1921年2月23日 東京某所
彼女は、時間通りに現れた。そこから、私たちに言葉はなかった。その禁域に真っすぐに進む。洞穴を抜けた先にあったのは、上り坂だった。その先から強烈な視線を感じる。
なぜか、その視線からは、怒りの感情と熱を感じた。熱は、穏やかな日の光ではなく、すべてを焼き尽くす破滅的な陽光。
「千引に触れ。天岩戸を覗き見た。――」老 一願の言っていた言葉が脳裏によみがえる。わずかな間だったが、情報を仕入れることはできた。
「チビキというのは、日本における生死の境ということだな。そして、アマノイワド。これは、日本の主神がこもった岩戸のことを言う。ここに神が引き籠ったことで世界は闇に包まれた。……ラインの乙女。私はチビキでは下り、アマノイワドでは、貴婦人と共に平坦な道を進んだ。
では、私が昇っている先にあるのは、何なのだ」
返答が返ってくるとは思っていない。だが、聞いたのだ。
「高天原……もしくはヴァルハラ。だと思う。私は、そこに行ったことないから。聞いただけだから。
そもそも、私は――歓迎されていない」
その声は小さかった。しかし、耳にしっかりと入ってきた。にじみ出るものは、忌避と諦観。そして、自己嫌悪であろうか。それでも、その足は止まらず動き続けている。その姿勢は、今としてみればぞっとするほどに美しい。
「彼女は……神ではないか」
そっと心中で発した言葉が、それが答えであるというように脳に染み渡った。となれば、彼女が怖れている貴婦人やとこよはそれよりも上位の神ということになる。
アドルフ・ヒトラーは自らの出した答えにばかばかしいと首を振ることなどはできなかった。アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンを求めたラインの乙女と、自らを求めるように暗躍した貴婦人やとこよに何の違いがあるのだろうか。神は一つのはず。だが、見たこともない神よりも隣で憂を浮かべながら、肩を並べて淡々と歩いている神を知りたいとも思うようになっていた。
だが、その時間はまもなくに終わる。
「いや、ようこそ。ようこそ。わらわの親なる友たるラインの乙女とその眷族候補。待ちかねたぞ」
坂の上にいたのは、笑みを浮かべた女性だった。頭に太陽をかたどった飾をつけ、胸元に鏡を結い、神社などでよく見かけた女性が羽織る服装に身を固めている。だが、その神性をうたう装いは、右肩に担いだ大剣によって台無しになっていた。その大きさは、その女性の伸長よりも大きく、ラインの乙女の伸長とほぼ同じ。とすると、2mはある。彼女は、それを悠々と担ぎゆっくりとラインの乙女のもとに歩み寄ってきた。
「アマテラス」
「いけないわね。神の名を簡単に人の前で吹聴したら。狂ったって聞いてたけど、健勝そうで何よりだわ。
地獄の大娼婦様」
その言葉に、むっとした怒りをラインの乙女は浮かべた。
地獄の大娼婦……カイーナに住まう聖職者たちを誘惑する大悪魔の呼称だ。宗教画でも時折モデルになり、特に、ルネッサンス期に描かれた”聖ラベスの誘惑”という絵画が知られている。夜の教会で聖書を前に考え込んでいる聖ラベスを、地獄の大娼婦が誘惑するという命題の絵画。これは、宗教画であると同時に、当時の教会の腐敗に斬り込んだ作品としても評価が高い。
そして、近代の神学研究では、地獄の大娼婦は――。
あなただったのか。
アドルフ・ヒトラーは、自らのたどり着いた答えが口から出ようとするのを何とか、胸の内までで、抑え込んだ。
おそらく、ラインの乙女は、その名で呼ばれることを望んではいないのだろう。ゆえに、彼女は、私の前では、ラインの乙女と名乗った。もし、ここに、アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンがいたのならば、彼女は自らの全てを打ち明けることも可能であったに違いない。
ラインの乙女の心は組むべきだ。相対する哂うアマテラス。おそらく彼女も神なのだろう。
不用意な行動は暗に慎むべし。
だが、問いかけた。
「思い出話は、いいことだと、私は思っている。だが、貴方は、案内人を任されたのではなかったのか?」
その声に、アマテラスと呼ばれた女性は、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。そのすべてが美しい。その美しいものは、顔を崩すほどに醜悪に高らかに笑った。思わず、思い出したのは、風の強い白夜の夜だった。太陽は沈まないが、天にあるだけでその熱を届けることはない。夜は寒々しい光の中に沈む。
それは、悍ましいほどに怖れるべき姿だった。
「あははははっ。その通り。まったくもって。その通りよ。アドルフ・ヒトラー。我らの母から、貴方のことは効いているわ。前途有望な人間。そう聞いている。でも、ね。私は、この腑抜けにも用があるし、この腑抜けも、私に用があるの。だから、どうしようかしら。さて。どうして暮れようかしら。うふふ。くくっ。あーはははは」
