表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/27

1921年2月20日 東京神田 料亭~常盤~ 中

お料理回?

「その名で呼ばれるようなことなどないと思っていたが。そんな大層な名前で呼ぶのは、ごくごく一部の者たちだけだ。その名をどこで知った?」


 その言葉に、その女性は、楽しそうな笑みを浮かべた。本当に楽しそうな笑みだった。


「最近、知り合ったものたちからでしょうか。この店は、様々なお方にごひいきいただいていますが故に。帰還兵上がりのお方ともお話しする機会が多くありましてな。みな、貴方様のことに敬意を払っていましたわ」


 ヨーロッパ戦線で戦った帰還兵がこの遠く離れた場所に来るはずもなく……そして、アドルフ・ヒトラーにとっては、その言葉は忌避すべき二度と思い出したくもないことだった。


「ふふ、アドルフ・ヒトラー様はそうは思われていないのはようわかりますわ。敗北主義者の兄さんたち。戦場を見捨てて逃げ出した残り仔。貴方様と……あなた様が真に思われておるドイツには、不倶戴天の仇と言えますわな」


 そう告げながら、ゆっくりとこちらににじり寄る様にその女性は、迫り来てていた。吐息からかすかに甘く気怠重い匂いが、感じられるほどに。ラインの乙女に視線を移すと、いつもよりもはるかに不快な表情で、もはや相手にそれを隠そうとしていないことは明確なことだった。


「ああ、そうそう。ええと、ラインの乙女さんな。うちの子が久しぶりに会って話をしたいってゆうとったんや。幸い、今度うちに来る用事あるやろ。その時でもどないか」


 ラインの乙女をのぞき込むようにその女性が発した言葉に、明らかにラインの乙女の表情に動揺が走った。


「……まさか、あまてらすが?今さらに、いったい何の冗談よ」


「ふふ、ラインの乙女さんのことは、うちの子。とっても心配しとったからな。まああの子のことは、あんさんがよくわかってるさかい。おもろいことになりそうおすな。


 ああ。失礼しました」


 そこまで言うと見惚れるような所作で、畳に正座したまま両指を合わせてお辞儀をした。


「わたくし、この料亭。常盤のおかみを務めさせております。とこよと申します。このような席にアドルフ・ヒトラー様を招き入れることができた幸運。ラインの乙女になり替わりまして、厚く感謝申し上げます。」


「お招きいただきありがとうございます」


 思わず礼を返したが、このとこよという女性。とても信用できない人物のようだ。ラインの乙女がこれだけ、怖れたような表情を見せた相手……一人思い当たった。あのドレスの女性。あれの時も、確かにラインの乙女は怖れを感じているようだったが、このとこよの前では、まるで借りてきた子猫のようではないか。


 その瞬間は、不意に訪れた。目の前にあるのは、涙の痕を深く付け怯えている女性とそれを諭す女性だった。ただ、その女性は、いかように見ても蛇のように見え、またそこから冷たい空気が吹き荒れてくるようにも見えた。冷たい空気の中に8本の雷が立ち並び。おかしい話だが、こちらを見た。そのように感じた。

 ただ、それは本当に瞬きする一瞬のこと。次の瞬間には、今までと変わらない姿に見える。


「ふふ。こちらに来たと思うのではなく。招かれたと感じ入ることのできる感性。ラインの乙女。あなたの候補は彼により優れているかもしれないけど。ものの見方というものは、変えられるようなら、変えることをお勧めしますわ。


 さて、お料理の説明に入りましょう。よろしければ、説明の後一箸つまんでみてくださいな。


 あなた様なら、きっと。気に召すと思います。

 

 まずは、一の膳」


 すっと、皿を手に取り、目の前に差し出される。

 半透明なゼリーのようなものの中に、何かが閉じ込められている。オレンジ色の奇妙な物体。じっと目を凝らすとそこに見えたのは、見慣れたものだった。

 ムール貝。

 酒蒸しなどで提供される定番の貝だ。それが、殻をむかれ、心もとなげに浮かんでいる。

 いや、そこにあるだけの状態になっているということか。


「こちらは、ベルギー。ムール貝の煮凝りでございます」


「ムール貝。あちらでは戦前はよく食していたが」


 とこよは、あらっとほほ笑むと、さらに説明をつづけた。


「貝は自ら殻に閉じこもり、大きくなるものでございます。そして、その身は殻を割ってみないと食することも、想像することもできない。ただ、一度その味に気が付かれてしまったのならば、誰もが愛するものとなりうるでしょう。

