1921年2月15日 東京某所
暗い森の果てに、光を見た。それは、滴り行く木漏れ日。日の光がそこにだけ注いでいるような幻想的な空気であった。
アドルフ・ヒトラーは、ゆっくりと両の眼を開いた。カーテンを閉じ忘れ眠ったであろう窓より、優しき金の光が部屋の中に注ぎ込まれたいた。月の光。時計を見ると、3時を少し過ぎたころであった。半身を起こすと、肌寒さを少々感じた。それは、気温の変化だけではない、つい先日の再訪した、あの神秘的な場所で感じた違和感。そして、先ほど見た夢。
「私は……残骸か」
そう悪態をつく。かの海軍大佐とは、もう一度会うことなる。あの時の自分の顔を思い出し、ふっと口角を上げた。ゆっくりとベッドから起き上がるとテーブルの呼び鈴を鳴らそうとして、……手を止めた。
なんとなくではあるが、待っているのはもったいないような気がしたからである。
着ていたナイトローブを脱ぎ、負担着に着替える。洗面器の隣に座しているピッチャーからコップに水を灌ぐと、口をゆすぐ。今度は手に取り顔を洗う。タオルで水滴をふき取ると、姿見に向かう。ゆっくりと、いつもの様子になるように身仕立てをしていく。何度かやり直しながら、しばし立つといつもの姿が映っていた。今の己。アドルフ・ヒトラーそのものだ。
「ふっ。残骸とて、外に出るのには、身支度は必要だろう」
ジャケットを羽織り、ドアに向かう。思わず口から出た言葉に自虐的な笑みを浮かべるとゆっくりとノブをまわした。
コーヒースタンドを目指し歩く。アドルフ・ヒトラーに、もう、眠る気はなかった。昨日の出来事を整理しておきたかったし、それに、あんな夢を見たから。睡魔は、もはやどこかに行って消えてしまっていた。
コーヒースタンドから光が漏れているのを確認しそのドアに手をかけた。その店にいたのは、店主と暇そうにしてるウエイターのほかには2人の客だけだった。自分以外にも眠れないものがいたものだと少し共感を感じながらテーブル着くとすぐにウエイターが注文を取りに来る。いつものように注文をすると、少しだけほっと息を吐いた。コーヒーが来るまでの間、その客を観察する。それは、実に変わった装いの者だった。顔つきなどこそは、この一か月の間で見慣れた日本人そのものであった。
ただ、一人は、昔の写真でしか見たことのない袴を着て、その頭には黒々と光るちょんまげが乗っていた。もう一人は、初老に達している人物。こちらは、対照的におそらく仕立てたばかりのであろうスーツを着込んでいる。そして、なぜか嗅ぎなれた匂いが鼻腔を突くような気がした。二人はついさっき軽食を取った後らしく、その前には舞台からの退場を待つ空になった食器が置かれた盆置かれていた。その横には、次の主役であろう、食後のコーヒーが湯気を立てている。
その様子を見ているとアドルフ・ヒトラーの前にもコーヒーが運ばれてくる。ソーサーが置かれ、上等な白磁のカップに黒い液体が注がれる。黒い水面に生まれる波紋。それは、先日のことを思い出させてくれた。あの奇怪な場所の記憶を。
1921年2月14日 早朝
先日の苦労はいったい何だったのだろうかと、思うほどの拍子抜け。その場所は、その張り詰めた空気はそのままに、アドルフ・ヒトラーを歓迎しているようだった。否、だからこそ、そこにいたのは実に奇怪なものだった。
中世の絵画から出てきたような実に重そうなドレスを身にまとい日傘をさしたその人物。その人物の醸し出す雰囲気は、実にラインの乙女に似ていた。その足元は、少しも汚れていなかった。
「あら、初対面の女性の足元を見るなんてマナーがなっていないわよ」
視線を向けていたことを一瞬で見抜かれたことに驚いたが、それも、ラインの乙女と同じような存在だとしたらそれは不思議なことでもない。そう考えると、己の軽率な行動を咎められたとしても仕方ないと自らに納得させる。
「これは失礼しました。レディ」
そういって謝意を示すと、あらっと驚いたような声を上げ。そして、それは確かに笑った。美しい声。それは、どこまでも冷たく。どこまでも冷酷さしか感じさせない聲。それしか残さない声でありながらも、その声を聞きたくて、その聲を聴きたくて、いつまでも、そこに留まりたくなる。そのような幻想を一瞬抱かせるようなそんな声であった。
「ふふ、やはりあなたは見込みがあるわ。次がとても楽しみね。では、今日は楽しい、楽しいエスコートとしましょう。手を取ってもらえるかしら?
