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1921年2月28日 東京某所

 荷物をまとめ上げる。最後の一つをまとめると、ふうっと大きく息を吐いた。2か月に及ぶ日本での滞在。それが、終わろうとしている。部屋を見たわす。こんなに広い部屋だったのかと思わず感嘆の息が漏れた。


「いまさらにして、このようなことに気が付くとは」


 最初の日は、気が付かなかった。視線は打ちひしがれて地に吸い寄せられていた。肩をすぼめ、背を丸めていた。それを外から押し寄せる寒さのせいだと勝手に考えていた。

 今はどうだ。

 

 アドルフ・ヒトラーは、この場所に立っているのだ。


 そっと窓から外を見た。最後の朝になる。目に焼き付けておきたかった。

 日の出。出る陽が部屋に差し込む。部屋の隅にまでそれは差し込む。秘されし淦色の光が生じ、部屋の中を照らす。陽光の金色と淦色の金の光が部屋の中で踊る様に揺らめいた。

 思わず、アドルフ・ヒトラーは、ここ数日、慣れ親しんだ鉛筆を取っていた。紙に描いたのは、線とも円ともつかぬもの。無心にラフに描く。そこから浮かび上がろうとしているものは、アドルフ・ヒトラーとここ数日同室にいたものにしかわからない。

 久しくに描き、描き切ったそれは、紙の中で蠢き、確かな神秘を秘めていた。

 それは秘されしもの。秘されしこそ輝けるもの。


 アドルフ・ヒトラーの祀すもの。それに、淦色の黄金は焦がれるように指を伸ばす。それは、試練か救済、そのいずれかを乞い求める殉教者の群れにも見えた。アドルフ・ヒトラーは、黙したまま、ゆっくりとそれと指を絡ませる。それは、瞬きにも等しい時間。

 光の消えた部屋のドアは開く。まだ夜明け前の暗さの残る廊下を祭祀者は一人歩き始めた。



 残る荷物は、すべて送り届けてある身軽な旅。

 アドルフ・ヒトラーは、ゆっくりと東京駅に向かい歩を進めていた。


 それは、いた。


 夜明け前の闇東京駅に続くの石畳。それは、思った通りに、アドルフ・ヒトラーを待っていた。

 老一願、そして、その見届け人として佇む徳川 慶安。その視線は決して、自らを歓迎していない。それは、見て取れた。アドルフ・ヒトラーは、それでも、視線をそらさずにいた。東京駅と皇居を結ぶそこに、過去と未来の全てが集まっていた。


「……貴殿にも見えるか」


「ああ。見える。それがあなたの刀か」


 一願は、古びた紋付きの装いに鉢金を纏っていた。鉢金に刻まれしは『誠』の文字。よく見ればその門は、青と白。かつて壬生狼と呼ばれた集団の身に着けていた装束であると気が付く。その気付に気が付いた老一願は微かに口角を上げた。

 

「処するものの正装よ。幕にも皇にも牙向くものを屠ってきた」


「それ装いを着るの(纏うの)は、斬る大義名分が欲しかっただけでしょう。全く、あなたは変わらないのですから」


 帯刀はしていない。その装い。だが、危険な香りがあたりに充満する。例するのならば、それは、まるで溶鉱炉の中に手を突っ込もうとする自殺行為の前の奇妙な高揚感か、それとも、忌避するがゆえに惹かれているのか。それを、解することも、説することもならないまま、アドルフ・ヒトラーは、その妄執を振り払う。

 それを見た老一願。確かに目を細めた。

 慶安はゆっくりとその前を通り過ぎる。偶然にして、皇居(かつての居城)を前に徳川は戦いの見届け人としての位置を取った。


「剣以切非 切以斬非 己以剣成 剣以斬成」


 老一願の言葉。漢詩の一部だろうか、それが、口走られる。空がゆがむ。それは、徒手に剣を生じさせる。否。観えるのだ。彼の手もとに剣が。ふと、アドルフ・ヒトラーは、多才な友人が仕入れてきた情報を思い出す。「人間の感覚。それはとても単純で、そして、忘れない。全然違うことでも、そう感じたのならば体験として経験として、刻まれる。」今ならばわかる。徒手であるそれは、唯の感想に過ぎない。

