつあったが、心の痛みは、魔法の癒しでは追いつかない。


 小さな岩陰を見つけ、ふたりは短い休息を取ることにした。


 カイは革袋から干し肉を引っ張り出し、無造作に半分ちぎってエメリクに放った。


「ほら、食っとけ。そんな死人みたいな顔見てると、こっちまで気が滅入る。」


 エメリクは干し肉を受け取りながら、少しだけ眉をひそめた。


「……君は、なぜあの魔石を盗んだんだ? 命懸けで動く理由が、ただの金目当てってわけじゃないだろ?」


 カイの手が一瞬止まった。焚き火の炎が揺れ、赤い瞳がぼんやりと光る。どこか遠くを見つめるような目だった。


「金目当て……で済ませといた方が話が早いんだけどな。ああ、面倒くせぇ。」


「面倒くさい、か。」


 エメリクはそう呟いて視線を落とす。干し肉を握ったまま、炎の向こうを見つめていた。


「……僕には、家族がいた。ドラヴァン家の嫡子として育てられて……皆が僕を信じてくれてるって、疑いもしなかった。でも、政争の道具にされて、信じてた人たちに……崖から突き落とされた。川の底に沈んでいくとき、全部が終わったんだって思った。」


 その言葉に、カイの表情がわずかに変わった。


「へぇ。貴族の坊ちゃんでも、そういう裏切られ方すんのか。……想像できねぇけど。」


 口調は軽い。でも、その奥にある声色はどこか冷たく、鋭かった。


「……君には、分からないと思うよ。信じてた分だけ、深く刺さる。愛されてるって思ってた分だけ、裏切られたときの痛みは……本当に、消えない。」


 カイは鼻で笑った。だがその指先は、無言で地面にナイフの先を走らせていた。


「信じるとか裏切るとか、そういう話は俺にはどうでもいい。……けど、魔石を盗んだ理由が聞きたいってんなら、教えてやるよ。」


 ナイフの動きが止まる。


「母さんが病気なんだ。魔族の集落じゃ、医者も薬もまともに手に入らねぇ。金さえあれば、少しでも望みがある……それだけだ。」


 エメリクははっとして顔を上げた。カイの声には、いつもの軽さとはまるで違う、切実な熱があった。


「……お母さんを助けるために?」


「当たり前だろ。俺にとって、家族ってのはそういうもんだ。守るもんだ。」


 カイはナイフを鞘に戻し、焚き火に新しい薪を投げ入れた。火が小さく弾ける。


「お前の家族がどれだけクソだったかは知らねえ。でも、生きてんだろ? まだ動けるんだろ? だったら、止まってる場合じゃねえよ。」


 その言葉に、エメリクの胸がじわりと締めつけられる。


 自分はすべてを失ったと思っていた。けれど、カイは一人の母親のために、自分の命を張っている。そのシンプルでまっすぐな想いが、エメリクにはまぶしくて、痛かった。


「……君は、強いな。」


 エメリクの声はかすかに震えていた。


「僕は……何のために生きてるのか、わからなくなった。君みたいに、信じられるものがあったら、違ったのかもしれないのに……」


 しばらく沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音だけが、森に響く。


 カイがふっと立ち上がり、手を差し出した。


「泣き言はまた今度な。追っ手は待ってくれねぇ。動くぞ、坊ちゃん。」


 その手に、エメリクは少し戸惑いながらも触れた。温かくて、力強かった。


「……君は、なぜ僕をそこまで気にかけるんだ? 取引って言ってたはずだろ?」


 カイは肩をすくめ、口元をゆがめて笑った。


「取引は相手が生きてなきゃ成立しねぇし、何より……お前、放っとくとすぐ潰れそうな顔すんだよ。見ててムカつくっつーか……ほっとけねぇだけだ。」


 その言葉に、エメリクは思わず吹き出して、小さく笑った。


「……君は、本当に変な奴だな。」


「変なのはお前だって。光のヴァンパイアなんて、そもそも設定からしておかしい。」


 カイはそう言いながら歩き出し、エメリクもその背中を追った。


 月明かりの下。ふたりの影が、森の中にゆっくりと伸びていく。

 まだ遠い未来の話だけれど――確かにそこには、始まりかけた絆の光があった。


 その夜、追っ手の気配が再び迫ってきた。森の奥から、低く唸るような犬の遠吠えが風に乗って届く。エメリクは肌に走る冷たい感覚に、魔族の追跡者たちが魔石の魔力をたどってきていることを悟った。


