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四つ葉の傍らで  作者: シズク
9/33

08

 いつもと変わらない平日の朝。曇りがかった冬の空が薄く光を投げかけるなか、静まり返った居間には朝食らしい香りはなく、電子レンジの音が短く響いていた。

 彰は昨夜買って帰ったパンを温め直しながら、冷蔵庫から牛乳を取り出した。

 意図して平静を保ちながらも、手を動かすたびに、どこかぎこちなさが混じる。冷えたコップに口をつけ、無造作に飲み干した。


 そのとき、


「珍しいわね」


 背後から聞こえた声に、彰は一瞬、動きを止めた。口元を拭いながら振り返る。

 台所に入ってきた妻が彰を一瞥し、後ろを通り過ぎようとしていた。部屋を横切って洗面所へ向かう妻に彰は「ああ」と短く返した。


 彰が早く起きていることに驚いたのか、キッチンに立っていることを皮肉っているのか。それすらも定かではない。そもそも、深く考えて発せられた言葉ではないのかもしれない。

 どのみち、それ以上の会話を続ける意欲もなさげな雰囲気に、彰はそのまま朝食の準備を再開した。


 チン、と軽い音を立ててレンジが止まる。温め終えた皿を手に取ってテーブルへ置く頃には、妻は洗顔を終えて、居間のソファへと姿を移していた。

 パンの湯気が立ちのぼる。香ばしい匂いが部屋を充すのを感じながら、彰はふと声をかけるべきか迷って……だが、やめた。


 ──食べるか?


 その短い一言すら、今は億劫だった。断られるのは分かりきっている。予想ではなく明確な確信が彰の口を塞いでいた。 


(……今さら)


 今さら何をしたところで、きっと届かない。返ってくるのは拒絶か、無視か。いずれにせよ、それは妻にとっても余計な手間になるのだろう。

 思わず、口の端に笑みが浮かぶ。誰に向けたものでもなく、ただ自分に向けた、嘲るような笑み。ただ、それも、不意に胸をついた虚しさに消えてなくなった。


 パンを割り、口に運ぶ。一口ずつ無心に食べ進める。

 味があまり感じられないのは何故だろう。熱も、香りもどこか遠く、現実味を失ってしまっている。

 食べる自分を半歩後ろから眺めているような、どこか遠い感覚に彰は食べる手を止めた。


(こんな風に食べるんじゃ、勿体無いな……)


 袋をゆっくりと手渡してくれたときの店主の手が思い浮かんで。

 あの店主が知ったら何と言うのだろう……そんな想像が、不意に胸を刺す。


 その間も、ソファに身を沈めた妻は、スマートフォンを手に画面を指で滑らせていた。

 メールか何かをやりとりしているのか、顔は伏せがちで、そこにあるのは習慣的な動作だけ。彰の存在など最初から見えていないかのように振る舞う妻の姿は普段とまったく変わらない。昨日の出来事などまるで無かったかのように。

 いつもと変わらない光景、変わらない態度。だからこそ、胸の奥で何かが鈍く疼いた。

 彰は、虚しさとも怒りともつかない()()を強く噛み締めながら、ゆっくりと食べかけのパンを口に運んだ。


 ふたつ目のパンを食べる気にはなれず、席を立とうとしたときだった。


「さっき、母から電話があって」


 不意にかけられた声に、彰の手がわずかに止まる。

 音のない空間にぽつりと落とされた言葉。意味を考えるより早く、驚きが先に立って顔を上げると、振り返った妻の視線が彰の輪郭を掠めるように動いて、けれど、すぐに逸された。


