1921年1月4日 横浜港
新年が今年もやってきた。
だが、ほんの僅か前、もう、ほんの僅か前に。
世界は終わると言われ、信じられていた。
欧州から発した炎が、戦火が。世界を焼き尽くすのだと。みな、それを信じていた。
――船が、 着く あぁ、平和になった港に……船が着く――
それは、確かに燃やし尽くした。それは確かに、すべてを、燃やし尽くした。
――岸壁に接近。船から大きなロープが投げ入れられると、港と船の中は、騒がしくなる。ゆっくりとした時間をかけて岸壁に船が横付けされる。皆がかたずをのんで船を見上げている――
燃やし尽くし、焼き尽くし、そして、消し尽くした。
――階段がかけられ、一人、一人と姿を現すと、誰からともなく、歓声が上がった。広がる歓喜の声が港を満たしていく。――
そう、消し尽くされた。
――歓声はだんだんと消えてく。皆が会うべき人と出会い、それぞれが語るべき場所へと急ぐのだろう。それは、華やかさの裏に凄惨たる血煙渦巻く不夜城であったり、宴の裏で、暗澹たる権力の争いが待ち受ける腐臭漂う迎賓館なのかもしれない。……それはただの妄想で、彼らの帰するは、暖かい我が家なのかもしれない。事実として、この船に乗っているものは、そのようなものたちが多勢であった。――
消されたものが被った痛みなど、消したものにとっては三流のどこにでもある。陳腐な悲劇に過ぎない。
陳腐な悲劇は忘れ去られるのだ。
そう、いつも忘れ去られるのだ。
消されたものに未来などなく。行く末はすでに定められているのだ。
――歓声が消えつつある港を見下ろす様に、一人の男が甲板に姿を現した。深く帽子をかぶり、くたびれたコートを身にまとい、トランク一つだけ持った男。港の空気に反するように、一言も発せず、静かに港を見回すと、ゆっくりとタラップに足を掛けた。ゆっくりと、ゆっくりとまるで、足元を確かめるようにただ下りていく。――
消されたものが。消されたものたちが。砂と消える前に。為すべきことがありうるのか。青い血も流れぬ我が身と、持たざるわが身にこの極東の地でなすべきことがあるのか。――ただ、太陽だけが、彼を警戒するように祝福していた。――
タラップがそこで終わる。かれは、異国の地。日本の地を踏みしめた。足の裏から広がるのは、決して歓喜などではなく。ただ、背を凍てつかせる寒さであった。
不意に、北風が頬を撫でた。彼の生まれ故郷に比べればなんとない風であったが、頬を撫でた風に彼は身を割かれるような思いを胸に思い起こしながら、歩を進める。
先には、宮殿のような立派な建物が見えた。だが、それは、見方によっては城塞のようにも見ることができる。その門戸は城塞の役割を果たさぬかのように、来訪者に開かれていた。まるで、来るものを拒まないとでもいうように。
ただ、彼を誘導する警邏のものは物々しく。視線を外さずにいる。当然ではあるのだろう。彼は、紛れ込んだ異物であり、招かれざる客人であった彼。そのことを理解していたからこそ、弱弱しくも、その誘導に従った。
それ以外の方法などないというように。
税関。それは、外と内を分ける大いなる壁。城壁はなくなったのだとしても、その障壁は残り続けたのである。
「……紳士。入国目的は何ですかな……」
許可証を受け取った税関職員は、その内容に疑問を感じ取ったかのように、眼鏡の奥の目を細めた。おそらく、彼にとっては、今日という日は、気怠い一日であったであろうことは、その装いからも想像に難くない。完璧な装いを保っているものの、かすかな緩みある制服。手にあっていない筆記具。かすかに酒精のかおる吐息。ただその視線だけは、何とか最後まで仕事をやり遂げようとする、ある種の意識に支えられているようだった。
「ドイツからいったいここまで何をしに。かの国の窮状は我々でも聞き及んでいるところでございます」