 彼は両手を組み、薄く光る魔方陣を地面に描く。即席の結界が淡く森を包み、魔石と自身の光属性の気配をそっと隠す。


「すげえ、魔石の気配が消えた。俺でもわかる。」


「即席だから、まだ不安定だけど……今はこれで持つはず。」


「これ、持ってろ。」カイは腰の鞘から短剣を抜き、エメリクに渡した。そして自らは背中の弓を引き抜き、矢を一本つがえる。「体力は残ってるか? 無理なら下がってろ。」


 エメリクは短剣の冷たい感触を感じながら、しっかりと握りしめた。「……戦える。君が母親のために戦うように、僕も……生きる理由を見つけるために戦うよ。」


 その言葉に、カイは一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに口角を上げてニヤリと笑った。「いい目だ。なら、行こうぜ。俺とお前で、追っ手をぶっ飛ばす!」


 その瞬間、森の闇を裂いて、ダークハウンドの群れが姿を現した。黒い毛並みは月光に鈍く光り、紅い瞳が二人を睨みつける。その数、五体。牙を剥きながら、低く唸り、円を描くように二人を取り囲む。


「来るぞ!」カイが叫び、最初の矢を放った。音もなく飛んだ矢が、一体のハウンドの肩に突き刺さる。獣が苦痛に吠えると同時に、もう一体がエメリクに飛びかかった。


「《閃光槍 (フレアスピア)》!」エメリクが詠唱を終えると、まばゆい光の槍が彼の掌から放たれ、空中のハウンドを貫いた。火花のように飛び散る光が周囲を照らし、他の獣たちが一瞬ひるむ。


「目、やられた奴がいる! 今だ!」カイが駆け出し、回り込むようにして一体のハウンドの背後を取る。鋭く振るわれた短剣が喉元に深く食い込み、黒い血が地面に弧を描いた。


「後ろ!」エメリクが叫び、すぐさま魔法で光の壁を生み出す。《護光盾 (シールド・レイ)》が一瞬のうちに形成され、背後から飛びかかってきた別の獣が跳ね返される。


 カイはその隙にもう一矢放ち、跳ね返された個体の眼を撃ち抜いた。悲鳴とともにハウンドが崩れ落ちる。


「残り二体!」息を切らしながらエメリクが叫ぶ。傷ついた体は悲鳴を上げていたが、集中を切らさない。


「任せろ!」カイは地面を滑るように駆け、木の幹を蹴って跳び上がり、最後の二体のうち一体の背に飛び乗った。乱れ咬みに構わず短剣を突き立て、悲鳴をあげさせる。


 最後の一体がエメリクに狙いを定めて飛びかかる。その刹那、エメリクの足元から放たれた光が地を這い、獣の脚を絡め取る。《束光の罠 (グリムバインド)》――動きを封じられたハウンドに、カイがすかさず駆け寄り、渾身の一撃を見舞った。


 静寂が戻った。暗闇の中、ただ二人の荒い息づかいだけが響いていた。


「はっ、やってやったぜ……!」カイは得意げに息をつき、短剣を振って血を払った。「お前も悪くねえな、坊ちゃん。光の魔法、派手でいいじゃん。」


 エメリクは疲れた表情のまま、わずかに笑った。「……君の動きも、驚くほど鋭かった。まさか魔族のシーフがここまでとは。」


 だが、彼の声には限界の色が滲んでいた。心の傷は少しずつ癒え始めていたが、肉体は崖からの落下と激しい戦闘で、もはや限界に近い。


 それでも――カイの無骨な励ましと、命を賭けた並走が、エメリクの中にひとつの確かな感情を灯していた。


 希望。

 それは微かだが、確かにそこにあった。


 ————————————————————


 それから数日、カイとエメリクはひたすら森を進み続けた。昼夜の区別も曖昧なほど鬱蒼とした森は、初めてなら一日もかからずに道を見失うだろう。しかしカイは、獣道の痕跡を読み、苔の向きを見分け、まるで森そのものと会話するかのように迷いなく進んでいった。


 いくつかの戦闘を乗り越え、ようやく魔族の追手の気配も消えつつあった。目的地の村も間近に迫り、二人は木陰に腰を下ろして、束の間の安堵を得ようとした。


 そのときだった。


 不意に、森全体が凍りついたかのように静まり返る。風が止み、虫も鳴かず、木々の葉さえ微動だにしない。


「……なんだ、この感じ」


 カイが不安げに呟いた直後、空から異様な羽音が響いた。風を切る音というより、重たい石が無理やり空を裂いているような、重苦しい振動。二人が反射的に見上げたその先――


 月を背に、巨大な影が舞い降りる。灰色の石のような身体、岩肌のように硬質な翼。鋭く伸びた四肢の爪と、鉱石のように鈍く輝く牙。その瞳には血も感情もなく、ただ冷たい殺意だけが宿っていた。


