間章1 終戦~ベルサイユ条約~ミュールーズ条約
間章は、アドルフ・ヒトラーの以外の視点や歴史的な補足資料を提示する形にします。
終戦
「この世界は、燃え尽きたりなどしなかった」 ~終戦を知ったある市民~
「こうして、戦争を終わらせるための戦争と呼ばれたグレートウォー。後に世界大戦と呼ばれるようになるこの戦争は、いったんの終戦を迎えたのです」 ~後世の歴史教科書~
【摘要】
1918年7月 これまでの戦闘により、もはや戦争を継続する能力は完全に喪失したと判断したドイツは、正式に通称連合国に停戦を提案し、各国は同意した。
1918年7月22日 ドイツ国内にて終戦演説が行われ、かねてより蟹居状態にあったドイツ皇帝のヴィルヘルム2世の去就を定める議会にて、全会一致で皇帝退位並びに今後の講和会議にて生じる戦争責任のすべてを負わせるという議案が可決された。これに不服を申し立てるだけの力は、すでにヴィルヘルム2世にはなく、8月1日をもって正式に皇帝の座より退き、ここにドイツ帝国が終焉を迎える。新たにドイツ共和国が誕生し、ベルサイユにて行われる講和会議に出席を行うことになった。
ベルサイユ条約
「会議は踊る、されど進まず」 ~ベルサイユ条約を揶揄する当時の新聞記事~
「よくよく考えれば、不穏を孕む種と言えるものはこの時点で存在していた。芽吹くはずなどありえないとみなが勝手に思っていた」 ~とある国家の使節外交団団長~
【摘要】
1919年1月初頭 終戦から、約半年後。ベルサイユには、各国使節団が続々と入場していた。その面持ちは、皆一様に固いく、また、昏い表情をのぞかせている。
それは、当然のことだろう。人類史が始まって2000年。戦争と平和を繰り返すこの歴史に、不意に現れたものは、人類を焼き滅ぼしかねない悪魔のような戦争であった。今まで多くの戦争で、指揮官が、君主が、国王が、皇帝が。敗北し、罰せられ、すべてを失い、表舞台から消えていった。そのような些末な戦争ではない。国民が、国家が、そして、世界が。分断され、憎しみあい、己のすべてをなげうった。戦死者は1000万にを超え、戦火に焼かれていない国など存在しない。
それでも、人は考えてしまうのだ。この戦いで失ったものに、誰が責任を取るのかと。誰がこの結末を描くのかと。
列強と言われた国々は、その罪科に目をふさいだ。まずは、戦勝国同士だけでも親密を図るために、そして、大きすぎる犠牲から目をそらすために、犠牲に慰めを与えるために。連日、華やかな舞台を用意し、談笑するテーブルの下に昏い話題を忍ばせた。
そして、遅れること1か月。ようやくにその場の主役が現れた。その主役の登場は祝福されたものではなく、そう、例えるのならば、謝肉祭にてふるまわれる七面鳥がようやく到着したようなものだった。
ドイツ使節団と共に現れた元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、その時の様子をこう語っている。
「もし、この場にかの平民宰相がいれば、状況は変わったかもしれない。もし、この場に、あの陸軍元帥がいれば、状況は変わったかもしれない。もし、この状況に君たちに挑む。もしくは耐えることができたのならば、私も状況を変えるために努力を行っただろう。
だが、君たちは、折れた。
君たちがこんな有様では、私の命など無意味であると。
私は意味なく断頭台の露と消える趣味など持たない。
故にだ。私は、後世にて、どんなに暗愚と罵られようとも。私は、後世にて、どんなに独善的で生き汚いと罵られようとも。自らの身と命を自らに手護ることにしたのである。」
~元ドイツ帝国皇帝 ヴィルヘルム2世~
「交渉で最も忌避すべき行いは、初手の内に相手に御しやすいと思われることだ。」 ~ある交渉の鉄則~
ミュールーズ条約
「これは、必要な行為である。今後我々が、我々の次の世代が安心して生き残るための。」 ~フランスのある高官~
【摘要】
1919年10月21日 フランスとドイツによって交わされた講和条約。ベルサイユ条約にて定まっていたラインラント非武装に加え、ザクセン州の一部をフランスに割譲する条約。多くの通商同盟国の反対もあったが、フランスは押し切り、すでに外交的・軍事的な圧力に抗うすべもなかったドイツはその条約に調印せざるおえなかった。
