忌むべき英雄 上
不思議なほどに静かであった。つい、先日までそこは、混沌と混乱の中にあったというのに。外に護衛の一人もなく、そこはいつになく静まり返っていた。
「なあ、ちび坊――」
その気配に竜騎兵が困惑に満ちた声を上げた。それを、自分はゆっくりと手を挙げて制した。はあっと大きな息を吐く。
あの時だ。ああ、間違いない、あの時だ。それが、性懲りもなく自らの目に再現される。それは、視覚だけではない、音も、匂いも、そして、触れる感覚すら……そうに違いない。
「ああ、そうだな。偽竜騎兵。いや、今は本物の竜騎兵か?」
「ドゥルニル兄貴のことを馬鹿にするのは許さねえって――1か月前に言ったか」
「ああ、1か月だな。もう。
すまなかった。
ついでに、すまないが、確認を頼む」
竜騎兵は、こちらを振り返りながら駆け去っていく。
私は。私は怒りに震えている。だが、私はどうだろうか。私は、困惑しているだろう。天幕のうちから聞こえ得ぬ声たちに。そう、聞こえるべき声はその日はなく、ただ、痛いほどの沈黙と静寂が司令部を覆っていた。
『開けるな』
そう願う心は、かなわず。そう、
いつでもそうなのだ。
「司令官殿、前線が司令を求めています。
……司令官殿?」
私は、いつでも無力なのだ。
床一面に、こげ茶色のキャンバスに広がる勲章の海。テーブルに広がるのは、敗北の未来を示す、机上の空論。
だが、私は知っている。
敗戦は、ひとを狂わせる。故に、彼らは狂ったのだと。
「アドルフ。周囲を確認してきた。……この状況は?」
竜騎兵の声が遠くに聞こえた。私は、それほどまでに深く、その場所にとどまっていたのか。体からすべての力が抜け、まるで操り人形の糸に操られるように体は重い。ただ、ゆっくりと司令部の最奥を目指す。
そこにあったのは、柱に突き刺さったナイフと……命令と呼ぶには、程遠い。ただの一行の伝言であった。
剥ぎ取る。何度見入る。
何かないのか、何もないのか。疑心暗鬼にかられながら、浮き出し、浸透すべてを試す。私は、それを見たくないのだ。何も見せないでくれ。その願いはむなしく、陽の日の下にその文字はくっきりと姿を顕す。
閉じたい目は閉じずに、その網膜に、前頭葉にその言葉を映しつけてくる。忘れ去ることのない記憶として、それは焼き付けられる。やめてくれ。やめてくれ。それをもう見せないでくれ。
理想から遠く離れた現実を……見せるのは。もう、止めてくれ。
願いなど届かない。届きようもなく、ただ、残酷な現実が、私の理想を喰らい始める。
幼いころから小さくて非力だった。運動よりも絵を描くことが好きで、皆からは夢想家と呼ばれ、さげすまれていた。家族に理解されることなどなく、ずっと孤独に過ごしてきた。
街が、森が、川が好きでよく木炭と布切れを手に。休みの時は、スケッチに出かけた。私にとって、あるべき姿は理想であった。研鑽、努力。そして機会は、ただただ逃さず手にした。
私は、ただ、理想を現実に残したかった。
それだけなのだ。
ウィーンは私を認めず、私は、現実の中に生きるしかなかった。家族のため、ドイツに移住し、志願兵として軍に従事し。信頼を得て、信用を獲得し、部下も持った。
それでも、理想は心の中に巣食っていた。だが、飼いならし方は知ったはずだ。
今日、それが、根本的に間違えていたと知るまでは。
「敗北主義者ども。敗北主義者共。貴様らは街灯につるされよ。石もて……痛みを知るがいい」
その紙を握り締める手に力がこもる。くたびれた革の手袋を破り、何週間も切っていない爪が皮膚に突き刺さる。私の流す血は、その文言を消し去ってくれるだろうか、修正してくれるだろうか。
それはあり得ない。これは、起きている現実なのだから。
理想とは違う。だからこそ、理想に近づけなければならなかった。
「あ、アドルフ、それにはなんて」
竜騎兵に血に汚れたメモを渡す。読んだ竜騎兵から瞬く間に表情が消える。
「本気か?本当になのか?これは」
「ああ、そうだ、これが現実だ」
私は、海にしゃがみ込むと、一番良い服を探し出し、それを羽織る。机の前に立つと、その上の座する無意味な一群を薙ぎ払った。それは、悲し気な声をあげ、部屋の中に飛び散り、白の海を新たに作り出す。
「アドルフ?アドルフ・ヒトラー?お前、何を?」
「竜騎兵。手の文書を、読み上げてくれ。頼む」
竜騎兵は、しばし困惑の表情で私を見ていたが、やがて決断するように、うなづいた。大きく深呼吸をお互いにする。
「後悔はないんだな。今なら知らなかったで通せる」
「ああ、理想が消えようとしているときに後悔などしていられるか。私は。私の理想でドイツの国民を救う。これこそが、私の闘い。闘争だ。」
何の決意も決断もなく、言葉が喉から滑り堕ちた。それを見た、竜騎兵が、静かに、しかしゆっくりと確実にうなづくのが見えた。
「アドルフ・ヒトラー伍長にメモの内容を報告します。『我々は、この戦いに敗北を喫したことをここに宣言する。だが、我々には未来がある。兵士諸君は、この文書を読んだら、各自で独自に行動するように』。以上です。」
吐き気がする。唾棄すべき吐き気だ。だが、それは飲み込んだ。
怒りでも、飽きれでもなく。ただ、理解できないがゆえの疎外感と忌避感が体の内を駆け巡り、冷静になった脳に、静かに伝令を伝えた。
彼らの言葉、彼らの行動。いずれにも相違がない。そのことには、私ですら、一種の感銘すら覚える。彼らの理想は、そこにあったのだ。
自分が死ぬのならば、敗北する方がましだ。
ならば、私は、私の理想の為に。
そして、理想とするものの為に死するとしよう。
飲み込んでしまえば、あとは早い。手が、すでに見慣れた降伏文書を作成していく。
今、私の双肩に、3万人のドイツ軍兵の命がかかっていた。