「ガーゴイル……!」エメリクの声が震えた。


 それはただの魔獣ではない。貴族の中でも位階の高い魔導士しか使役できない、封印級の飛翔魔獣。生半可な攻撃など通じない、まさに“討伐対象”クラスの怪物だった。


「くそっ、なんだあれ!?」カイが叫び、即座に矢を放つ。しかし矢は、ガーゴイルの胸に当たった瞬間、金属音を立てて跳ね返った。石と金属の混合装甲――矢どころか剣でも貫けるか怪しい。


「ちっ、効かねえ!」


 エメリクもすぐに《閃光槍 (フレアスピア)》を放ち、ガーゴイルの片翼を狙った。だが、信じられないことに、あの巨体がまるで紙のように軽やかに空中でひるがえり、光の槍を回避した。


 次の瞬間、獣のような唸り声と共にガーゴイルが急降下する。爪が空気を裂き、まるで一撃で人間の上半身ごと引き裂くかのような殺意を帯びて迫った。


「エメリク、下がれッ!」


 カイが身を投げ出してエメリクを突き飛ばし、自らがガーゴイルの攻撃を受けた。岩壁に叩きつけられる轟音が響き、カイの肩が不自然に曲がり、赤い血が服の下から滲んだ。


「ぐっ……!」


「カイ!」エメリクが叫ぶ。


 しかし、追撃が止まらない。ガーゴイルは岩肌を蹴り、その巨体からは信じられないスピードで二人に迫る。まるで地面と空を自由に行き来する死神のようだった。


「坊ちゃん、こいつ……やばい。お前の光の魔法でも、倒せそうにねえ……!」


 カイの苦しい声が響いた。彼の目は恐怖を隠していたが、明らかに追い詰められていた。


 エメリクも悟った。確かに光属性の魔法は高位に分類されるが、相手の魔抗性が異常に高い。放った光の刃は表面をかすめただけで焼け焦げすら残らない。どれほどの魔力を込めようと、決定打にならない。


 このままでは、ふたりとも殺される。


 絶望の淵で、ふと、エメリクの視線がカイの腰の革袋に留まった。そこには、あの魔石があった。


 思考が急速に巡り、ある可能性が脳裏に浮かんだ。


「カイ……君の血を、飲ませてくれ」


「はあ!? 何言って……今、なんて!?」


 カイが目を見開く。だがエメリクの瞳は真剣だった。切迫し、追い詰められ、けれど――諦めてはいなかった。


「お願いだ……君の血が、魔石の力を起こす鍵になるかもしれない。僕に……賭けさせてくれ!」


 唸り声が、再び空を裂いた。ガーゴイルは月を背に、殺意の矛先を定めて、再び降下を始める――!


「時間がない!」

 エメリクの声が、ガーゴイルの咆哮の中を切り裂くように響いた。

「ヴァンパイアは血を通じて魔力を増幅できる。君の血に宿る魔族の力と、この魔石があれば……無属性の魔法を引き出せるかもしれない!」


 カイは眉をひそめた。「マジかよ……気持ち悪いな、おい」

 だが、空から迫る死の影を見上げ、彼はため息をひとつついた。「……くそっ、やれ! でも、変なとこ噛んだら殺すからな!」


 エメリクはわずかに笑みを浮かべ、カイの前に跪いた。


「ありがとう。……すぐ終わる」


 月明かりが二人を照らす中、カイは首元の襟を少しだけ下げ、視線をそらした。赤い瞳がかすかに震える。それでも彼は逃げなかった。エメリクが静かに顔を寄せると、カイの鼓動が肌越しに伝わってきた。


「……少し、痛いかもしれない」


 その囁きとともに、エメリクの唇がカイの首筋に触れた。そこには、一瞬の迷いと、静かな決意があった。牙が肌をわずかに破る。途端に、鉄のような香りとともに、熱を帯びた命の奔流がエメリクの中へと流れ込んできた。


