1915年10月24日 フランス・カレー海岸 ノイバーベルク防衛線第第二山岳”ヴァイセンフェルス線”
今回の話は、かなり長いです。
空を割く衝撃波の嵐が吹き荒れると、対空、対艦に用意された大型の武装がまるでおもちゃのようにめくりあがり、悲鳴のように拉げながら空に舞い叩き落される。その中で反抗する者たちが掲げた小火器ごと、計算されつくした配置の塹壕が、トーチカが、機銃陣地が。ただのこぶしの一振りで、血と肉、木とコンクリート。そして鉄の残骸になり果てていく。それをまるで追いかけるように、深く浸潤した霧が後方への情報の伝達を阻み、霧の中の声に反応をした同僚たちを物言わぬ死体に変えていく。
かつて、その威容さえ感じる陣地構成と上陸作戦に向けて作られた軍事的な優位性。を持った完璧なる陣地。かつてそう謳われた陣容は、今や無残な残骸になり果て、上陸したイギリス軍を止める機能すらも完全に失っていた。
アドルフ・ヒトラーは、かつてここに到着したときに、ヒルデと共に陣地を見下ろした丘の上に立っていた。周りに残されているのは、ドイツ軍の傷病兵のみであった。
「後方司令部は何をしているのか……」
あの後、抗戦を開始した歩兵にあの化け物は向かっていった。それを確認したアドルフ・ヒトラーは、ヒルデのもとに駆け付けた。もはやその時には、ヒルデに、先ほどまで見せていた憤怒の形相はなく。いつものように穏やかな表情を浮かべて、がれきの下に埋もれていた。
呼びかけても返答はなく、首元に手を当てても、その生命の鼓動を感じられることはなく。もはや気が付くしかなかった。彼女は、もの言わぬ物となり果てたということを。
「……」
遺体の回収などできるはずもなく、ヒルデの遺品は、ただの1つしか持ち出せなかった。かつては白い上等な布で作られていただろう、ハンカチーフ。ひどく血で汚れている。がれきの下にあったのが奇跡のようにそれ以外の汚れや破けはない。そこに書かれた名前は、ヒルデではなく、おそらく彼女の本名が書かれている。たやすく口から出すことが躊躇われる名は、なぜ、彼女が前線にいたのかという新たな疑問も生じさせる。
「……う、ぅん」
感傷に浸っている暇などなかった。
「後方司令所に指令を確認に行ってくる。兵長殿にこの場を任せたいが。よろしいか?」
顔に巻かれた包帯の下で、力なくうなづく兵長を確認し、アドルフ・ヒトラーは、”ヴァイセンフェルス線”の後方司令所へと駆け出していく。
「アドルフ・ヒトラー伍長です。第十二歩兵連隊の扱いについて伺いにまいりました」
奥のテーブルでは、抗戦か撤退かで、一進一退の白熱した議論が続いている。それにアドルフ・ヒトラーは入れる余地もなく、ただ、入り口で待たされるしかなかった。ようやく、将官の一人が顔を上げ、伝令兵が来ていることに気が付いた。
「伝令兵か。用件は」
「はっ。第十二歩兵連隊が前線にて孤立しております。多くの傷病兵を抱えているため、身動きが取れません。救難信号を上げましたが、動きがないため伝令に上がりました。救助部隊は形成していただけるでしょうか」
その声に、明らかにその将兵の顔がゆがんだ。それは、忌々しいといった感じでのゆがみ方ではなく、むしろ己の無力感からくる痛々しさを感じるゆがませ方だった。アドルフ・ヒトラーは、次の言葉を待つ前に、将官は一枚の紙を取り、ポケットの万年筆を取りだす。そして、空いているテーブルで書き物を始めた。
「何人ほど残っている」
「200名ほどと思われます。G-23地点で孤立状態。簡素な陣地を作成し、銃撃に備えてはいます。武装については個人に支給された武器弾薬を保有してはいますが、戦力として期待することはできません」
「あそこからの見晴らしは良かったからな。まあ、それだけの情報が仕入れられれば十分だ。名前は?」
「アドルフ・ヒトラー伍長です」
何かを書き終えた将官はそれを耐水の布に包み込んだ。そして、白い三角巾だろう、それを1つ追加で挟み込んだ。アドルフ・ヒトラーにも、それが何であるのかは分かったが、それ以上の問いかけは不要と感じ声を出さなかった。
