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1921年2月24日 黄泉平坂

 門に近づいていくと、そのものは、不満そうな表情を浮かべ、ただ持て余すように門柱に身を預けていた。その側に佇むは、その身を凌ぐ巨大な剣。今は鞘に納められ、次に抜かれる時を待ちわびているように見える。


 先程まで、好戦的な光を放っていたその双眸は、今は力なく地を漫然と見ているように見えた。しかし、こちらが、不用意に発した音に気がついたのか、それとも最初から気づいていたのかは定かではない。それはゆっくりと頭をもたげ、こちらを捉えた。


「ほんとうに……つまらない男ね。弟によく似ているわ」


 見据えた顔に予測したような表情はなく、そこにはなんとも表現しようのない、笑みが張り付いているだけだった。身を預けていた門柱からその身をまるで引き剥がすように立つとさやを杖のようにつきながら、それは、アドルフ・ヒトラーのもとにやってきた。狙ってか、それとも元々からなのか、その身は、意外と小柄な成であった。最初に出会ったときに巨大に感じたのは、その神性が見せた幻であったのか、夕にある付かぬ間の夢か。

 おそらく、それを語る気など、それにはないのだろう。


 アマテラスは、腰に下げていた袋を無造作に右手でむしり取ると、そのまま、アドルフ・ヒトラーの眼前に突きつけた。一瞬虚をつかされたものの、アドルフ・ヒトラーはそれを両手で受け取る。


「ほれ、これをやろう。お前は、アレの、眷属の長となったのだろう?ならばゆえ、アレの旧き朋として、預かりものをその権あるものに還そう」


 アマテラスは、アドルフ・ヒトラーが両手にとったのを確認すると、ゆっくりと手のひらを返し、それを胸の前にまで押し出した。その何とも言えない力に、アドルフ・ヒトラーは驚いたものの、その賜り物から手を離さずに注意深く受け取った。立った一連の何ともないやり取りで冷汗をかいたアドルフ・ヒトラーの視界には、袋と受け取った手のみが写っている。


「汝が神よりの賜りものである。よく。よくに励め」


 アマテラスは、それだけを言うと手を離し背を向けた。門柱に掛る剣を大仰な仕草で右肩に担ぎあげる。何故かその仕草に、まだ言葉が続くと直感したアドルフ・ヒトラーは、そのままの姿勢で待った。


 どれくらいの時間が流れただろうか、アマテラスは、背を向けたまま言葉を発した。


「其は、淦き黄金の果実なり。生に生きるものに黄金を得るならば、それすなわち、神性の源。己に取り込むに等。之、哀れなこと比なし。死に生きるものに黄金得るならば、それすなわち、神性の啓きにより新なる生を得る。之、おかしきこと比なし。


 之、以て、汝の、大義に報いよう。殉業に報いよう。」


 そこまで言うと、アマテラスは一度言葉を切った。かすかに首を傾かしげこちらを見返ししているのが見て取れた。しかし、それは美しき黒髪に阻まれ、その表情を伺うこともできない。


「其は、随行者には過ぎた代物。されど、妾は、旧き約定に従い、これを授ける。

 授けた以上はあなたのもの。どう使おうがあなたの石によってそれは決められる。

 そして、お前が、それをどう使うのか……予想はついている。


 

 はぁ。残念。


 常世は無情無常と鳴る成。」


 左手がゆっくり上がると、指がピンと立った。それは、門の外を指し示していた。もう、話すことはないと言うことだろう、そう感じてその方向に向かい歩き始める。


「――、よろしく頼む」


 消え入りそうな優しい声が耳朶を打ち、思わず振り返るがそこには、肩を怒らせ、のしのし言う音が聞こえてきそうな程の大股でゆったりと歩き去るアマテラスの姿があるだけであった。その姿が暗がりに消える。おそらく。もう話すことなどないのだろう。

 故に去った。

 アドルフ・ヒトラーは、導を見る。遠く先に光が見えた。それを印として歩き始めた。


 その印に導く通りに歩く。右手に賜り物、左手に黄金を抱き示しの通りに歩きゆく。そんな折、不意に空気が変わったのを感じる。ああ、神域を抜けたのだと察し背後を振り返ると、そこには、ただしめ縄の掛る岩戸があるだけであった。そこから感じるのは、強い拒絶。おそらく、もう、戻ってくることなど出来はしないだろう。そして、戻ることはあるまい。