 そう、幾度となく食され、飲まれる。当人たちの想いなど、知られる由もないままに」


 すっと箸を伸ばし、煮凝りとやらをつまんだ。柔らかそうな見た目に反して、弾力があり箸につままれても崩れることなく、口までもっていくことができた。ぐっと口を開けてそれを一口にする。ゆっくりと咀嚼すると、それは弾けた。中からは、海の香りと潮の味が口の中をじんわりと駆け巡るのを感じることができる。ただ、余韻は薄く、消え去るのを待つだけだった。


 この貝は、固い貝殻をどこで砕かれたのだろうか。そして、砕かれたその殻をつなぎ合わせたとしても、元の形に戻ることなどないと知っているのだろうか。ならば、このまま、食され消えてしまう方がよいのかもしれない。


 ゆっくりと嚥下する。


「続きましては、オーストリア=ハンガリー。蟹の佃煮でございます。

 蟹の身をほぐしたものを、出汁で佃煮にしております。


 今朝ほど、海底を散歩していたところ偶然にも蟹の共食いに出くわしまして。これは今日の膳の主題に良いと感じ。その場で締めさせていただきました」


 冗談ともとれる言葉だが。不思議と嘘は言っていないような気がする。箸でつまむと意外に重く、身がしまっているのを感じる。この蟹は、自らを食おうとする同種より、おそらく抗ったのだろう。それは、おそらく人間の営みも同じだ。人間が繁栄を謳歌するためには共食いをする以外の方法はない。それは、平時においては咎められる行為ではあるが、ひとたびそれが咎められないと知ったのならば、その人間を止めることなどできようはずもない。


 口に運ぶと、海を感じた。口の中に海など生じるはずはない。だが、確かに海を感じた。思えば、失意の中でオーストリアからドイツを訪れた時に、友人と共に、足を延ばして北海を見に行ったことを思い出す。


 もう訪れることのない過去の思い出だ。お互いの未来を喰いあったものに同じ時間が流れることなど。そんな愚かな考えなどなくなっても当然であろう。


 捨ててしまったものを再び拾えるなど、愚者の考える未来でしかないのだから。


 料理は、進んでいく。


 ポーランド。豚の棒葉包焼。


 ノルウェー。ニシンの酢締め。数の子のを添えて。


 ギリシャ。ローマ風澄まし汁。(そら豆の入った変わり汁。塩とオリーブオイルで味を調えてある)


 バチカン。野禽の串焼き。


 

 ――ああ、この料理。この手際。この女。わざとやっている。

 このころには、アドルフ・ヒトラーもすでに感づいていた。

 このとこよといい女。あえて作為的に料理を国に例えている。そして、その国の現状を料理に例えてこちらに提供している。

 なぜ。疑問は浮かぶ。

 なぜ。答えは出ないままに箸は進む。膳の上が小皿に満ちるころ、空になった膳の取り下げが入ってきた。ここで、とこよが、薄く平たい杯をアドルフ・ヒトラーに両手で差し出した。それは、朱くて。紅い。


「祝杯にてございます。アドルフ・ヒトラー様」


 そこに注がれるのは、無色透明な液体。それは、杯の中で赤い色を得る。

 のぞき込むと浮かんだのは、自分の顔。その水面の下に何かが浮かんでいる。ああ。知っている顔だ。浮かんでいたのは、ドイツ軍戦士たちだった。勝利が来ると信じ一線で戦い続けた戦士たち。生きた喜びと明日の勝利を誓い合った戦士たち。倒れた輩の前で泣き明かした戦士たち。銃撃雷火飛び交う中で塹壕から飛び出して伝令に走った自分と、伝令兵の皆。

 そして、アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェン。時折、不可解に任務を離れることもあったが、その時は勝利をもたらしていた自分の誇れる部下。


