1915年10月21日 フランス・カレー海岸 ノイバーベルク防衛線第一山岳”シュタールベルク線”
それは、脅威に感じたものなど何物もなく、それよりも、朝日を背にして浮かび上がった艦影に前線の空気は緊張をはらんだものに変わった。朝日を背に飛び来るただ一つ。知っての通り、イギリスとフランス・カレーを分かつドーバー海峡は、35キロメートルもの海峡幅を持ち、こちらからイギリスの港を見ることなど幸運がない限りなできない。
第一次世界大戦下において、未熟であったすべての技術。特に航空技術において、この35キロメートルというのは非常に致命的な距離となる。航空機の発着できる箇所は限られ、それは、内陸に20キロは入り込んだ場所に作られた。そのイギリスの航空機が、基地より発進し、リアス式の海岸を超え、このノイバーベルクが視界に収めるころには、すでに燃料は着きかけている。
後に待つのは、突撃か、降伏か。そのような無謀な戦略など起こるはずはなかった。
だからこそか、故に起こった。
「へ、単艦突撃で、機雷掃討でもやろうっていうのか」
その気楽な言葉が聞こえた瞬間、飛行する物体に三角錐の特徴的なエフェクトが生じたのを感じた。そう感じることができたのかは、なぜかと問われても今は返す言葉もない。私は、なぜか危険を感じ、塹壕の下に頭を伏せた。ポン、ポンッ……ポン、ポン、ボン、ボン、ドン、ズン、ズズン、ズズズゥッン!それは、確かな音として伝わってきた。私は、その正体がわからなかった。おそらく誰にも分らなかったのだろう。海が波立つたびに、海面より水柱が高く上がりそれが、連鎖するように続いていく。それを起こしているものは、空を飛ぶ妖精のように見えた。一瞬ではあるが、その姿を視界に収めることができた。
「え……エアーリアス?」
それは、戦前の新聞。夢中で読み漁ったエアーリアス航空ショウの記事にあった。イギリスの超人。空を飛び、ピラミッドエフェクトと呼ばれる視覚と音響の演出で観衆を魅了する、イギリスの人気超人。その姿であった。ただ、その姿は、ショウで使われるような着飾った派手な衣装ではなく、確実にこちらに敵意を持った夜間迷彩の姿であった。新聞記事のそれと、今起こっているそれが、現実の接点を持たない。そのことに、私は、重大な不安を感じた。だからこその決断だった。私は、ヒルデ上等特務兵がいまだ外の事態を知らず、こもっているバンカーにこの異常を伝えようと考えた。それは来た。
遠く、発砲音が聞こえた。飛来する音と、空気を割く音それが、鼓膜の奥で木霊し、気が付いたときには土煙が視界を覆った。
痛み、苦しさ。たたきつけられたと知った時には、意識は遠く刈り取られていた。
1914年7月31日 陸軍本部
「陸軍大将――殿。アドルフ・ヒトラー伍長。参集命令に従い、はせ参じました」
「ああ、アドルフ・ヒトラー君か。君のことは、上官である――少尉からよく聞いているよ。非常に優れた伝令兵とのこと。時間がないので本題から入るがいいかね」
「ええ、問題ありません」
「ああ、君に、部下を付けたいと思うのだ。今度の大戦、先に軍内に公開されたシュリーフェン・プランの速やかなる実行と、プランに対する誠実さそれこそが、このフランスとの戦いの初動を制する。そう思わないかね?
そう思うだろう。アドルフ・ヒトラー伍長」
「ええ、そう思います。」
「では、7月30日付で伍長昇任おめでとう。一等兵からの直接昇任ではあるが、それは、理解いただきたい。本来の君は、兵長という立場にある。それを理解したうえで、今後の任務に励んでほしい。入ってきたまえ。」
トン. トン.
