1921年1月31日 東京某所
「……あれは、いったい何だったのであろうな」
アドルフ・ヒトラーは机に広げていた、ドイツ国民基金の先月までの活動報告から顔を上げる。すでに、太陽は南の空に高く上がっているらしく、窓から陽光が部屋の隅々まで照らしていた。ふと、おかれていたコーヒーに手を伸ばす。芳醇な香りはすでに失せ、ただの苦く色褪せた液体が口内に広がった。それはまるで、手元の報告書の数字の背後にある現実。今なお、苦汁をなめてさせられてドイツ国民の嘆きと諦観の声が作り出すそのような味にも感じた。
そのコーヒーを、デスクの椅子に腰かけ口に含む。その間に、空いた手で総括資料に目を通すドイツ国民基金の活動は非常に順調で、各地の協力者や赤十字を通じた外国からの支援も入り、順調に活動の規模を拡大している。それは、非常に喜ばしいことではあるが、そうだからこそ、この日本でのんびりしているわけにもいかなかったのである。
そんな中で、ヒトラーの意識はつい一週間前のあの何とも言えない禁域のことを思い出していた。
そこは、静かなそう、とても静かな場所だった。ゆったりとした下り坂が延々と続いているだけの広く長い道。見通しのいい未知のはずでありながら、前を行くラインの乙女を時折見失いながら、アドルフ・ヒトラーはその坂をゆっくりと下りて行った。その先にあったのは、巨大な岩の門のようだった。アドルフ・ヒトラーは、勧められるがままに、手を伸ばし、その岩戸に触れる。
岩の冷たさがまるで彼を拒絶するように、そこにあっただけであった。
「ここは?何なのだ?」
「ここは、”チビキ”または、”アマト”と呼ばれる門よ。日本の神話における重要な場所になるわ。ただ、今は歓迎されていないみたいだけど」
ラインの乙女の言葉に、アドルフ・ヒトラーは、内心で首を傾げた。それは、ラインの乙女の言う神話上の重要な場所という言葉と、同行を願い出たその意図がわからなかったからである。アドルフ・ヒトラーの困惑を確認したように、ラインの乙女は、ふっと口角を上げて笑みを返した。
「さて、今日は、ここまでのようね。戻りましょうか。――っ」
先ほどまでの余裕に満ちた笑みが消え、ラインの乙女は、何かおぞましいものを感じたように岩の門に視線を移した。先ほどと何も変わっていないその場所。
「どうしました。ラインの乙女」
「いえ……ね。懐かしいの気配を感じたものだから。この場所は、日本の神話におけるそういう場所でもあるから、引き寄せてしまったのかもね。
後、二度、ここを訪れる必要があるわ。その時が来たのならば、また指示します。
それまでは、待機してもらいます」
「ああ、一向にかまわないさ。ドイツ国民基金の報告書に目を通していたら、そのうち時間が来るだろう」
そのアドルフ・ヒトラーの言葉に、ラインの乙女は、微笑みを浮かべました。それは、かすかな変化でしたが、ヒトラーにとっては、今までまるで山か何かと会話しているような隔絶間のあったラインの乙女に生じたかすかな変化。確かに、それを感じることができた一瞬でした。
その後の帰り道。誰とも会うことなくラインの乙女と進み、いつの間にか自分の部屋に帰り着いていました。
「不思議な経験だった。……」
その時、アドルフ・ヒトラーは、このところ感じている視線を感じ、そっと窓の外に視線を移します。そこには日傘をさした女性がこちらを見ています。視線が合っても、無関心であるようにひるまずにこちらを見ている女性。ひとところにとどまり、こちらを観察しているようなその女性。幾度かすぐにその場所に向かいましたが、重そうなドレスを身にまとっているにもかかわらず、女性は陽炎のように消え、その正体を確認することはできませんでした。
一応、ラインの乙女に相談したこともありましたが、確かに困惑した表情を浮かべながらも、それは、目的に進んでいることの証左というだけで、それ以上の言を取ることはできませんでした。それには、今のアドルフ・ヒトラーが考えても、教えても無駄という突き放したような態度。それが、ラインの乙女から見えていました。
そんな折、ドアをノックする音が聞こえた。それは、昼食の合図。どうぞと。声をかけると、給仕たちが部屋に入ってきて、デイテーブルにクロスをかけると、2人分の食事の準備を始めまる。
あっという間に、食事の準備が終わり、給仕たちにチップを渡し部屋から出ていったのを確認して鍵をかけるアドルフ・ヒトラー。振り返った先の光景に、ふぅっと小さく息を吐くと、足どりは重くデイテーブルに向かい、視線をそらさないように椅子に腰かけます。対面には、いつの間にかラインの乙女が腰かけていて、優雅な所作でカップを傾けているところでした。
「来たことがわかっていたのならば、歓待くらいはしたというのに」
「あら、ドイツ国民のために何を自らがなすべきか。己に何ができるのか。そういう美しい悩みを抱えているあなたの顔を見ているのは魅力的な時間だったから、邪魔したら悪いと思っただけ。ふふ。いただきましょうか」
「ああ」
ゆっくりとナプキンをかけるとカトラリーを両手に持つ。その仕草やテーブルマナーもラインの乙女がアドルフ・ヒトラーに教えてくれたことだ。
「で、ここに来たということは、二度目が決まったのだろう」
「察しが良くて助かるわ。ええ。ちょっと旧友ともめたけど、間に入ってもらったの。あなたを見極めたうえで許可を出してくれたわ」
ラインの乙女から、確かに不満の感情を感じたが、重要な情報を仕入れられてヒトラーは、満足げにグラスの水を口に含んだ。これまでの視線の正体が、こちらを見極めるためのものだとしたら、納得がいきそれが、目的に向かっていることの証左といったラインの乙女の言葉に嘘偽りがなかったことの証明でもある。
「あら?私が、嘘をついたと思っていたの?」
その声音には、知っていて問いかけるような確信があった。アドルフ・ヒトラーは言葉に詰まるでもなく、静かに応じた。
「ああ。一帰還兵に過ぎない私にいきなり組織の長を任せるなど、正気の沙汰ではないと思っていたからな。」
「あら、でも、貴方皆の評判は良かったのよ。伝令においてもアドルフに任せれば問題はない。あれは、ランナーとして最高の人材だって」
「過ぎた評価だ。人より背が小さくて、足が少し早いだけだ。もう少し背が高かったら眉間に風穴が空いていたそんな場面など腐るほどある。私は、少しだけ、人より運が良かっただけだ」
その言葉をつぶやくように吐いたとき、確かにラインの乙女が微笑んだように見えた。それは、慈愛を感じるほどの笑み。普段と変わらないはずの顔から、それを確かに感じ得た。
「合格よ、アドルフ・ヒトラー。私は、その運の良さと、銃弾飛び交い、なりそこない共が跋扈する戦場に自ら駆け出していくその精神……それに賭けたのかもしれないわね。そして、同胞を深く憂うその心。それは、確かなもの。私はこの計画の一翼を、あなたに託してよかったと、今ここで確信したわ」
「一応褒めているものとして聞いておこう」
「ええ、私としての最大の賛辞よ。そのまま進みましょう。ランナー」
グラスの中の水はいつの間にか赤いワインに変わっている。それに疑問を感じることなく、アドルフ・ヒトラーは、同じようにグラスを掲げた。