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1921年2月20日 東京神田 料亭~常盤~ 上

 日本の文化、建築を知り得ているわけではないアドルフ・ヒトラーにも、その料亭は、おそらく上級臣民をもてなすためにあるものだということは、予想のつくものだった。建築に贅が注がれているわけでもなく、金銀が惜しみなく使われているわけでもない。ただ、そこにあったのは、そのような予想を覆すような静けさと無駄の省かれた美学とでもいうべきもの。何もなくて、何もかもがそこにあるそう思わせるだけのものだった。

 ただ、お互いにその空気にはなじめないでいるのも事実。ラインの乙女も少し困惑気味に、座椅子に腰かけていた。


「あまり、このようなところに入ったことはないのだけど……知り合いの伝手を頼っただけだったから、趣味が合わないわね。ただ、今日という日と、これからを迎えるには必要なことね」


 そういうと、肩をすくめた。二人の目の前には、琥珀色に輝く液体の入った小さなワイングラスが置かれていた。


「少しだけ聞いても良いか。ラインの乙女。」


 その琥珀色に目を向けながら、ヒトラーはゆっくりと口を開いた。料理が来ていない今が、おそらく最も良い瞬間であろう。それを察したのか、それともこれからの問いを察したのか。ラインの乙女の微笑みから、冷たい風が吹いてきているような気がした。確かに、そとは久しぶりに雪が降っているらしく、深々とした冷たさはある。だが、この冷たさは、あの時のドーバー海峡がもたらした悲劇的な風よりもさらに冷たく感じた。


「ふふ。そうね。そろそろ質問が来る頃だと思っていた。あなたの知りたいこと。それにこたえることは、私の誠意と言ってもいいわ。私が、誠意なんて言葉を使うなんておかしいことだけど。あなたに合わせてあげるわ」


「これは、私のための旅ではないな。では、誰のための旅だ?」


 最も聞きたいことを真っ先にぶつけた。以前から疑問に感じていた。船の手配、ホテルの手配、交通路の手配。そして、あの不思議な場所への侵入。短い期間で考え着くものではなく、そして、その待遇は、アドルフ・ヒトラーには不適当なものだった。

 疑問はあったが、それを問うタイミングは完全に逸していた。そう、ついさっきのその瞬間までは。


「ポケット。そう、貴方の胸ポケット。出してみて」


 アドルフ・ヒトラーは、その答えにいぶかしみながらも、胸ポケットに忍ばせているものを取り出した。厳重に蠟紙と不燃布で包みこんだものを、儀式のようにゆっくりと慎重にはがす。中からは、清潔な紙に包み込まれたそれが姿を現した。それを開く。古びた血と戦場の褪せた鉄のにおいがそこから沸き立つようだった。

 だが、中にあったものは、女物のハンカチだ。白かったその多くは、無惨に赤く染まりもはや開かれることも使われることもないそれは、一見すると価値なきごみのようにも見えた。


「アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェン。これが私の目的よ」


「やはり、このハンカチは……」


 A.H.Schlieffen。かつてヒルデ特務上等兵と呼ばれた戦友の形見であり、そのことを知っているものは、アドルフ・ヒトラーだけであろう。


「彼女が、そこに座っている予定でしたが……予定が狂いました。アドルフ・ヒトラー」


「……ならば、なぜ、私をここに導いたのです?」


 その言葉に、ラインの乙女は口元を隠した。その隠した扇子は、ラインの乙女が浅草の門前町で買ったもので、明らかに似合っていない代物ではあったが、それでも、口元を隠し、おそらくいつものように微笑んでいるのであろうラインの乙女はぞっとするほどに美しく見えた。

 扇子には、「空即是色」という記号が描かれていた。


「あら、魂が本当にあるのならば、それに形を与えればよいだけのこと。魂が形を持ったのならば、元の肉体など必要ない。自らそれを為すでしょう。これは彼女にとっての、儀式にして、通過儀礼なのよ。アドルフ・ヒトラー。

 そして、当然あなたにも利益があるものね」


 おそらく、口元にはぞっとするような笑みが浮かんでいるのかもしれないが、アドルフ・ヒトラーは、その空即是色の文字を目に入れながら、最後に一言を絞り出すことに成功した。


「神秘に触れるものは、すべからく早死にすることになる。我々、芸術家に伝わる格言だ」


 それに対して、明らかに扇子の先から微かに笑う声が聞こえた。実に楽しそうで、そして、うれしそうな声だった。

 

「あら、あなたは故にウィーンに選ばれなかったのではないかしら?さて、議論はここまでのようね。ここからは、少し楽しい宴の始まりとしましょう」


 