その警戒の声に、混ざる同情と憐憫。彼の頬はふっと緩んだ。そう、それは、この道中で聞き飽きた言葉。そして、彼の喉の奥より出し飽きた言葉だったから。
「ええ。故に、探し求めているのでしょう。我々は。探し続けるのでありましょうな」
「……質問に対する答えになっていないと思われるが、どうお考えで」
その言葉に、帽子を深くかぶりなおす。
「ええ。目的は、探求であります。
日出国と言われる日本。その国とわが祖国の違い。そして、繋がりを隅々にまで探求したく思い。来訪いたしました。
不足ですかな」
ふむっと、税関職員は、改めて彼のものを見た。この船に乗り込んでいる、数少ない例外となり得るもの。ほとんどのものが、外務上の例外的特権にて船内で入管手続きを終えるところを、ここまで来た彼。何も問題がないというところに問題を感じた。だが、職務を全うとすることで、この場を収めることにしたのであった。
「失礼。いくつか確認をいたします。ドイツ外務省の書類はお持ちですか」
彼はすぐに鞄より書類を取り出す。素早く目を通す。問題なし。次が、最後の確認となる。
「失礼ですが、紳士。帽子を取り、コートの前襟を開けてもらえませんか」
添付された写真を見ながら、税関職員は問いかけた。彼は、うなづくと帽子をとり、前襟を開いた。そこには写真に相違ない人物があった。おそらく船内で整えてきたのだろう。几帳面に分けられた前髪と鼻の下に残るわずかでありながら確かにその存在を表すひげ。
税関職員は、写真を確認し本人であると認識する。改めて、衣服を正すことを許可すると、彼は几帳面なのだろうか、壁に立てかけてあった姿見を使い、かすかに乱れた髪を手櫛で整え、衣服の乱れを直していく。そしてゆっくりと振り返った。
そのとき、税関職員はのちに語っている。『この瞬間に私は、直観したのです。ああ、この人物はいずれ一門の大仁になるだろう。』と。
いずれにせよ、この人物に怪しいところなどなかった。税関職員は、書類にいくつかの必須事項の記載を行い、最終の確認ののちに彼に返す。彼は、手本としたいほどに丁寧に受け取ると、それをまた、見惚れるほど精錬された仕草で鞄に収めた。先ほどの酔いがさめるほど、それは、かすかに朝日差し込む中で行われたかすかな出来事であった。
「これで、よろしいでしょうか。税関職員殿」
「……ええ、形式上は。ですが、一つだけ、個人的にお尋ねしても?」
税関職員は、本来であれば、入国審査よりの退出を進めるはずの手を止めたまま、顔を上げる。やや戸惑いを帯びた声で、しかし誠実に問う。
「あなたは、本当に……この地に“探しに”来られたのですか?」
その問いは、手続きの一部ではなかった。ただ、彼個人の中にある、奇妙な確信と、揺らぐ疑念が言葉を形にしただけだった。
彼は、帽子の縁に触れたまま、目だけで職員を見返した。
「……ええ。“探す”ためです。」
「何を?」
「未来を。
少し、離れた場所で……別の角度から、見るために。」
職員はしばし黙したのち、目を細めた。それは懐疑でも、敵意でもなかった。
それは、かつての異国の大学で夢を語り、そして今瓦礫の下で理想を語っているかつての青年たちの姿を思い浮かべたような眼差しだった。
「紳士……私も、かつては“国の外に真理を求めた”者です。この地でもはや探すものなどない。そう信じて。
だから分かるのです。場所を変えても、答えが見えるとは限らない。まして、未来などという不確定なものなど……」
「分かっています。ただ、見る角度が変わるかもしれないと……ただ、それだけでも希望でも。今の私には十分でして。」
職員は、ふっと、何かを呑み込むように息をつき少し言い過ぎたと言いたげに目をひそめた。そしてようやく、思い出したように出口に向かい手を差し出した。
「――日本へようこそ。アドルフ・ヒトラー。あなたの“未来”が、確かに見えることを、祈っています。」
歴史ジャンルになるかと言われればそうでもない作品です。短くまとめていきたいと思っています。