「具合があまりよくないらしいの。今日、様子を見に行ってくる」


 口調は簡潔で、抑揚もなく淡々としている。


「そうか……大丈夫なのか?」


 咄嗟に返した自分の声も、ただ硬いだけ。まるで決められたセリフのように味気ないものだった。


「何日か、向こうに泊まるかもしれない」


 言い終えると、妻は再び沈黙に戻る。続く言葉はない。返す言葉も望んでいない。

 まるで定型の連絡事項を伝え終えたかのような口ぶりで、話を終えようとする意思が込められている。


「わかった」


 返した言葉。そこに乗っているべき熱は、場所を見失ったまま、彰の胸の内を彷徨っている。

 彰はコップに視線を落とした。縁を指先でなぞると、冷えたガラスが肌に張り付いた。

 妙に現実的なその感触が、逆に心を遠ざけていくようだった。


 それでも、何かが引っかった。


 妻の声。言葉の選び方。いつも通りのはずのその無機質さに、わずかに混じる違和感があった。


「……何か、あったのか」


 訊ねてから、言葉の場違いさに自分で気づく。

 対話の流れに乗っていない。けれど、頭で考えるより先に、心に浮き上がった何かがそう言わせた。


「また、それね」


 一拍、間を置いて妻が顔を上げる。短く吐かれた声に、思わず息が詰まった。

 真正面から向けられた視線。こちらの意図を見透かすような、しかし、何も見ようとしていないような、 ()んだ眼差しの奥に、疲労とも諦めともつかない感情が色濃く滲んでいた。


「……そういう意味じゃない」


 しばらく黙り込んで、ようやく出た言葉だった。妻はその間もずっと、目を逸らすことなくこちらを注視し続けていたが、彰の要領を得ない返答に視線を落とした。


「曖昧な言葉使って逃げないでよ」


 言葉の端に、普段は見せない怒りが一瞬だけ顔を覗かせた。けれど、妻はそれ以上の反応を見せず、淡々とした口調で言った。


「今日の夕方には出るから」


 それきり、妻は席を立ち、素早い足取りで寝室の方へと向かっていった。

 ドアを開け、閉める音、部屋のなかを歩く足音、規則的な生活音が響いて、やがてそれも止んだ。


「……」


 静寂だけが残された空間に、彰は手元のコップを口に運んで、飲みかけの牛乳を一口だけ飲み込んだ。





 日中、職員室や担当するクラスにいても、深く集中し切れず、常に思考の片隅に仄暗い家の情景が浮かんでいた。

 手元の資料に目を落としながら、ページをめくる手は止まらない。だが、心のどこかでずっと、あの言葉と、瞳の奥の違和感が引っかかっていた。


 ──母の具合が悪い。


 それは事実なのだろう。嘘ではないと思いたい。

 けれど、嘘ではないことと、それが“すべて”であるということは、必ずしも一致しない。

 告げられた言葉の背後に、確かに何かがあった。夜半に降る雪のように、音もなく気配もなく知らぬ間に近づいてくるものが。


 誰かと分かり合うこと。

 心を重ねることが、こんなにも難しいものだと知ったのは、いつからだったか。


 最初はもっと単純なはずだった。結ばれたばかりの頃はこんなになるとは思っていなかったし、そう感じ始めたときには、すでに手の届かないところまで離れていってしまっていた。


 午後の授業が終わり、すでに大半の生徒が部活や家への帰路についている。

 放課後に残っているのは数名の生徒だけで、そんな彼らもそろそろ教室を出るころだ。廊下を歩く数組の声を遠くに聞きながら、彰は職員室の椅子に深く背を預けた。

 山積みだった提出物の確認も一段落している。今日はもう、帰ってもいい。

 だが、机の引き出しに指をかけたその動きに、ふと躊躇いが生まれた。


(寄り道、していくか)


 何の気なしに浮かんだのは、あのパン屋のことだった。

 コーヒーの香り。ほんのりと温かい空気。目の前で差し出されたパンの手触り。

 そして、あの男の少し困ったような、けれど柔らかい笑顔を──思い出した。


(……行きたいな)


 自分の内側からぽつりと漏れた思いに、心が一瞬だけ軽くなる。

 あの静かな空間に身を置きたい。誰とも言葉を交わさなくてもいい。ただ、あの空気の中にいたい。


 ──だが。


 椅子の肘掛けをそっと握る。


 ──それは、逃げじゃないのか。


 ふと、もうひとつの声が心の奥で囁いた。

 居場所のない家を避けて、心地よいだけの場所に逃げ込もうとしているのではないか。

 優しさを求めているのではなく、ただ、痛みから目を逸らそうとして逃げ場を探しているだけなのではないか。


 家族とうまくいかないから、他人の温もりに惹かれている。それが必ずしも悪いこととは言い切れない。

 だが、責任を持つべき現実から目を背けて、はたして何が解決できるのか──。


(……情けないな、俺は)


