1921年2月23日 東京某所
彼からの最後の報告は非常に簡素。そして、実にらしい言葉だった。
「親父殿が戻ってくるのを、ドイツ国民と共に、みな心より待っている」
彼の言葉は、現在のプロジェクトが、順調に推移していることを示唆している。ドイツ国民基金が用意したパンとエールは、すべからくドイツ国民にいきわたり、そして、それを阻害しようと企てるものたちとの戦いに勝利しつつあるということの証左。それをかみしめたアドルフ・ヒトラーは、一週間を切った残された期間を組織の長としてではなく、自らとドイツの未来を知ることに変えたのであった。
思えば、ラインの乙女は、こ個までのことは、見越していたといえるのだろう。
「私と共に日本へと渡り、未来を探求すること」それが、彼女の求めた今回の旅の主目的であった。故に、聞かざるおえなかった。故に、識っておかなければならなかった。
「で、何を聞きたいのかしら?」
今夜の打ち合わせ。とは言っても、ほんのわずかな確認。その儀が終わった後、アドルフ・ヒトラーが発した問いに、明らかにラインの乙女は不機嫌そうな表情を浮かべた。すでに書類はほぼ片付けられたその部屋は、短い間の主の、心代わりか役代わりを顕しているように、生活感のない凛とした空気が見えざる刃のように張り詰めていた。
「アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンのことだ」
「……」
沈黙の中で、ラインの乙女は、右眉を微かに上げた。それを「続けろ。」ということだと察したアドルフ・ヒトラーは、そのまま、問いかけた。
「あなたは、彼女と共にいたのか」
「……隠し立てしてももう、無駄でしょう。ええ。そうよ。私は、彼女に。
私の未来を賭けていた。
そのために、私の未来を含む、多くのものを積んだ。そして、多くのものを失った。
彼女もろともね」
口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「勝利と敗北。そして、復活。それが計画だった。
台無しよ。もう、何もかもが台無しなの」
大きくその口から出た言葉は、失望であった。
「残し仔たちが、貴方たちに敗れるほど、落ちぶれているとは……ここまで惰弱だとは思っていなかった。残し仔たちがあの男との誓約を破るほど思慮がないなど考えていなかった。そして、群れ集まったあなたたちがここまで愚かだと思っていなかった。」
そこまで言ったのちに、ふうっと大きく息を吸い込んだ。言い過ぎたと思ったのだろう。その顔にはかすかに疲労の影が見えた。
「勝利」
「ランス戦よ。あなたの言葉では、第一次ランス攻略戦。となるわね」
第一次ランス攻略戦。奇跡の作戦と呼ばれたそれのことをアドルフ・ヒトラーは人づてに聞いたこと以上は知らない。ベルギー国境からほど近い、フランスの戦略上重要な拠点であるランスという都市がある。鉄道網がよく整備され、戦時の物資集積所に最適な地形を持つその都市は、初期のシェリーフェンプランにおける激戦地になるはずであった。
しかし、ふたを開けてみれば、1週間でランスは陥落し、フランス軍の東部戦線の最高司令官の一人を打ち取ることに成功する大成功を収めた。これにより、作戦立案能力が低下し、混乱をきたしたフランスの東部配置の正規軍をドイツ軍は食い漁りながら前進することに成功したのである。
「あれは、アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンの立案した作戦。彼女の持つ稀有な能力である、情報と戦場の一体化によりなし得た作戦よ」
その言葉に、アドルフ・ヒトラーは驚きを覚えた。確かに、ヒルデは、ヒトラーの配下に配属された直後、3か月ほど重要作戦参加の為という名目で転配されている。その3か月の間にそのようなことがあったとは知る由もなかった。
「ただ、その華々しい勝利が、彼女の未来に影を落としたのは事実。
有能なものは嫌われる。
あなたたちはそうだったわね。前情報通りに動いてくれたのは本当にうれしかったわ」
皮肉気にそう漏らすと、そっとラインの乙女は窓の外を見た。
「アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェンは、死なないはずだった。人の手によって死なないはずだった。それが、まさか、残し仔の……生き恥さらし共の手により葬られることになるなど、思いもしなかった」
かすかに怒りを含んだその声は、低く抑えた口調であったにもかかわらず、部屋の空気を震わせた。かつてであれば、それに圧倒されていただろう、それに、怖れを抱いていただろう。だが、アドルフ・ヒトラーに起こったのは、そのどちらの感情でもなかった。ただ、ラインの乙女が伝えることを、理解することができるだけであった。
「私は、故にだったのか」
「そう。あなたは、おまけだったのよ。彼女の。私にとって、彼女がすべてだった。でも、あいつらは。あいつらは、貴方に役割を与えようとしている」
その痛々しい言葉に、ただ、耐えるように、こぶしを握り締めた。しばらくの間、興奮したように肩を上下していたラインの乙女は、瞬きの後には落ち着いたように口調をやわらげていた。