「この文書を敵の司令官殿に渡してほしい。アドルフ・ヒトラー伍長。伝令任務を願えるか」
静かに受け取り敬礼を行うと静かに将官も返礼で返し、そのまま踵を返すと議論の輪の中に戻っていった。
振り返らずにかけ始めた。先ほどの陣地までは、およそ6キロメートル。それを一息で駆け抜けることができる体力も気力も十分にあった。塹壕を駆けあがり、草原を走り、再び塹壕に下りる。それを何度か繰り返した時だった。不意に、目の前を霧が覆い始めた。不自然さを感じるその霧。ヒトラーは、伝令兵の間でここ2~3日急に噂になったことを思い出していた。
『伝令の命を受けて、かけていると、不意に深い霧に阻まれることがある。その霧の中から、呼ぶ声が聞こえる。絶対に返事を返してはだめだ』
1週間前であれば、どの低俗怪奇小説だとか、カニでも食いすぎて悪夢を見たのか。と一笑に付した話だったが、空を飛ぶ超人と陣地を剛腕の一振りで壊滅させる超人が戦争に参加した。その姿を見た今となっては、その噂は、怖い笑い話などではなく、超人の能力の発現であると考えた方が現実的である。そのことは全員の中の共通した認識になりつつあった。
ごくっ
喉の奥に冷たいつばが飲み込まれた。引き返すべきか否か、頭が判断を求めている。そして、ヒトラーはその霧の中に飛び込むことを決断した。すでにかなりの時間が経過しているため、隊は危機に陥っているその可能性が高いと考えたからの決断だった。もし、引き返したり回り道をしたとしても、有効な手段となるか怪しいこの戦場において、信じられるのは己の判断だけだった。
そして、その判断の答えが、姿を現すことになる。
ハロウ ……ハロウ ハロウ メッセンジャー ハロウ――リッスン ミー ハロウ……
ひどいイントネーションにエコーがかかったその声は、ブラーを感じさせる。それは、どこからでも聞こえ、近くに遠くに、前から後ろから姿を見せる。霧の奥から、隣から生ぬるい吐息がふいてくるのをヒトラーは、感じていた。それは、着かず離れずに周りを浮かび、消え、揺らめき、影を残す。ヒトラーは、その中を、駆けていく。超人が相手に逃げ切れるわけもなく、ここが、その超人の狩場と知りながらも声を出さずに相手が手を出してこないことを願いながら足を動かすことしかできない。
その瞬間であった。地面とは違う奇妙な感触が、アドルフ・ヒトラーの靴の裏に伝わる。
ぐにゅ
もし、晴れていたならば、それに気が付けただろう。もし、超人に追いかけられていなければ、それをかわすことなどたやすいことだっただろう。もし。もし。もし。
いくつものもしが重なり、ヒトラーは、前に転倒する。体全体を打ち付けなかったのは不幸中の幸いだった。思わず、それを見て、言葉を失った。それは、ドイツ兵のようだった。腕に着けた赤い腕章は同じ伝令兵の証。その顔にも見覚えがあった。つい先日うわさ話に興じた同胞だった。そして、もう生きていないことは確かだった。よほど深く切られたのだろう、すでに首が本来あるとこには、骨の塊と血の池が広がっており、そこから見える左耳は鈍い刃物で切られたように、肉ごと抉られたようになくなっていた。
ハロウ
ヒトラーの左耳にその声が聞こえた。それが近くにいる。おそらく、後ろに。その瞬間だった。左の耳に冷たいものが当たるのを感じた。おぞましい感触に背筋が凍てつき動きが止まる。
ハロ「HELLO」……
不意に女の声が聞こえた。それと同時に左耳にあった不吉の感触が引きはがされていく。それが完全に剥がれた瞬間だった。霧がほんのわずかに薄くなった。
「行きなさい」
確かな声をかけられる。そのあとに響く獣のような声に背を向けて、アドルフ・ヒトラーは無心にその場より駆け抜けた。