 誰かの笑い声がすぐ隣の席から聞こえ、彰はそっと、そちらに視線を向けた。

 教師同士の雑談だ。ひとりは新婚で娘が産まれたばかりと言っていた。スマートフォンの写真をもうひとりに見せ、妻子との惚気を聞かせている。

 幸せな家族の形。けれど、その声すら自分には遠く思えた。

 まるで、別の世界の出来事のように。


「あ、巌水先生も見てくださいよ」


 教師のひとりが、暇そうにしている彰を見つけて、


「先生。やめた方がいいっすよ。こいつの惚気、やたら長ぇのなんのって」


「うるさいな。先に彼女自慢してきたくせしてよく言うよ」


「お前こそ、うるせーわ」


 彰は、ゆっくりと椅子を引いた。


「すまん、今日はちょっとな。また明日聞かせてくれるか?」


 軽く笑いながら言ったつもりだったが、言葉の裏には、どこか熱の抜けた響きがあった。


「じゃあ、明日は先生の恋バナでいきましょうか。期待してますよ?」


 鞄を手に取り、職員室を出る。冗談交じりの言葉が背中に追いかけてきたのを、彰は手を軽く挙げて返した。

 廊下の窓から差し込む光は、夕方の翳りを帯びている。木々の影が伸び、グラウンドの端に溶け込んでいる様を廊下の窓越しに見つめた彰は、ようやく息を吐き出した。


 昇降口を出たところで、空を見上げる。

 雲がゆっくりと流れていた。冬の光は淡く、冷たい。


 歩き出す足元に、風に舞った枯葉がひとつ転がった。

 踏んだ音も感触も記憶には残らなかった。ただ、粉々になった葉の一部が背後へと流れていく気配だけは感じられた。


 自宅へと帰る道。

 目に見える光景は何も変わらない。パン屋は真っ直ぐ向かえば数分の距離だ。


 行こうと思えば、行けた。

 しかし、その足がパン屋のある細道へ向くことはなかった。


 家が見えたとき、彰はやはりと思った。防犯のために点けられた玄関灯だけが、無人の家を照らしている。

 鍵を回しドアを開く。

 ひんやりとした空気が迎えただけで、中にはすでに誰の気配もなかった。しかし、それもまた想定していたことだ。わざわざ、彰の見送りを期待するような妻ではないだろう。


 靴を脱ぎ、踵を揃える。居間に続く戸を開け、壁際のスイッチに指を伸ばす。

 少しだけ冷えた室内。照明がともると、薄暗さがさっと引き、部屋の中がはっきりと見えるようになった。しかし、明るくなった分、かえってその静けさが際立った。


 鞄を床に下ろし、上着の襟を直す。

 それから何をするでもなく、彰はその場で立ち尽くした。がらんとした室内に、衣擦れの音だけが密やかに響く。

 数秒、あるいはもっと。

 時間の感覚が曖昧になる中、彰はテーブルの上に目を向けた。今朝、あの場所で妻とした会話。あのとき、食べていたパンは冷蔵庫にしまい忘れたまま、ラッパをかけた状態で、そのままの場所に置かれていた。


 その視線が、ふと別の記憶を呼び起こした。 


(駄目……だな)


 静かに立ち上がる。財布と鍵だけを手に取り、部屋を出ようとしたとき、直前になって思い出した彰は翔也への書き置きを残した。

 家を出る。ドアを閉める音が、夜の静けさに吸い込まれてゆく。


「逃げ……か」


 暗い道に足音が微かに響く。住宅街の灯りが途切れるあたりで、遠くに木製の看板がぼんやりと見え始めた。

 目指していたのは、そこだった。


(もしも、これが、逃げだとして……)


 彰は扉に手をかけた。そして、軽く押す。

 もしも、これが、逃げだとしても、どうか──今だけは許してほしい。

 入店を知らせるベルが軽やかに鳴った。

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