 なぜなら、そこにいたからである。岩壁に寄りかかるように力なくもたれかかるラインの乙女。

 アドルフ・ヒトラーが、いま会いたいと思っているそのものが、そこにはいた。

 ただ、その姿をみたいと思っていたわけではなかった。打ちひしがれたその姿があの幻視の姿とは重ならない。でも、こちらに気がついたようにぎこちなく視線を向けてくる。

 それは、すべてが終わったはずのその場所に流れる空気にも負けてしまうような痛々しさを持っていた。頬は赤く腫れていたものの、痛々しいのは、それではない。


 涙の痕が頬を抉り、川のような傷痕を造っている。それを踏まえてでも、彼女は美しかった。強く、そして、ドイツの民に対し救いをもたらそうと(強くあろうと)したときと同じく、ただただ美しかった。


「すまない」


 ラインの乙女は、その涙を隠さずにただ一言謝意を述べた。それが、誰に対してなのかなど、アドルフ・ヒトラーは知る由もなかった。ただ、その一言が、自らに向けてだと知ったのは、その視線が、己に向いていたのを知ってからだった。


「私は……本物の道化だな。」


 自嘲的に唇をゆがめる。まるでただの一言がきっかけであったかのように、涙がただ一滴。ラインの乙女の頬の傷痕を伝った。それは、堰を切る様にただただにあふれていく。隠す様に、そして、それを忌避するよう、ラインの乙女はただただ顔を隠した。


「あ、あああっ。まただ。また……まただ。う、うう――見ないでくれ。


 頼む。お願いだ。


 こんな私を、見ないで。お願い。

 お願い。」


 涙はとめどなくあふれている。小さな子供の様に。

 静寂に満ちた空間をくぐもった嗚咽と鳴き声が埋めていく。それは、威厳ある者とは思えない、痛々しく弱弱しい姿だった。

 淦色の黄金が静かに揺れている。その弱き悲嘆の声に、自らを思い出すよう。そして、忘れじの花を荒野より見出した時のように、静かにされど確かに揺れている。


 その動きを知っているからこそ、アドルフ・ヒトラーは、それを封じた。そして、ゆっくりと淦色の黄金を地に置き、空いた右手を自らの胸ポケットに入れ、一つのものを取り出した。それは、紅き布の切れ。本来ここに立つべき、真なる眷族の後裔。その遺品であった。ゆっくりとした足取りで近づく。

 そして、弱弱しき幼子のような主の前に、膝をつき手を差し出した。

 他でもない。その頬を抉り行く痛々しき水滴を一滴でも減ずる。そのためである。


 それは、偶然によるものであった。


 たった、一滴。たった一滴の神の涙がアドルフ・ヒトラーの血の流れに乗り込んできた。その行動一つにまさか、幻視を得ることになるなどと考えていなかったアドルフ・ヒトラーは、後頭部をスレッジハンマーで打ち砕かれるほどの衝撃を一身に受け、一時気を失うほどであった。


 確かに見た。


 むなしく広がる荒野。泣いている。それは、かつて豊穣と春を告げしもの。冬の終わりを告げしもの。

 泣いている。ただ一心に、ただ一つを願い。泣いている。

 淦色の黄金咲き誇る荒野には、生の息吹感じることなし。太陽はうつろに天を行く。大地は嘆きしものを見放した。

 彼女は動けるはずもなかった。約定が果たされることなどないから。

 彼女は動けるはずもなかった。それでも信じ続けていたから。

 彼女は動けるはずもなかった。すべてを失ったから。


 自らのせいで。自らの責で。自らの悔いで。


 その日、すべてを失ったから。


 手は、その頬を堕ちる涙をしっかりと受け止めていた。ハッと驚いたように、ラインの乙女がこちらを見て、少し恥ずかしそうに眉をひそめた。


「見たのか」


 その消え入りそうな声に、アドルフ・ヒトラーは、うなづくこと以上はできなかった。


「私は、見ました」


「軽蔑しただろう。妾はアマテラスのごとく剛からず、かの貴婦人のごとく貪らず、とこよのごとく寛からず。ただ禁を破り、残りし骸なりしもの。

 

 それは、おのずから禁忌に足を踏み入れるに等しい。

 咎持って残された永劫を、ただ在り続けるだけの残骸となり果てしものだ。」


「その残骸が欲したのは、かのものでありましょう。

 そうであるのならば、貴方の心がそうであるのならば。


 なぜ、我らに救いの手を差し伸べたのです。」


 ラインの乙女の底から絞り出すような声に、アドルフ・ヒトラーは、問いかけた。それに、ラインの乙女は少し、葛藤に満ちた表情を浮かべながらも問いに、ただただ誠実に答えた。


 その答えだけが答え。それで、十分だった。



 アーリアとケルト、ふたつの源を一に抱き、ドイツの民の再誕。

 其を夢見、祭祀者とその神は、確かに言葉を交わした。交わした言霊は神託となり、呪とも祝ともつかぬ戒律を紡ぎだす。それは、二つを結ぶ新たな約定となった。


 その約定。人が生きるために取りうるすべてを含み、儚きものとなる未来を焼き尽くすための……再度の誓約である。

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