いつしか、道は戻る。行きに超えてきた小さな丘陵に上り木陰から、状況を確認した。そこには、すでにイギリス軍に取り囲まれている友軍の姿があった。一発の銃声から、いつ戦闘が始まってもおかしくないそのような状況が拡がっていた。すでに、一刻の猶予もないと判断したヒトラーは、木の枝を折ると、そこに白い三角巾を巻き付けた。そして、思いっきり息を吸い込み、覚悟を決めた。
「双方、撃ち方待て!ドイツ軍司令部よりの伝令だ!イギリス軍の司令官殿にお目通り願いたい!」
丘陵から駆け下りながら出せる限りの声を上げかけ参じる。ドイツ語と英語両方で停戦を呼び掛けながら、丘陵を包囲するイギリス軍の元へ向かう。銃口を向けられてもひるむことなく駆けてくるこちらが掲げているものに気が付いたのだろう、一人の男性が姿を現した。手元には、銃や指揮杖ではなく葉巻を携え、悠然とこちらに向かってくる。
アドルフ・ヒトラーも、両手を上げ抵抗の意志がないことを示した。
「伝令兵殿か。司令部からの濃霧の中、よく戻られたな。返答はその格好の通りということでよろしいか?」
うなづくと側近と思われる人物近づいてくる。アドルフ・ヒトラーは伝令を渡す様に指示され、懐に下げてある伝令筒から、防水紙に包まれた紙を取り出した。
「伝令兵殿、これから確認に入るが、彼らにもこのことを伝えてきてくれないか」
もっともな意見だとうなづき、アドルフ・ヒトラーは丘陵の簡易陣地に向かう。イギリス兵かと陣地から顔を上げたドイツ兵たちは、朝に出ていった伝令兵が白旗を掲げて戻ってきたのを確認すると、事態をようやくのみこむだけの余裕が生まれたようだった。ほっとした空気が流れた後に誰かが嗚咽を漏らすと、それは陣内に一気に広がった。だが、それは、わずかな時間のこと。兵長が声を出すと、全員がそれに倣い、武装の解除を始めた。銃、手りゅう弾、弾薬、刀剣が山と積まれ、その確認が終わると人数を確認。
「アドルフ・ヒトラー伝令兵。ドイツ軍第十二歩兵連隊。生存者数200名。降伏に応じると伝令を願いたい。ただ、足腰の負傷者が多いため、ここから動くことはできない。
アドルフ・ヒトラー伝令兵。伝令を願う」
イギリス軍陣地に戻った時、男性は悠然と椅子に腰かけ、おそらく持ち込ませたので机にアドルフ・ヒトラーが伝令した文書を広げ、何やら書き込んでいた。アドルフ・ヒトラーが足を止めると、顔を上げずに声を出した。それは、流ちょうなドイツ語だった。
「君は、この3日から、我々との戦いを続けてきたわけだ。どう思うかね」
その問いは、意味を持たない問いだった。ヒトラーは、その男性の足元を見た。悠然と組まれた膝。高級そうな軍靴がゆっくりと揺れていた。
「赤子が成人男性に挑むようなものだ。敗北しないわけがないだろう。まあ、それがわからずに戦争を仕掛けたいうのならばこちらとしてもそれは仕方ないと考えるが。君はどう思うかね」
質問が変わった。というよりも、それが聞きたかったことだろう。ヒトラーは、思わずヒルデのハンカチにそっと触れた。
「まだ続きます。まだこれからではないですか」
ほうっと、いう声が聞こえた様に男性は顔を上げ、側近にその紙を渡した。その目には、好機と興味の光があった。
「赤子をひねる趣味はないのだが、それはどうかね」
「戦場を超人にゆだねるおつもりですか?大佐殿。
これは、まだ人間の戦争です。
まだ、始まったばかりです」
真正面で向き合っていたものにしかわからない変化だった。ほんのわずかな変化。目か鼻か口か、そのいずれかがかすかに動いた。もしわかるものがいたら、それは笑みと感じられただろう。
「伝令兵君、名前と階級は?」
「アドルフ・ヒトラー。ドイツ軍伍長です」
「側近。アドルフ・ヒトラー伍長に相手司令部への伝令を願いたい。軍規・軍法上それは可能か?」
側近は、驚いたような表情を浮かべたが、いつものことだと感じたのか分厚い軍規を開く。専門的過ぎて全く聞き取れない英語がしばらくの間アドルフ・ヒトラーの耳に届いていた。それが止んで少し後に、大佐の書いていた文書をまとめて、側近がアドルフ・ヒトラーのもとに持ってきた。
「アドルフ・ヒトラー伝令兵に、イギリス海軍から、ノイバーベルク防衛線本部への伝令を願いたい」