 カイはかすかに息を呑み、肩を震わせたが、声を上げることはなかった。ただ、ぎゅっと拳を握りしめ、耐えていた。


 その血は、想像以上だった。

 熱く、濃く、荒々しく、どこか寂しげで、温かい。

 まるで彼の心そのものが、エメリクの中に流れ込んできたようだった。


 やがて、エメリクの瞳が金色に輝いた。

 光と闇、生命と死、希望と絶望。あらゆる相反するものが混ざり合い、彼の内にひとつの「核」を形作っていく。


「……ありがとう、カイ」

 囁くように呟き、エメリクはそっと口を離した。唇の端に紅い雫を残したまま、立ち上がる。


「離れて。今、放つ!」


 両手を前に突き出し、エメリクが解き放ったのは、あらゆる属性を超越した、純粋な「力」だった。

 光にも似て、闇にも似て、けれどそのどちらでもない――澄んだ魔力の奔流が空を裂き、ガーゴイルの巨体を貫いた。


 石の皮膚が砕け、月の下に黒い塵となって崩れ落ちる。


 静寂が戻った森で、二人の少年だけが息を切らし、立っていた。

 ――ひとつの命が、もうひとつの命を救った、その余韻の中で。


 ————————————————————


 森に静寂が戻った。

 まだ息が整わぬまま、二人はしばらく見つめ合った。


 カイは首筋を押さえながら顔をしかめ、怒鳴るように言った。

「…ったく、めっちゃ痛ぇじゃねえか! 次はねえからな、次は!」


 けれどその頬は、ほんのり赤い。

 エメリクは苦笑し、ふらりと膝をついた。


「すまない。でも、君のおかげで助かった。……ありがとう、カイ」


 カイは舌打ちして、そっぽを向いた。

「感謝なんていらねえよ。だったら――ちゃんと生き延びて返せよ、坊ちゃん。まだ、終わってねえんだからな」


 エメリクは小さく頷き、ゆっくりと立ち上がる。

 カイの血から得た魔力は、確かに彼の中に新たな力を生んだ。

 だがそれ以上に、不器用なその言葉が、彼の胸に小さな灯をともしていた。


 木々の隙間から月光が降り注ぐ。

 砕け散ったガーゴイルの残骸が、まるで嘘のように静かに転がっていた。

 安堵の余韻も束の間――


「くそっ! やべえ!」

 カイが突然叫び、慌てて革袋を開けた。

 中を覗き込んだ彼の顔が、次の瞬間、青ざめる。


 魔石は、ひび割れ、中心から粉々に砕けていた。

「……マジかよ、これ……使い物にならねえ……」


 その声は、今にも崩れそうなほど震えていた。

「母さんの治療費……これしか手段なかったのに……」


 カイはその場にしゃがみ込み、拳を握りしめた。

 彼の瞳には、初めて見せる弱さが滲んでいた。


「……すまない、カイ」

 エメリクはそっと肩に手を置いた。

「僕のせいで、君の大事な魔石を――」


「違ぇよ!」

 カイは荒々しく手を振って遮る。

「お前のせいじゃねえ、誰のせいでもねえ……戦闘中の事故だ。仕方ねえ……でも、俺……どうすりゃ……」


 その声は、もはや苛立ちでも怒りでもなかった。ただ、深い絶望の色をしていた。


 エメリクは目を伏せ、静かに胸元に手を伸ばす。

 指先が触れたのは、革紐に吊るされた小さなガラス瓶。

 家宝――ドラヴァン家に代々伝わる「エリクサー」。

 光の祝福を宿した、黄金色の神薬。どんな病も、どんな傷も癒す奇跡の滴。


 その価値を、彼は知っていた。けれど、それよりも大切なものが、今、目の前にいた。


 躊躇のあと、エメリクはネックレスを外し、カイの前に差し出した。


「これを、君に」


 カイは目を見開いた。「……は?」


「君の母親を救ってくれ。これは“エリクサー”だ。君の願いを叶える力がある」


 カイはまるで嘘のように、そっと瓶を受け取った。

 月光の下、黄金の液体がかすかに輝き、森の空気を震わせた。


「……本気か? これ、貴族の家でも一瓶しかねえっていう伝説の……お前、そんなもん、タダで渡していいのかよ?」


 エメリクは穏やかに微笑んだ。


「君が命を懸けて、僕を助けてくれた。その恩に比べれば、物の価値など取るに足らない。君の大切な人を、守ってくれ。それが、僕の願いだ」


 カイは、何も言えなかった。

 ただしばらくネックレスを見つめ、それから照れ隠しのように鼻をこすった。


「……ったく、貴族の坊ちゃんってのは……ほんと、バカみてえに真っ直ぐだな」


 そして、カイは小さく笑った。

 その笑顔はどこか幼く、けれど確かにあたたかかった。


「……ありがとな、エメリク」


 ————————————————————


 夜が白み始める頃、二人はようやくカイの故郷にたどり着いた。

 森を抜けた先、小さな谷間に寄り添うように佇む魔族の集落。

 粗末な木造の家々が並び、静かに煙の立ちのぼる屋根の向こうに、一日の始まりの気配が漂っていた。


 カイは手にしたネックレスをぎゅっと握りしめながら、村の奥へと続く道を見つめていた。

 その先には、病に伏した母が待つ家がある。

 エメリクは、村の入り口で歩みを止め、黙ってその背を見守った。


「ここでいいのか、坊ちゃん?」

 カイが振り返り、気安い調子で問いかける。

「お前の追っ手、まだウロウロしてるかもしれねぇんだろ?」


 エメリクはゆっくり首を振った。

「君には帰る場所がある。助けたい家族がいる。これ以上世話になる訳にはいかない。僕の戦いは、僕のものだ。……それに、この近くには知人もいるんだ。だから、心配しないで」