そこに入ってきたのは、まだ年若い女性兵士だった。だが、それを歳というだけで測るには、何か惜しい。見逃しがたいものがあるように感じる。彼女の入ってきたドアの先を見る。そこは一般兵が控室にするのには明らかに不向きな場所。それがゆえに納得する。だが、それを出さないのも兵士としての務めだ。
「アドルフ・ヒトラー君。個人的な感想だが。……君を伍長に据えてよかったと感じているよ。君は実によき目と声を持っている。
私ごとではあるが、若き頃は、オペラを見たさに、劇場に夜な夜な通い詰めたものだ。そのような私が、思わず聞きほれるような素晴らしき声だ。少しうらやましいことと、少し妬ましいことに。君には天部の才というものが存在する。いや、こんな東洋的な言葉ではなかったな。君に……運命というもの感じる」
「将軍閣下。……ところで、この女性は?」
「彼女の名はヒルデだ」
「ヒルデです。階級は通信特務兵となります。なにとぞよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
1941年10月某日 マルヌ川ドイツ軍陣地
「あ、おかえりなさい」
「ええ。ヒルデ通信特務兵戻りました。アドルフ・ヒトラー伍長。状況を教えて」
「パリ近郊は静かなものです。」
「おかしいわね。あの国は、我が国に完璧な形で敗北を向かえた。または、それに近い状況ある。これで、少しも浮足立たない国なんてないわ。
電文はどうなってるの」
「通信は、聞いていますが。……ヒルデ。これは、もしかしてと思うのだが」
「ええ。そうかもしれない。こんなことで。――こんなことなんかで。おじいさまの生涯が否定されるなんて」
……おじいさま?その呼び方に一瞬、胸がざらついた。だが、問い返すことはできなかった。このシュリーフェンプランは、シュリーフェン元帥が発案し、そして、ドイツ陸軍参謀司令本部が引き継いだ内容だ。すでに30年という月日を立てて、完璧な作戦立案を行っている、欠点のないプランだ。そう聞かされていた。
「勝利祝賀会などやっている暇などないというのに……すでに、段階が許容し得る限界日数を超えている。」
「どこに行くのですか?ヒルデ特務兵?」
「決まっているでしょう。後方司令部です。我々は、機会を逸しつつあります。これは、単なる機会の損失ではなく、自らが手放したという失策になります。このまま、放っておいては……このままでは……」
陣地から出ようとした、ヒルデを何とか止めることに成功した。ヒルデ特務上等兵はひどく興奮状態にはあったものの、翌日謝罪してくれた。ただ、そうで張ったものの、日中は、悶々とした表情を浮かべ、動かぬ本陣を見ているように見えた。その意味でヒルデの思うままに本陣が動いたのは3日後。
「すべては、遅きに失した」
それを見た、ヒルデの失意を込めた言葉が予言のように、現実となる。パリに向かい進軍する我々の前には、後に消耗戦を強いい、後に長期戦を決意させるだけの整理されたフランス軍の塹壕と陣地が地平線の彼方を覆い隠そうと待ち構えていた。
勝つには勝った。だが、それは、熱を持たずひどく冷たく味気ない勝利だった。
このころから、ヒルデ特務上等兵の口数は減る一方だ。それを感じる上司でありながら部下の苦労も上層部にはわかってほしい。
そう感じながら、北に向かい行軍する。やがて丘陵を超える。その威容に思わず立ち止まった。計画は、聞いていた。大まかにそれを理解しているつもりであった。だが、疑問は当然あった。私は、それを疑っていた。
「ノイバーベルク防衛線。ここは、第二山岳ヴァイセンフェルス。白い山岳と呼ばれる地点。おじいさまの言う、核心的な中核陣営」
そういうと、君は笑った。まるで、この戦争の行く末を確認するかのように。
ヒルデ。君は笑ったのだ。ひどく寂しそうな表情で。
覚えてもいないだろう。
「美しい光景でしょう。おじいさまの叡智と実測により創られたされたそれが打ち込まれた真打です。アドルフ・ヒトラー。経験しなさい。この世界は貴方の知らぬ地平があることを。学習しなさい。この世界にはあなたなどでは理し得ぬ事象があることを。その先にドイツの未来と、私があなたに護られても良い事実が生じます」
彼女は、私が……そう思い体を起こす。目の前に起こる光景がたとえ、無意味だとしても。私は。アドルフ・ヒトラーは身を起こしただろう。
身を起こした、前にあったのは、異形であった。腕は長く、こぶしは怒りにより固められたその形相。足下には粉砕された陣地がその衝撃のすさまじさを示す様相を呈している。
「ああ、すまないな。俺は手加減できないから、兄さんの陣地踏み荒らしちまった。まあ、女子供もいる、おもちゃの陣地だ。ここは重要な拠点じゃないだろう。だから、気にしないでおいてくれ」
視線先には地獄があった。彼の足もとにあったのは、アイゼンヘルグー2。ヒルデの陣地だった。
彼女は、存在していた。彼女の存在はかろうじて許されていた。だが、彼女は赦されなかった。
「ヒル――デ?」
がれきに埋まりながらも苦し気に上下する胸の動きは少なくとも生きてる証だった、ヒルデだったものは地に伏しながらも異形を見上げていた。それは、いつもの慈愛のこもった視線ではなかった。見せたこともないような相手を射殺してしまうのではないかと感じるような憤怒の視線だった。