 フレイアが手慣れた様子で手をたたくと、近くに人がいたのだろう、料理がすぐに運ばれてきて、二人に間には数多くの色鮮やかな料理が所狭しと並べられた。


 アドルフ・ヒトラーは、一息つくように琥珀色の食前酒に手を伸ばし、それを一気に飲み干した。蜂蜜のような甘みが絶妙な個さに薄めれ、喉を通るとそれは、胃の中でしばしまつろう様に怪しく存在感を示すと、やがてすべてが幻のように消えた。ただ、それはただきえただけではなく、体中がその時の瞬間を覚えているような、正に燦然と輝きながら消えた様にも感じることのできる逸品だった。


「うまいものだな。東洋の地にこのような酒があったとは」


 そういって、ラインの乙女を見ると、グラスから、一口口を付けただけだと思われるが、明らかに驚いたような困惑が張り付いたような表情に変わっていた。


「ありえないわ」


 そういうと、グラスを小膳の上に戻した。入ってきたウエイトレスは、その膳を持つと、優雅な所作を見せながら、引き上げていった。


「ありえないとは、ラインの乙女どういうことだ」


「いえ……知人の紹介だったからかしら?秘蔵のお酒だったみたいだったのよ。あれだけ渋っていたのに」

 

 明らかにはぐらかすような物言いのラインの乙女から視線を移し、畳に鎮座する物珍しい料理の数々を見た。

 かつてのアメリカのペリー提督は、日本の料理は、実に貧相だ。と称したというが、これを貧相と称するのならば、我々の地域の料理も貧相であるといわれざる負えないものになるだろう。

 それは、芸術のように少量で盛り付けられた小皿が陳列している料理だった。おそらく、アドルフ・ヒトラーは、フルコースのオードブルを想定し、そっと箸を手に取った。その様子に驚いたような表情を浮かべたのは、ラインの乙女だった。


「あら、あなた、箸は使えたの」


 そこに驚くのかと、アドルフ・ヒトラーは、心中で苦笑の表情を浮かべた。


「まあ、先の皇帝陛下が黄禍論を述べた際に、相手の国のことを少しは知らないとと思い、勉強はしたのだよ。あと、以前の友人が、まあまあな日本かぶれだったのでそのおかげといったところか。良く付き合わされたものだ。自作の刺身にあたって、二日くらい寝込んだのもいい思い出だ。その知識は、無駄になったと思っていたが、こんなところで役に立つとは、思ってもいなかった。」


 さて、どれを食べてみるものかと、アドルフ・ヒトラーが試案をし始めた時だった。不意にラインの乙女が、ヒトラーの後ろの空間をみて、凍り付いたような表情を浮かべた。


「お箸をつける前に、間に合ってよかったです。」


 ラインの乙女の表情が凍り付いた瞬間、部屋の中から物腰穏やかな声が生じた。アドルフ・ヒトラーは、振り返ると、そこにはいつからいたのだろうか、3歩ほどの距離のところに、一人の妙齢の女性が正座してこちらを見ていた。その彼女が、ラインの乙女の知り合いというのは間違いないだろう。ここしばらく会っていたのは、ホテルのフロントなどにいる女性と、よそ行きに着飾った女性だった。確かに住んでいるところからして、彼女たちは美しくあり、また、日本女性としては確かに外国人受けの良い人材として雇用していただろう。

 この人物とは何もかも違うものだった。

 陰のある美貌というか、確かに美しい。が、ラインの乙女のように、衆目を引く美貌かというとそうではない。だが、必ず振り返り見たくなるような美貌をそこにたたえていた。そして、囚われることを知っていながらも、深くのぞき込まざる負えないような忘れられず美貌をしている。おそらく、それは人によっては、忌避感をも感じるようなおぞましさと嫌悪感も感じてしまうような代物。

 ただ、目をそむけたくなるような気持ちの中、それでも見ていないといけないというまるで義務感すら逆手にとって弄ぶ。

 危険な人物だ。と、アドルフ・ヒトラーは、感じた。


「お料理の説明がまだでした。是非にも説明させていただきとうございます。

 この晩餐があなた様の苦役の旅路にほんのわずかでも祝辞を与えることを祈っています。

 ヤルヌの英雄。アドルフ・ヒトラー様」


 聞き取れるということは、こちらが聞き取りやすいようにドイツ語で話しているのだろうと、考えたアドルフ・ヒトラーは、箸をもとの場所に戻すとその料理の説明を聞くことにした。ずいぶんと久しぶりに耳に入ることになったその言葉の意味と重みを感じながら。

アノサキス

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