「あいつらにもせかされているし、もう、今日しかない。あなたに任せるわ」
それだけを告げると、ゆっくりと部屋から立ち去っていく。それと同時に重々しい空気が霧散するのを感じた。アドルフ・ヒトラーは、ゆっくりと呼吸をすると、後に続いて部屋から出ていく。
鍵のかかる音だけが、その静寂に取り残された。
コーヒーラウンジには、徳川 慶安がくつろいだ様子で椅子に腰かけていた。対面にアドルフ・ヒトラーが腰かけるといつものコーヒーが注文なく運ばれてくる。
ウエイターが、背を向け静かに立ち去る。静かにキセルを傾けていた慶安は、それをゆっくりと火皿に置く。立ち上る細い紫煙は、テーブルで向かいあう二人の間で一つの糸を作っていた。
「来ると思っていたよ。アドルフ・ヒトラー」
そう徳川慶安がいうと、紫煙がかすかに揺れた。先日よりはるかにくつろいでいるように感じるのは、自らに置かれた大役が終わったからだろう。
「ああ」
その言葉に、あいまいな肯定をアドルフ・ヒトラーは返した。
「満州に行くことが決定したよ。ああ、満州というのは、中国の北東部。ロシア……ソ連との国境付近か。そこで、やり直しというわけだ。将軍の名も返上したし、これで、300年近くにわたる我々の戦いも終わりを迎えることができた」
「戦い?」
紫煙がゆっくりとたなびく。それに対して、ふっと慶安は笑みを浮かべた。
「ああ。君らと我ら。今のドイツと、昔の日本。よく似ていると思ってね。まあ、ひどい時代があったのだよ」
そこまで言うと、慶安はコーヒーに口をつけ、お代わりを所望した。ウエイターが背を向けたのを確認した慶安は、静かに語った。
「かつては、この日本も同じだったということだ。それを納めたのは、徳川 家康公。私は直系ではないが、私のご先祖様ということだ」
二人の沈黙の中、コーヒーがカップに注がれる。
「徳川家康公?」
「ああ。歴史というのは、勝者の手によって描かれる。それはよくご存じのことと思うが。我らの世界における勝者は、3名がよく知られている」
慶安は、角砂糖のポットのふたを開けると、ひとつまみ取り出した。
「これは、イエス・キリスト。彼は、欧州とアフリカの超人たちに神と誓約を結ばせることで、その領域を分けることに成功した」
ソーサーそれを置くと、2つ目を取り出す。
「これは、曹孟徳。彼は、大陸に武による覇を唱えることで、超人たちが共にあることを恐れない律を作り出した」
3つ目。それを2つの上に置いた。
「そして、これが、徳川家康公。かれは、その卓越した手腕により、超人を治めることを可能にした。麻のように乱れに乱れたこの国は、彼の手により繋ぎ止められた。これは、織田信長や豊臣秀吉では成し遂げられなかった偉業。そして、その2人がいたからこそ、成し遂げられた偉業だ」
「……そうか」
しばらくして、アドルフ・ヒトラーは、納得したような声を腹の底から出した。それを聞いた慶安は、コーヒーに3つの角砂糖を放り込むとウエイターが向ける白い眼を気にせずにそのまま、一気に飲み下す。
「だが、歴史に混ざり込めば、この一杯のコーヒーに過ぎない。
おそらく、成そうとしたものは、知るよりも多いのだろう。
彼らに足りなかったものは、勝者になること。ただそれだけであったのかもしれない」
「確かに、その通りと言えるな。」
ふっと笑顔を浮かべたアドルフ・ヒトラーと、徳川慶安だったが、不意に慶安が表情を強めた。
紫煙が斬れた。
「故にだ。貴君は、成るな。
憧れは憧れのままであることこそが美しい。
憧れに触れること、それは、芸術家にとっては禁忌である。
ましてや……」
「芸術という理想を、現実に再現することは、神秘に触れることに等しい。
芸術家は、神秘に触れるな。触れるものは、己が命を短くすると知るがいい。」
覚えていたのかと、言った表情を浮かべた慶安に対して、アドルフ・ヒトラーの心中は穏やかではなかった。そう、自分は、その禁忌を犯そうとしているそれは、明らかなことであったからだ。
「貴君からは、神秘……否、すでに触れつつあるを感じる。
今一度、一言忠告させてもらう。
成るな。
貴君が成らずとも、貴君の望みは達せられる」
それだけを言うと、慶安は、キセルを口に咥えなおした。それ以上は話すことはないとでもいうように。
それを見越したアドルフ・ヒトラーは、静かにカップを傾けるとコーヒーを口にした。
苦さは、今を教訓にするかのように舌の上に残っていた。
第一次世界大戦初期のドイツがシェリーフェンプランを成功させて、ベルギー突破から、第一次ヤルヌ会戦勝利、パリ占領までとりあえず行き着くために最低限必要なチートを集めてみました。
結果、冷戦期程度の練度を持った特殊部隊、手段を問わない攻勢、戦術の天才という最低限のチートが生まれました。
主要防衛都市陥落までの時間大幅短縮と情報戦による敵司令官の撃破という順当な功績にを作り出すことに成功して大体満足です。
考えた後に、一瞬だけ「第二次世界大戦末期の技術将校が逆行転生して、ティーガー戦車とかメーサーシュエットとか作って、MK42を標準装備にすれば全部一瞬で終わるんじゃね?」と考えたのは内緒。