【経緯】
1919年2月22日 フランスは、ドイツとの講和条約締結について、長い目で確認する必要があるとコメントを行った。
1919年4月26日 フランス使節団は、予定されていたドイツの場には現れなかった。これに、ドイツが抗議すると、本国との連絡のため、しばらくの間、交渉を凍結するとのみ回答があった。止むおえず、ドイツはイギリスと交渉を行ったとされている。
1919年5月1日 フランス使節団ベルサイユより退所。その後の交渉は、フランス外務省が引き継ぐことで決定。突然の変更に、ドイツのみならず戦勝国内でも疑問の声が上がる。
1919年5月10日 ベルサイユにおいては講和条約締結への準備が進む中、ラインハルト駐留地よりフランス軍とエジット(フランスの超人同盟組織)がライン川を渡河し、ザクセン州フライベルクに侵攻を開始。すでに戦闘力を失っていたドイツの国境警備隊と守備隊は、圧力に耐えきれず壊滅。民兵に対しても攻勢を加えながらわずか10日後にはフライベルクを包囲するに至った。これに対して、ドイツより抗議の声が上がったが、「現在、我々がドイツと停戦交渉を行っているのは、先の戦争における安全保障条約による協商連合国として戦ったドイツとの戦争についての講和条約である。ドイツはフランスに独自に宣戦布告しており、フランスは当該宣戦布告に対しては、現在に至るまで、一切の交渉を行っていない。故にドイツとの戦争は継続している。諸国に終わらせように干渉をうけるいわれはない。」と返しており、交渉は完全に決裂している。
1919年6月28日 ベルサイユ条約締結。
1919年7月20日 フライベルク陥落。多くの市民を巻き込んだ戦闘が行われたが、フランスはパリ虐殺を盾に取り、ドイツの反論を完全に無視した。また、ドイツの降伏条件を確認するため使節団を、フランス ミュールーズに派遣するように依頼し、もし派遣がない場合には、さらに東進する用意があると告げる。
1919年7月25日 フランス ミュールーズにドイツ使節団到着。
1919年8月2日 フランスがドイツとの個別講和交渉を行う。
1919年9月某日 大枠で合意。講和条約名は、ミュールーズ条約とする。
1919年10月21日 ミュールーズ条約締結。(発効は1920年1月10日 ベルサイユ条約と同じとなる)
【内容】
ベルサイユ条約に加え、さらに独自の制裁を科す内容となっている。以下に特筆すべき大きな3点を記載する。
1.ドイツ共和国は、フライベルク以西のライン川流域の領土について、フランスに割譲する。(加えて、ベルサイユ条約と同額の賠償金をフランスに支払う。という条件だったが、2倍の賠償金支払いには耐えられないと判断したドイツ使節団は領土の割譲のみを提案し、フランスが受け入れた形になっている)
2.ドイツ共和国は、自国の有する超人については、フランスにすべての情報を提供しなければならない。また、情報の提供に遅滞があってはならない。
3.ドイツ共和国は、自国の有する超人の国外移動を許可してはならない。フランス及びその同盟国の同意なくしては国外に出ることを禁ずる。もし、この条項に違反があった場合、フランスの同盟国はドイツに対して宣戦布告なく攻撃を行ってもよい。その際に投じられる戦力については、一切の制限を設けない。
という、ドイツにとっての大きな不平等条約となっている。
「やりすぎだ。
勝敗が決した後、勝者は、敗者に対してどれだけ無作法に取り立てても良い。という前例を作るつもりか。」 ~ある国の外交官~
「いかに批判されようとも、鷹より、爪をそぎ落とし、羽をもぎ、目を潰し、くちばしを砕ききってこそ、我々の安全は保障されるのだ。そこに一切の躊躇はあってはならない。」 ~フランス使節団 ある国の外交官に応えて曰く~
「歴史においては、この条約はドイツに再生不可能なほどのダメージを与えただけでなく、後にフランスにも同程度のダメージを与えることになることは、歴史の皮肉と言ってもよいだろう」 ~現在の歴史教科書の記載による~