アドルフ・ヒトラー」
ゆっくりと差し出された手を握る。次の瞬間に体幹を突き抜けたのは、怖気を纏った寒気であった。本能は、告げている。その手を払いのけよと。これは、今の人が触れてよいものではない。離し、悲鳴を上げながら逃げよ。その思いに、縋りつきそうになった時だった。
確かに……聞こえた。
「もう、この国は終わりなのよ!あんたらが勝てなかったから!」
戦場から帰還し、疲れ果てた兵士たちにふるまわれたのは、石礫と怒りに満ちた言葉だった。
「もう放っておいておくれ、ここで死なせてくれ。頼む。もう、この国に未来など欠片も残されていないのだ。終わった国の行く末など見たくない」
壊れ始めた国の中で最初に死を選び始めたのは老人たちだった。かつてを知るものは、未来を生きるという救いの手を振り払い、己の過去にしがみつきながら、抗うことなく諦めに飲みこまれ、道端にあるただのものと化した。
「このままではだめだ。皆武器を取り、今の弱腰な政府を打破する時だ。強いドイツを!我々のドイツを!取り戻すべきなのだ」
かつての未来は暴走し始め、その足元を忘れ去る。各々の思想が、理想が、思念が、理念が。壊れ始めた国にとどめを刺そうと牙を向けた。それは、なり替わろうと醜き手を振り上げる。自らのものではない思惑がそこに入り込み、それは、さらに肥大化していく。
そんな時だった。小さな手がそっと添えられた。それは、パンの一切れと紙くずを交換した少年だった。
「おれ、故郷を失ったんだ。
フライベルク。
あの日、あいつらがやってきて全部取っていった。
俺悔しいよ。あいつらをたたき出さないといけないのに、今日もパンを得るためだけのために生きているだけなんて」
生き延びて、同志となった彼が、ようやくに吐き出した過去より生まれた怨嗟の声。
「あら。あなた。とてもいいわね」
冷汗を滴らせながらも、アドルフ・ヒトラーはそこに踏みとどまった。それを見た貴婦人は、意外と言った様子と、予想通りといった様子。矛盾する二つの感情をのぞかせながら、かすかにほほ笑んでいた。
「お戯れはおやめください」
「あら、いつから意見できるようになったの?ええと、貴方は何て呼ばれているのかしら?」
思わず声を出したラインの乙女にも、その貴婦人は態度を崩すことはなかった。投げかけられた問いは、それは、アドルフ・ヒトラーに対してのものだった。視線をかわすと、かすかにうなづいたのを見て、それを肯定ととった。
「ラインの乙女と。私は呼んでいます」
「あら、あら。ラインの乙女……ラインの乙女ね。いい名前じゃない。ローエングリンからとったの?忘れたくても忘れられない。今のあなたにとってはとてもいい名前じゃない。では、私はベアトリーチェかしら?」
むっとするラインの乙女を尻目にしながら、貴婦人は実に楽しそうに哂いながらゆっくりと歩いていく。アドルフ・ヒトラーは、手を引いているのか、引かれているのかも分からないままに、それと供に歩を進めゆっくりとその神秘の場所に向かう。違和感はすぐに訪れた。そこには、まっ平らな道が広がっている。前回の下り坂は、結局現れることもなく、その場所にたどり着く。そこは、前と変わった様子はなかったものの、かすかに開いていた。
貴婦人は優雅な所作で手をほどくと、ゆっくりとまるで促す様に隙間へアドルフ・ヒトラーをいざなう。ごくっと緊張と共に体の中に、何かを飲み込む音が聞こえアドルフ・ヒトラーは岩に手をかけ、隙間をのぞき込んだ。
闇の奥底から、黄金の光が瞳と脳を焼いた。
そのようなものが、コーヒーの波紋から見えるわけもなく。アドルフ・ヒトラーは少し冷めたコーヒーに口を付けた。かつての苦渋の味はわずかに薄れ、そこにあったものは人によって調律され、完成された味わいであった。
違和感というものは、感じてこそ初めての違和感になる。ふっと顔を上げたそこに飛び込んできたのは、先ほどテーブルにかけていたはずの初老の男性だった。思わず声が出そうになるのを抑えた。ウエイターも店主もその行動に何の疑念も抱いていない。ふと、彼が元かけていた席を覗き見る。その一風変わった男性は、こちらを心配そうにしながらも、遠巻きに見守っているところだった。
「千引――、天戸――。…………。……………。」
何を言っているのかも理解はできなかったが、ぞっとした笑みだった。それは深い死の気配。第一次世界大戦の戦場でいくつも出会った死の気配そのものだった。入店時に感じたその匂いの正体に遅まきながら気が付いた。
これは、死臭だ。戦場で感じる死のにおいそのものだ。
道理で、嗅ぎなれているはずだと。そのことにアドルフ・ヒトラーが気が付くと、いまさら気が付いたのかと言いたげに男性の笑みは深くなった。笑みと思っていたのは、大間違いだ。それは、獲物を見つけた目だった。自らが狩人の前に立ってしまったと知った瞬間に、先ほどのあの女性の手の感覚がまるで体の底から持ち上がる様に思い出された。それは、寒気と怖気が体幹をさかのぼる嫌悪感にも似た空気だった。