 カイはしばし無言で彼を見つめ、ふっと口角を上げた。


「世話、か。……まあ、お前も俺をだいぶ助けてくれたし。チャラってことで、いいだろ」


 そう言って、ネックレスを掲げる。月明かりを受けて、黄金のエリクサーが微かに煌めいた。

 だが次の瞬間、カイはその手を引っ込め、代わりに腰に下げた愛刀をエメリクの胸元に押し当てた。


「これは……?」


「貸すだけだ。俺の父ちゃんの形見だ」

 カイの声には、いつになく真剣な響きがあった。

「エリクサーの代わりにはなんねえけど――お前の旅の役には立つはずだ」


 エメリクが返す言葉を探しているうちに、カイは肩をすくめ、照れ隠しのように笑った。


「じゃあな!」

 そして、そのまま背を向けて村の奥へと駆け出していった。


 彼の背中は、次第に朝靄に包まれていく。

 けれど、その足取りはどこまでも軽やかで、まるで月明かりの中に溶けて消えるようだった。


 エメリクは、姿が見えなくなるまでその背を見つめていた。

 胸の奥に、まだ癒えぬ痛みが残っている。家族の裏切りという、深く冷たい傷。


 だが――カイと過ごした短い旅路が、その傷にほんの少し、温もりを注いだ気がした。

 痛みは消えない。けれど、それを抱えたままでも、また歩き出せる気がする。


 森の出口で、エメリクは空を仰いだ。

 朝焼けが東の空を赤く染め、その光が白銀の髪を優しく照らす。


「生きる理由……か」

 ぽつりと、誰に向けるでもなく呟く。


「カイ。君のおかげで、少し見えてきた気がするよ」


 彼は一歩、森の外へと踏み出した。

 風が頬を撫でる。木々のざわめきが背を押す。


 その背後には、あの少年の不器用な約束の声が、いつまでも温かく響いていた。

「――で、その時カイは言ったんだ。『お前が困ったら、どこにいても絶対駆けつける』ってね」

 語り終えた青年は、柔らかな笑みを浮かべながら、椅子の背にもたれた。


 初夏の午後、王都の離宮。

 バラの垣根に囲まれた中庭では、数人の親戚の子どもたちが輪になって座り、美しく成長したエメリクの話に目を輝かせていた。


「えー、魔族なのに助けてくれるの? 変な人だね」

「その人、今どこにいるの?」

「で、その刀はどうなったの?」


 とびきり好奇心旺盛な少年が次々に質問を投げかけると、エメリクは楽しそうに笑いながら腰に手をやった。

 そこには、今も変わらず吊るされた細身の刀――カイが貸してくれた形見だった。


「ここにあるよ。まだ返せてないんだ」

 そう言って、軽く刀を掲げると子どもたちは歓声を上げた。


「この刀は、僕の命を救ってくれた大切なお守りだよ。戦いに行く時は、いつも身につけている」


 彼の視線は再び子どもたちに戻り、穏やかな声で続ける。


「君たちには、戦いよりもっと大切なことを学んでほしい。歴史も、魔法も、そして何よりも『人を思いやる心』をね」


 子どもたちはうなずきながら目を輝かせ、エメリクの周りに寄り添った。


 石造りの城壁の向こうでは、密かに政権の火花が散っていることも、彼はまだ知らない。


「最近、ちょっと気ぜわしい話も耳にするけど……」そう小さく呟いたが、すぐに笑顔を取り戻した。

「でも、今はみんなとこうして過ごせる時間が、僕にとって何よりの宝物なんだ」


「じゃあまたお話聞かせて!」

「カイって人、会ってみたいなー!」

「刀、もっと見せてよ!」


 子どもたちの無邪気な声に包まれ、エメリクはゆっくりと立ち上がり、一人ひとりの頭を優しく撫でた。


 彼の銀髪が柔らかな風に揺れ、穏やかな光が差し込む。

 まだ彼の心には、近づく嵐の気配は届いていなかった。

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