「伝令、承りました」
伝令筒に文書を直し、敬礼ののちに踵を返す。
「アドルフ・ヒトラー伍長。彼らの処遇は、こちらに任せていただきたい。彼らには、捕虜として最大限の敬意をもって接すると約束しよう。君は、次の戦場に向かうといい」
そこまで言うと、イギリス海軍大佐は、静かに、ドイツ語で次のように続けた。
「君が、この戦争で生き残り、戦い続けることは、同じ理想を持つ私にとっての誇りになる。
だが、1つ警告させてもらおう。
君は、あまりに理想を追い求めすぎている。そして、残念なことに、君の能力はその理想にあまりに合致しすぎている。今の君が進む先には、理想の沼が口を開けている。それに君は躊躇なく自らの意志で飛び込むだろう。まるで、自殺志願者のように。その結末は哀れなものだ。やがて背負いきれなくなった理想は牙をむき、君の現実を喰らうだろう。その痛みに耐えきれるものなど私は知らない。君はやがて、理想の残骸になり果てることを心の底より自ら望むようになる。
ゆめゆめ注意することだ。
さらばだ、アドルフ・ヒトラー伍長。ここには、もう戻ってこなくてもよい」
奇妙なエールを受けて、アドルフ・ヒトラーは駆け始めた。目指すは30キロ先の総合指令本部。簡単な道のりではなく、きっと、夜を徹して走ることになるだろう。任務の重さを感じたアドルフ・ヒトラーは、思わずヒルデのハンカチに触れた。それは、3日前に失われた相棒の遺したもの。それが、使命を果たせと声をかけてくれるようだった。それは、孤独な伝令任務にありながら、優しさや厳しさをもたらし、孤独感を消してくれる。すべてを失ったのにもかかわらず、奇妙な満足感のようなものを感じると自然と足が動き始めた。暗がりが広がり始めた陣地。その中をさらに奥地に向かい駆けていくのだった。
1915年12月22日 ベルリン参謀司令本部
「ノイバーベルク防衛線の戦死者名簿が、赤十字より届きました。お目通しをお願い致します」
そこには、参謀補佐官と陸軍大将、そして、参謀補佐官の秘書が詰めていた。
「予想はしていたが、やはりひどい在りようだな。」
死者というものは戦争における、その戦場の対応力の減少ということ。それ以上の意味は持たない。死者が戦争に与える影響などそのようなものだ。そう教育され、死者の数というものを、戦術を今後どう修正するかを思案することに重きを置いていた参謀補佐官であったが、報告に上がってきた、あまりに想定外な数に一時その思考を止めた。一地方の戦力が一週間の間にほぼ、完全に消滅したという事実。それが重く両肩にのしかかった。
「イギリス軍の損害は」
「軽微なものです。こちらがイギリス側のリストになります」
ドイツ軍のリストに比べると明らかに薄いリスト。それが参謀補佐官と陸軍大将に渡される。その厚さの違いに、うんざりした表情を浮かべた参謀補佐官に対し、陸軍大将は何気なしに、そのリストの受取人の名を確認する。次の瞬間、その表情が強張った。
「受取人は、ヒルデ特務上等兵ではないのか?」
「い、いえ。ヒルデ特務上等兵からのものではありません」
秘書が、声をかける間もなく、陸軍大将は何かに気が付いたように、ドイツ軍のリストを鬼気迫る表情で読み漁っていく。あまりの気迫に、2人は声をかけることもできない。
どれくらいの時間がたっただろうか、周りが薄闇に包まれるころ、ようやく何かを見つけたのか、陸軍大将はその顔を上げた。
「どうしたのですか?親族でも戦死者にいたのですか?」
ゆっくりと首を振ると、陸軍大将は椅子に深く崩れ落ちるように腰かける。何かを確認するように深い呼吸を繰り返し、己が中から湧き上がる決断を待っているようだった。
「ヴァルハラにいらっしゃる、シュリーフェン元帥に……返す返すも……申し訳が立たない」
ゆっくりと吐き出された言葉。それがすべてであった。
その数時間後、帝国軍上層部は、極めて重大な喪失に伴う混乱と、深い哀悼の渦に巻き込まれることになる。