表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/27

1921年2月20日 東京神田 料亭~常盤~ 下

「では、主膳。

 フランス。鶴の香草焼き。

 ソビエト連邦。朱鯛の酔い蒸し。


 にてございます」


 主膳に乗っていたのはいずれも、第一次世界大戦にて、祖国ドイツに煮え湯を飲ませた敵国。それが、アドルフ・ヒトラーに食されるためにあった。だが、主膳に乗ってきたもの。それの盛り合わせに、アドルフ・ヒトラーは違和感を覚えた。ここは、とこよからの説明を聞くがいいだろうと思い箸を引く。それを見たとこよは、少しうれし気に微笑んだ。


「謙虚おすな。アドルフ・ヒトラー様は」


 言葉だけを取れば、素直な賛辞とも取れただろう。だが、アドルフ・ヒトラーはそう思うことはできなかった。

 まず、その指が指示したのは、朱鯛の酔い蒸しだった。


「まずは一口。おたべやす。この料理は、熱さが決め手さかい。」


 少しの逡巡ののちに朱鯛に箸を入れる。サクッとした皮の抵抗はあったものの、箸は留まることなくするすると身をはいでいく。湯気立つそれをゆっくりと口の中に運び入れると、鯛のみから出汁と酒精の香りがふわっと立ち上った。


「ほう……」


 ただ、その酒精は強く感じられて、たったの一箸で手が止まった。それを見通していたようにとこよは、まるで確認するようにアドルフ・ヒトラーに問いかけた。


「一口でよろしか」


 皿の上に残ったのは、半身だけだった。一口であっという間に消えたそれを見て、アドルフ・ヒトラーは満足げにうなづいた。フランス。そちらの方に興味があったからだ。


 鶴の頭を模した精巧な作り皿に、見たこともない肉が乗っかっていた。表面に焼き色を付けるためだろうか、軽くあぶってあり、匂いを嗅ぐとそれは、嗅いだことのないだが、どこか不穏な芳香を漂わせていた。


「鶴肉をフォン・ド・グルー……鶴のスープにて煮込んだものを香草にて包み込み、粘土で包み焼き上げたものになります。中国では、乞食鳥ともいわれるようですが。大層な手間暇かけてあります。名前を付けるとするのならば、鶴の香草焼き。鶴っていうのは、見てくれはよろしゅうものでございますが、あの声はいただけまへん。この皿にはそのすべてを乗せてありんす」


 すっと箸を入れると、肉はぶつぶつと抵抗なく切れていく。そこから滴るスープは、味わったこともないような深い滋味を鼻腔にもたらしてくれる。箸でつまむと落ちてしまいそうなそれ。取り扱いには、重々な慎重さが求められる。ようやくに橋の上に乗り切った一口分をゆっくりと口を運ぶ。かみしめた。


 それは、おそらく真に味わうことのない美味にして美味であろう。天上の美味という言葉は古今東西の美食家たちは使いたがるが、それは、この料理を食していなからだと断言できる。一口が喉を通り過ぎることには、もはや止まることなくおかれていたカトラリーに手を伸ばすと、肉を刻みて口に運ぶことしか考えられないようになる。

 その衝動の前には、皿から料理が消え去るのに時間はほどんどかからなかった。朱鯛の酔い蒸しも滋味ではあったが、この料理には、一歩か二歩遅れてしまう。それほどの妙味がこの料理にはあった。

 皿が空くのにはさほどの時間もかからなかった。


 カトラリーを皿の隅にまとめて置くと、残った朱鯛の残りを食しようと箸を差し込んだ。


「うっ?むぅう?」


 困惑するほど抵抗。先ほどの身の柔らかさとは全く違う鯛の身が箸の進行を止めた。思わずに、力を入れる。

 その瞬間だった。


 ばきっ……


 箸が限界を迎えて折れた。それは、ゆっくりと畳に転がった。やがて止まる。音にラインの乙女は、わずかに驚いた表情を浮かべたものの、それ以上言葉を発することはなく、ただ、傍観者のように、アドルフ・ヒトラーととこよのことを見ていた。


「あら、折れたわ。戦端(はし)が折れたわ。ほほ。おかしいことですこと。」


 そう、おかしかった。この箸一つとってもとても上等なもの。それは、十分に意識をして慎重に取り扱っていた。それが、折れるなど、驚きを越して、ただ、唖然とした感情のみをだけを意識に与えていた。


「冬になれば冷えるは常。冷えているものを無理に食しよう(じしよう)としてもほら。」


 とこよの手により、アドルフ・ヒトラーの手に、おえなかったそれは、まるで豆腐を割くように割られる。一口大になったものを目の前に出され、アドルフ・ヒトラー思わず、口を開きそれを迎え入れた。


「うん?固いが……うぅっ。ごほ、ごほっ、うっ。ぅううぇ……。」


 先ほどの食の快感はどこに言ったのか、それは、冷たく冷え、冷めていた。冷めて、凍てつき、ただ、不快なだけだった。口から出なかっただけで、それは、立派なことだった。喉の奥まで出たそれが落ち着くのを素直に待つ。見たくもないが、再び、料理に目を落とす。