 おそらく、斬られる。それは、斬るためにのみ存在している所作。

 こうも、まざまざと見せられる。これは、儀式だ。それに気が付くと、アドルフ・ヒトラーは、ゆっくりと懐に手を忍ばせた。手には黄金の拳銃。モーゼルP38を模したそれ。これは、今のアドルフ・ヒトラーが、持てる最大の手であった。


「ほう、チンタオでさんざんに斬ったドイツ兵が皆それを持っていたぞ。いい銃なのだな」


「ああ。わが国が誇る最高傑作だ。これからも、燦然と輝く。私の答えだ」


 言葉の残りは、清浄なる世界がさらっていく。一願は構え、ヒトラーは照準を付ける。震えは止まっていた。いや、最初からなかった。


「はじめ」


 御前にて、始まる。お互いの未来をかけた戦い。一願は抜き放ち、ヒトラーは引き金を引き絞った。



 

「貴殿は――正気か」


「そう問われれば、こう答えざる負えないであろう。


 世を生きるすべては狂っている。」


 勝負は、一瞬にしてついた。アドルフ・ヒトラーの首元の刀が揺れている。斬らぬと悟ったのであろう。だが、唯斬り捨てるには惜しい。その迷いが、首元に触れる刀身からにじみ出ている。

 不意に押され、体勢を崩す。視線をそらさずに見上げると、刀はしまわれる。それを見て、アドルフ・ヒトラーも拳銃を懐に直す。冷たい石畳が体温を手の平から奪っているのが、逆にうれしく感じる。


「良いだろう。

 焼き尽くし、残骸となり果てるが良い。

 忌名を背負い、忘却の霧にとられるが良い。


 さらばだ。アドルフ・ヒトラー」


「斬らぬのか?」


 老一願は、振り返らない。


「これは、神とそのなりそこないを斬る剣だ。貴様のような英雄など……斬り飽きたわ」


 ただ口から吐くように言い捨てると、慶安を差し置いて皇居の方へ去っていく。


「勝負あり。貴方の勝だ。」


 立会人の口から宣される。ほっと息を吐くと、兵士のように、自らの身を確認した。身には、かねてより、その護たるがあった。今ならばわかった。

 今ならば理解できた。かつてより、隣にあった彼女()に問いたい。隣にあったラインの乙女()に伏して感謝したい。

 それは、守られている証。淦色は。それは、常にそこ()にあったのだ。


「敗者から、告げたいことがある。聞いてもらえるか」


 慶安の言葉に、アドルフ・ヒトラーは、うなづいた。自分が勝ったなどと考えてはいない。だが、その真摯さに心が揺り動かされた。


「罪の茨の道を行く貴公。汝は、その罪の茨の炎をもって、偉大なる茨の王に戦いを挑むであろう。それは、慈悲なく焼き尽くす。故にだ。


 大慈あらんことを。心より願う。

 ……そして、願わくば、友として発させてもらおう。


 この地に慈悲なし。

 貴公がこの地を2度と踏むようなことがないよう。ただただ、祈らせてもらう」


 慶安も背を向け、一願の後を追う。アドルフ・ヒトラーは、ゆっくりと最敬礼をした。


 それは、今生の別れであると観ていたから。アドルフ・ヒトラーにとっては、それだけに過ぎない。

 そして、かける言葉などないだろう。それは、自らの喉より(いずる)言葉ではなく、きっと、彼らは、アドルフ・ヒトラーのことを、たびたび目にするようになるだろう。そして、思い出すのだ。


 茨の王に戦いを挑む、無謀にて無慈悲なる炎の主を。

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