「話が進んでおらんぞ。全く。様子を見に来てみれば……その様。行い。そのすべてを余すことなく、お前の母君に告げてやろうか?」
不意にかけられた声。驚き見上げた。そこには、青白い皮膚の男性が悠然と立っていた。男性感じるのは、濃厚な死の匂いが拡がるのを感じ、思わず鼻を肘で覆った。だが、男性は、それを気にしたことがないように悠然と立っている。アドルフ・ヒトラーは、自らの行動を恥じた様に、腕をもとの位置に戻した。
「ああ、すまなかったな。貴公を試したわけではないが、よく観えているな。」
返ってきた返答は意外なものだった。怒りではなくただ平然とした対応。相手の度量の深さを感じさせる対応であった。
「さて、参ろうか。貴公。名は?」
「アドルフ・ヒトラーだ」
そう答えると、男性は、目を閉じた。アドルフ・ヒトラー……アドルフ・ヒトラー。男性は、まるでかみしめるかのように、名前を何度か口にする。そして、目を開くと、じっとのぞき込んできた。
「素晴らしいな。彼女たちが見込んだだけのことはある。
良いだろう。約定に従い、この者の身魂をしばし借りるぞ。ラインの乙女。
異論はないな」
男性にラインの乙女は、おびえたような表情を浮かべたものの、すぐにりりしい顔立ちに戻ると、静かにうなづいた。
「お願いいたします。私も。私も。目的を果たす必要がありますので」
凛としてラインの乙女が発した声に、男性はうなづく。
「良し。さて、それでは、アドルフ・ヒトラー。参ろうか」
「ええ、では頼みます」
二人は、門をくぐる。直後、何かのぶつかる音が後方にて響いた。しかし、アドルフ・ヒトラーは、振り返ることはなかった。
先に進む。ただひたすらに。前の背中を追うように。ゆっくりとした足取りながら、まるで追いつくことを許さないその背中は、遠くもなく近くにもなかった。
「なぜ私が、案内を買って出たのかという顔をしているな」
不意に問いかけを授かる。疑問というよりも、それは、確信に聞こえた。それは、こちらの答えを待つ確信。確信というよりも……。
「ラインの乙女には、役割がある。」
「話が早くて助かる。独り言だが、彼女がこちらに居たら、これは、もっと後にあるはずのことだ。そして、求めている。求められている。
彼女も……貴公もな」
役割。それは、重くアドルフ・ヒトラーの双肩にのしかかっている。この旅はバカンスなどではなく、自身を試す何かだったのだと、悟っている。見て見ぬふりをしていた。ことは、自らの罪であるのであろうか。それとも。
それを知るすべなど、自身に在ろうはずなどないはずなのに。
「逆に良かったと我は思っている。貴公は、為すだろう。貴公が為そうとすることは、我らの目的の一助になる。我らと助けよ。アドルフ・ヒトラー」
「私の目的は、唯一つだ。故に、神々の目的がいかにあろうと、私の目的を妨げることは許されない。試されているとしても、私はその企てを必ず超えて見せる。」
その言葉に対して、相手から感じたのは、そのことは知っているとでも言いそうな空気だった。だが、それは、哀れみや憐憫より出るものではない。深い同情の念があった。
「かつて、同じように考えたものがいた。アドルフ・ヒトラー。貴公の目的と同じだ。消えようとしている愛すべきものたちが、結びつく理を与え。そして、未来につなごうとした。
だが、かのものは、気が付いた。」
「気が付いた?」
静かに、ゆっくりと頭が背中に消えるを見た。声はつづけた。
「彼ものの行いの果てに生まれたのが、この世界だ。だからこそ……彼は、後悔し続けているだろう。人間は、多かれ少なくありながらも、短いその生の中で、自責の念に苛まれることも、終わらない後悔に絶望することもできる。それこそが、人間にのみに許された大いなる権利のようなものだ。ゆえに、未来をあきらめきれない。彼は、それが最後になるまで理解できなかった。彼は勝者とたたえられているが、現実はどうだ。
彼は、利用されるために死んだのではない。この先に進むのならば、お前の前に彼は立ちはだかるだろう。
お前はどうなる。アドルフ・ヒトラー。お前も、同じになる」
青白い男性は、いったん言葉を切った。坂が終わろうとしていた。先にいたのは、貴婦人ととこよであった。二人が浮かべているのは、慈愛の微笑み。わが子に向ける愛にも似た笑み。
だが、その身から感じるのは、凍てつくほどの圧。そう、前に進まなければならない圧力。
この先にこそ、目的とするものがある。ラインの乙女が、アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンに託そうとしたそれが。
アドルフ・ヒトラーの心中に訪れていたのは、不思議な葛藤だった。それは、忌避から生まれ得る逃走ではなく、嫌悪から生まれる拒絶ではなかった。
かつて絵を描いているときに感じた現実から隔絶しているような疎外感と、自らが受け取る資格を得ているのかという葛藤だった。
まもなく、その前に立つ。