「これは、……もう冷めたのか」


 アドルフ・ヒトラーの問いに、とこよは静かに首を横に振った。そして開いた目には黄金の光が宿っていた。


「いえ。冷めたのではありませぬ。冬が来たのです。犠牲の季節が訪れた。そして、」


 アドルフ・ヒトラーは静かに悟った。犠牲は求められるものだが、その求めに応じた後、残るのはどこまでも人間の心持だ。では、これは、何のために犠牲になったものに対して抱いた、誰の耐えきれと感じた心なのか。空になった皿のほうに視線を移す。完食に心躍ったのは、誰だったのか。

 静かに悟った。

 ゆっくりと壊れた箸をおく。


「あら、もういいんどすか?」


 とこよの声が静かに部屋の中に響いた。ああっ。と、アドルフ・ヒトラーは答える。おそらく食した先には何か得られるものがあるのだと思う。だが……。


「敬愛する方が愛した場所だ。私が土足で踏みにじる必要などないだろう」


 それに……という言葉は思わずのみこんだ。だが、その言葉は思わずにのみこんだ。とこよの表情があまりに真剣であったから。とこよは、静かに女中を呼び込みと、残った主膳を引き揚げさせる。代わりに帰ってきたのは、小さな膳だった。上には、たった一つの料理が乗っている。七つの卵の目玉焼きを模した……いや。これは見立てだ。


「趣膳 イギリス 老いたる大海の覇者。かつて七つの大洋を制し、日の沈まぬといわれたあの国。今や常に日の沈む国になりました。では、沈んだ太陽はもう上がらないのか。それを人のみで知るすべなどありませぬ。残された地にしがみつく七つの陽か、それとも、逆か。それを定めるのは……」


「も、もう、おやめください。この男に何を期待しているのですか。この男は、そんな大層なことができることではありません。いったい何を期待して。何を看ているのですか。あなた様ほどのお方が」


 思わず、ラインの乙女が、声を上げた。ほんのわずかに、とこよに疑問の表情が生まれ、そして消えた。


「悲嘆に、悲劇に、悲哀に。狂い、嘆き(狂い)自責した(乱れた(狂った))。恥知らずよ。

 恥知らずよ。わては、あんさんのさまがあまりに。


 かわいそうで。」


 一息、静かに息を切った。わずかに間を置くととこよは続けた。


「みっともなくて。あわれんでおるからこそ。

 じぎにつきあっておるんですわ。


 おもいちがいのならんよう。ようよう。おきをつけなはれ。――」


 ぞっとするような笑みだった。常世のたった一言に、ラインの乙女は沈黙する。それを見たとこよは、それ以上は不要と言をひそめた。

 意外と打たれ弱いのか?ラインの乙女をそう分析すると、趣膳に視線を戻した。


「イギリスか……」


 ドイツにとっては、確かに煮え湯を飲まされた国ではある。そう、憎むべき相手ではある。ただ、アドルフ・ヒトラーにとっては、決してそうではなかった。ゆっくりとパンを持ち上げ、目玉焼きと一口放り込む。サクッとした歯ごたえのある薄いパンは、彼の国に残されたもの。そして、食した卵からは、古くくすんだ匂いがした。


「あら、わかりましたか。それは、」


「……漬けにしてあるということか。おそらく、しょうゆと香油付けといったところだろう。あえて、味をぼやかせている。黄昏に向かう帝国ということか」


 アドルフ・ヒトラーの声に、とこよは静かにほほ笑みうなづいた。


「おそらく、食しきることは。あなた様はできますまい。そして、」


 すっと立ち上がり隣のふすまを開く。そこには、一畳の畳に置かれている巨大な膳が置かれていた。それから発する圧。食することも、そう思うことも許されない。その膳はそういうことを内から無言のうちに言していた。


「アメリカ合衆国」


「そうか。そうだな。かの国は我には荷が重い」


 ゆっくりとアドルフ・ヒトラーは言うと、手に持っていた一口食べたイギリスを趣膳に戻す。


「とこよどの。面白い趣だった。実に楽しめた。この夜を感謝する」


「いえいえ。稀代の英雄様のお眼鏡にかなったともあれば、用意したかいもありましたわ。アドルフ・ヒトラー様。なにとぞよろしくお願いいたします。皆皆が貴殿(あなた様)の今後を期待しています。

 一言だけ、助言を。

 

 あなた様は、心の赴くまま。喉から出る言葉のままに行いなさいませ。これを祝の言の葉とさせてもらいましょう。」


 そして、ゆっくりとした所作でラインの乙女に向きなおった。じっと見据える視線に耐えられなくなったのか、口を開いた。


「……話すことなんて」


「あんさんのことはようわかっとる。吾から言えるのは、それでも、かわれんものもある。あんさんがどれだけ、かわろうとおもっておってもな。今日はそれだけじゃ。」


 それだけを言うと、再び営業用の笑みを浮かべる。座したまま、静かに礼をした。


「では、お暇させていただきます。このあと、食後のお酒がくるさかい。それまで、おまちやす」


 そういうと、とこよはふすまを締めてゆっくりと出ていく。あとに残されたのは、アドルフ・ヒトラーとラインの乙女。最初にいた2人だけだった。


「で、いつになるのだ」


 その意図を察したように、ラインの乙女は口を開いた。


「ちょうど、4日後。2月24日。庚申の夜……その日に行くわ」


 そうかと、アドルフ・ヒトラーはそれ以上口を開かなかった。食後の酒がふるまわれるまで、もはや2人の間で交わされた言葉などなかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