だが、不意にその空気は断ち切られる。初老の男性。その右肩に手が置かれる。若く活力のある手。それを置いたのは、あの奇妙な装いの若い男性だった。
「それ以上はいけない」
静かでありながら、心に響く声だった。言葉の意味は解らなかった。しかし、その意味を察したように向けられていた怖気を伴った殺気は、ゆっくりと霧散していく。
「すまないな。君が少し見ていられなかったから、うちの連れが声をかけた」
その口から洩れたのは流ちょうなドイツ語だった。驚きその顔を見上げる。
「ああ、長期滞在していたら、何度かお会いしたことがあるからね。ドイツからわざわざ日本に来たのか」
いぶかしむような口調ではあったが、敵意は感じられなかった。ああっとだけ返すと、かれは何か思慮をしているように、静かに目を閉じた。
「私のような世界の果てに住んでいるようなものでも、今のドイツの苦難は同情を禁じ得ないものがある。だが、君の求めているのもは、そのようなものではないのではないかと。私は考えている」
そこまで言うと、彼は口を紡いだ。近くでまじまじと見ると、若いのに威風堂々としたたたずまいをしている。そして、それを示す様に、彼の肩には金糸で作られたまるで円の中に三つ葉を囲むようなマークが付けられていた。
「さて、話しかけたついでだ。私は、こういうものだ」
そういうと、懐から紫の布のようなものを取り出し。中から一枚の名刺を取り出した。おそらく対外用であろうドイツ語で書かれたそれは、聞いたことのない場所の名前だった。
「上海徳川幕府 第十九代将軍 徳川 慶安と申す。このような日に会うのも縁というものであろう。ドイツの方、貴殿。名は」
一瞬名乗ることにためらいが生じたが、相手が名乗った以上名乗らないという礼節などなかった。落ち着かせるために吸った一息の呼吸ののちに、アドルフ・ヒトラーは自らの名を名乗った。
「老 一願と申すものだ。アドルフ・ヒトラーどの、また会い見えよう。
そして、成っていたのならば……斬って差し上げようぞ」
初老の男性が口を開く。ぞっとする口調。やがて、二人は、アドルフ・ヒトラーに再会を誓ったのちに、連れ添って出ていく。アドルフ・ヒトラーが、ようやく自ら意志で、動けるようになったのは、もう朝餉の時刻が迫るころであった。
【歴史資料】上海徳川幕府
【概要】
上海徳川幕府(1870〜1922) は、幕末期に徳川慶喜が大清帝国に亡命して築いた特異な自治政権である。
大政奉還からわずか二週間後の1868年末、日本を脱出した徳川慶喜は、旧幕臣であった土方歳三の護衛のもと、西安に赴き西太后との会談を経て上海における治安維持の特権を獲得したとされる。
【設立の背景と発展】
当時の上海は列強各国による租界が林立し、清朝としても国内外の治安維持が急務であった。このような事情の下、旧幕臣団は「上海徳川幕府」として独自の自治権と軍事力を保有しつつ、清朝の要請に応じ治安維持および租界間の調停役を担った。
明治初期には、西南戦争に敗れた西郷隆盛や不平士族が流入し、旧幕臣と薩摩浪士団が融合する形で武士共同体が拡大した。このことは、後の同幕府の武力的基盤を支える要素となったと考えられている。
【社会構造と産業】
上海徳川幕府の人口は最大時で約10万人に達し、その6割を旧士族層が占めたと伝わる。主要産業は伝統工芸業のほか、在地軍閥としての傭兵活動も盛んであった。これは治安維持の延長として他地域への傭兵供給を行い、租界内部の権益調整にも大きな役割を果たした。
【軍事行動と国際関係】
同幕府は日清戦争では大清帝国側として参戦し、対外的に独立した軍組織として初めて欧米列強の注目を集めた。また、日露戦争に際しては日本側の要請を受け、ハルビン防衛戦において顕著な戦功を挙げたとされる。このことから、上海徳川幕府は大陸における日本の非公式な武力拠点の一端ともみなされている。
【崩壊とその後】
辛亥革命(1911年)の勃発により清朝が崩壊すると、上海徳川幕府も自治権を失い、実質的に幕引きとなった。帰国を望む声もあったが、当時の日本政府はこれを認めず、残存勢力は満州方面へ移住し、満州徳川党を設立。鉄道防衛隊などの形で命脈を保った。その後、満州国の成立とともに、皇帝溥儀の近衛部隊としてその一部が組み込まれたことはよく知られている。
【将軍職の継承】
上海徳川幕府の将軍号は旧幕府の代数を継承し、徳川慶喜を十五代将軍とした史実の続きとして、上海では十六代以降の将軍が存在したとされる。十九代将軍にあたる徳川慶安の時代には、満州移住後も象徴的に「幕府」の名残をとどめたと伝わる。
【補足】
史料の多くは辛亥革命以降に散逸しており、正確な組織構造や軍制、列強間での外交記録などは一部が伝聞に頼っている。近年では、列強租界との関係や旧士族社会の内部文化が、東アジア地域研究において新たに注目されつつある。