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1921年1月4日 横浜

 ゆっくりとした足取りで税関を出て、通りを歩く。太陽はいつしか、高く上り、車と電車の行きかう中を、子供たちがはしゃぎながら通り過ぎていく。道端にきれいに積み上げられた雪の山の隣には、小さな雪の人形があり、それは、アドルフ・ヒトラーをまるで歓待するように微笑んでいた。それは、確かに祖国で失われた日常の光景であった。


「雪が降っていたのか。冷え込んだはずだ」


――「突撃!フランスを打倒せ!」おもちゃの銃剣を構えた子供が、通りを走っていく。「ドイツ帝国軍が来る!」「フランスはドイツにかなわないぞ!逃げろ!」戦争ごっこに興じる子供たちを見る親御の顔は優しい。皆が、ドイツの勝利を信じ、自らに訪れる未来を信じていた。あの頃。――




 足に何かが引っ掛かった。


 ――「おじちゃん。ひもじいの。なにか……ちょうだい」


 声は細く、今にも風にかき消されそうだった。ヒトラーが視線を落とすと、小さな手がズボンの裾をつかんでいた。骨のように細いその指先は、あまりに冷たく、血の気がなかった。


 その手の先にいたのは、痩せこけた子供だった。もとは、コートのようなであったであろうぼろきれは寒さを凌ぐにはあまりに無力に感じた。だが、視線を下げた先にあったもう片方の手には――さらに無力なものを大事に握り締めていた。

 分厚くまとめ上げられた札束。ドイツ・マルク。

 しかし、それはすでに通貨ではなかった。インクのにじんだ、無様な絵の描かれた紙切れ。経済という国家の血液は腐敗し、もはや死体となっていた。かつてあれほど誇った経済は、今やおもちゃよりも軽く、無力だった。


 それを、子供は大事なもののように握り締めていた。

 その瞬間、ヒトラーの脳裏に幻影が走る。


 ――帰る自分に、石を投げながら、滅びる国より逃げる母子。

 ――降り立った駅でただ、死を待つように座り込む老人の群れ。

 ――戦後の瓦礫の街角で、自らの世代の出生を呪いながら餓死していった兵士たち。


 それらがこの子の顔と重なり、脳内で咆哮を上げた。


 思わず一歩、後ずさる。足元の雪が音を立てた。

 その時、風が吹いた。子供の手から紙幣が一枚、はらりと舞い、積もった雪の上に落ちた。


 白と灰色のコントラストが、ヒトラーの目を射抜いた。

 血に濡れた過去と、無垢な未来――紙と雪は、それぞれを象徴していた。


 ヒトラーは膝をつきかけ、何とか踏みとどまると、震える手でその紙幣を拾い上げた。だがそれは、紙幣ではなかった。


 どこかの冊子だった。読めない文字が並び、表紙には、笑顔の家族と、温かな食卓が描かれていた。


 ――幸福。

 ――安寧。

 ――かつて国が約束し、われらが護り切れず、そして壊れたもの。

 ヒトラーの指先から、その冊子が滑り落ちる。風に乗って、紙は通りを転がり、彼の背後へ消えていった。彼は追わなかった。追えなかった。


 この光景はあまりに穏やかで、あまりに残酷だった。祖国では失われた日常が、ここにはある。それが、耐え難い現実だった。

 ヒトラーとは逆の方向へ駆け抜けていく冊子の行き先を見届けることなく、帽子を深くかぶりなおし、再び歩き始めようとした。

 都会の冷たい空気を吸い込む。排気ガスの苦みとともに、好奇の視線までも喉の奥へ流し込むようだった。

 

 

「伍長閣下かしら」


 そんな彼に声をかけたものがいた。ヒトラーは、ゆっくりと振り返る。その場に尋ね人はいた。先ほど、冊子を指でつまんだところだ。先ほどまで、確かに誰もいなかったはずの場所に立っていた。まるで、最初からすべてを見ていたかのように。


 思わず万人が振り返りみる、その特徴的な容貌を見落とした。だが、その事実はヒトラーにとっては、驚くほどのことではなかった。彼女は、常にヒトラーの前に現れる。それは日常の光景でもあった。


「ラインの乙女か。見つけていたのならば、声くらいはかけて欲しかったが」

「ええ。あなたが、思い出に浸っているから邪魔をしたら悪いと思っただけよ。どう?この日本は。いい国でしょう」


 ふんっと、ヒトラーは、その言葉を鼻で笑った。相当な権力を持っているはずのこの女性だが、その正体は全くもってつかみどころがなかった。

 打ちひしがれていた、自らに手を差し伸べ、ドイツの国民のために、未来への探求を行うべきだと告げたこの女性。自らに、ラインの乙女などという仰々しい呼び名を付ける様子。何をとってもうさん臭く、何をとっても信用などできようはずもなかった。

 だが、彼女は行った。アドルフ・ヒトラーを支援することを明言し、彼の名を代表に使った基金を創設。自らが貧困の救済に乗り出したのである。ドイツ国民基金と名付けられたその組織は、今、困窮の際にあるドイツの国民の間にアドルフ・ヒトラーの名とともに、深く入り込み始めていた。

 それほどの支援を受けた彼女に礼を述べたところ、ラインの乙女より、支援の見返りをアドルフ・ヒトラーは告げられた。

 当然、あまりに虫の良い話に、警戒していたアドルフ・ヒトラーであった。

 ただ、告げられた見返りは、そのように警戒をしていたヒトラーすらも、さらに困惑をさせるものであった。


 わたくし、ラインの乙女とともに、日本を訪れ、私の言う通りに共に行動を行うこと。

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