 パンチマンに侮蔑されたうえで、何の感慨もなく殺された彼女。変わって行った戦場に戦士としての誇りも、兵士として果たす役割もなくなりうずくまるしかなくなったドイツ兵たち。

 敗北を恐れるがあまり、無様に逃げ出した司令部。勝てぬと知った瞬間に、弱きものを見捨てた、強き者たち。



 すべては、終わりを告げたはずのことだ。

 かつての理想も心も、凍り付いた記憶の中に埋もれさせ、ドイツを救うというできようもない理念の下に、多忙を極めることにした。その思い出たちは、忘却の谷の彼方に消えていったはずだった。


 これはどういうことかと、とこよをみる。その表情からは何も見出すことはできず、ラインの乙女に視線を移す。彼女は、目の前の料理に手を付けないままに、ただ、じっとアドルフ・ヒトラーを見ていた。


 ――祝杯――彼女。とこよは、そういった。苦役の旅に祝福。そうとも言った。


 祝杯を受けるものは、誰なのか。そして、誰が祝福されるべきなのか。そうかと。察した。


「祝杯。賜ります」


「ええ。どうぞ。授物ですから」


 口を付ける。意外なことに、それからは何の味も感じることもなかった。ただ、一息で飲み切れるような量に見えて、それは、実際に飲み切るのには、3口を要した。


「では、主膳とまいりましょうか」


 常盤が手を慣らすと、アドルフ・ヒトラーの前に膳が置かれた。立派な鳥の焼き物と、酒精が馨りあげる鯛の蒸し物だった。

ここまでのお料理

食前酒:琥珀色の黄金酒(前話)

説明:無味無臭の食前酒。酒精のにおいは薄い。

   だが、神秘の匂いに触れたものはそれに、神性を感じるだろう。

   一口飲めば、もう帰れぬ。二口飲めば、染み渡り。三口飲めば同胞となる。

   飲み干すものに、祝福を。継ぐ者に、啓示と幸いを。


一の膳

 蟹の佃煮:オーストリア・ハンガリー

 説 明:朱色を点した身と白に染まる身を分けてすまし汁にて佃煮としたもの。

 ほぐれてよく食しやすい。

 早朝に深海にて、共食いをしていた個体を見出して、そのお互いを絞めたもの。

 

 ムール貝の煮凝り:ベルギー

 説 明:ムール貝を出汁でといたゼラチンで包み込んだ。目にも美しい食品。

     もはや、身を護る貝殻、唯その身を衆目にさらしている。

     盾なく、身がうまいと知れ渡ったものは、いずれ喰われると知れ渡る。

     また、その身のうまさから方々で取引されることになるのだ。

     時間よ止まれ。汝は美しい。


 ニシンの酢締め。数の子を添えて:ノルウェー

 説 明:酢の利いたニシンと数の子の締めもの。その下には大根と人参のなますが敷かれている。

     それを食するのには、勇気がいるのだろう。

     決してそれは、舌に優しい妙味ではない。

     ましてや、完食にはある一定の器量が必要になる。

     貴方は楽しめるだろうか。

     食する先には、主がいる。貴の息遣いに、淡々と狙いを定めているのだ。


二の膳

 豚の棒葉焼き:ポーランド

 説 明:脂身のよく乗った豚の切り身を味噌で漬け込み焼き上げたもの。一口大に斬られている。

     もはや、口の運ぶしかない。

     意外なことに豚には分断し生育することが良い豚肉を造る条件と言われている。

     弱いが、群れ集まることを忌避するものもいるのだ。

     それが、幸福なことであるかというではないということは、言うまでもないだろう。


汁物、一皿

 そら豆の澄まし汁:ギリシャ

 説 明:そら豆を自らに出した澄まし汁。塩味とオリーブオイルが汁に意外性を与えている。

     古代の知恵というものは、意外なところで実用性と硬化性を発揮してくれるものである。

     飲み干すといい。それはあなたのものなのだから。


 野禽の串焼き:バチカン市国

 説 明:小さきものをそのまま刺した野趣あふれる一本。胡椒で味付けはされているが、少々生臭い。

     小さきものの集まりが、大を動かすこともある。

     その危急に予想だにしないものが集まることがある。

     ゆめゆめご用心を。見てているもののみが真実ではないとよく識りうることです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