06 巌水 翔也
息子視点です。
「ごちそうさま」
それだけを言い残して、父──彰は居間を出た。しばらくして玄関が閉まる音がすると、家の中に沈黙が落ちた。
「……あの人、また出かけたのね」
ただ状況の確認をしているだけで、返答なんか求められちゃいない。母の声はテレビの音にかき消されそうなほど小さい。
無関心、と言っても言い過ぎではない口ぶりに、翔也は「そうだね」とだけ返し、箸を置いた。惣菜の唐揚げにほとんど手をつけないまま、席を立って階段を上がる。
昼間だというのに家の中がやけに薄暗く感じるのは、冬だからとか、曇ってるからとか、それだけじゃないように思えた。
ドアを閉めて、ベッドに寝転ぶ。手元のスマホで起動したのは、最近流行っているゲームだった。
イヤホンを耳に差し込んで画面を素早くタップする。明るい音楽や効果音が、一瞬でも現実を忘れさせてくれるのを期待していた。
でも、実際のところ、思考は別のところを彷徨っていた。
いつのまにか、階下から響いていたテレビの音も消えていた。それどころか人の気配が感じられなくなっていた。
母も外出したらしい。声をかけてこなかったのは多分、それが、あの人と翔也にとっての“普段通り”だからだ。
自分に部活があるように、母にもきっと用事が色々とあるんだろう。買い物、婦人会、それか……どこかの美術館にでも行っているのかもしれない。普段から頻繁に外出する人だ。
だから気にはしていなかった。
気にする必要もなかった。翔也も部活があって休日は家にいないことの方が多い。むしろ、外で過ごす間は、その時間に安堵すらしていた。
それはきっと……父と、同じ場所で、同じ時間を過ごすことが、どうしても気まずく感じてしまうから。
幼いときから、多忙さを理由に家を空けることが多かった彰に、翔也はどう向き合ったらいいか分からずにいる。
「……」
ゲームのステージが佳境に入った。イヤホンの音量を上げる。スキルを発動するたび、画面上に数字が流れていくのをじっと見ながら、翔也は眉を寄せた。
なのに──最近、様子が変わった。
彰は仕事帰りに寄ってきたのか、家に帰ってくるや否や、買ってきたパンをさりげなくテーブルに置くようになった。
「甘いの、好きだったろ?」
そんな言葉と一緒に。
気づかってくれてるのは分かってる。たぶん、何か変えようとしてるんだろうって。でも、そのことにどう向き合えばいいのか、翔也自身が分からない。
近づこうとされるほど、逃げたくなる。なんだか、むず痒くて、見ていられない気持ちになる。
(今さら、何なんだよ……)
そう思ってしまう自分の方が、嫌になるのに。
「……くそ」
『GAME OVER』の文字がスマホの画面に表示される。翔也はイヤホンを外し、スマホを適当に放る。腕を目の上に乗せて、そっと瞼を閉じた。
こういうとき、不意に記憶の奥に引っかかる映像がある。思い出したくもないのに、忘れられないのはどうしてだろう。
小学校のときの運動会の日だった。予定は何週間も前に伝えてあったし、父も、必ず行くと約束してくれていた。その日が待ち遠しくて仕方なかったのを覚えている。
(でも、あのとき)
当日になって彰はどうしても外せない用事ができてしまったと言い、結局、母とふたりで行くことになった。
顧問をしていた部活の方で何かトラブルがあったらしい。何が起きたのか詳しいところは知らない。それに、仕方のないことだったんだろうなとも思う。
でも、幼い翔也には、そのことがどうしても受け入れられず、それ以降しばらくの間は口も利かない日が続いた。
そんなようなことが何度も、何度も。そのうちに翔也も少しずつ大人に近づいて、あの人への期待も薄れていって……。
けれど、小さな棘のようなものがずっと残り続けている。ふとした拍子に棘のまわりが膿んで、また、あの時の記憶を思い出させる。それは決して、父への非難だけではない。
後になって……本当のことを知った。
友達の家に遊びに行ったとき、どんなやりとりをして、そういう流れになったのかはあまり覚えていない。ただ、ビデオを観たということだけ覚えてる。
徒競走をする生徒たちを撮った映像だった。あの日の運動会のものだった。
あまり良い気分じゃなかった。でも、観続けるうちに、画面の隅のグラウンドのフェンス越しに誰か人影が立ったのを見つけて、
「……あ」
と、声が漏れた。
父だった。仕事中に抜けてきたのだろう、スーツのまましばらくの間グラウンドを見つめていたが、一度画角から外れると、再び同じ場所が映った時にはその姿は消えていた。
来てくれていた、それを知って。
でも……。
(だったら、なんで……来てることくらい教えてくれれば良かったんだ)
言ってくれなきゃ、気づけない。そんなの当たり前のことじゃないか。
視界の中、白い天井の片隅にあるシミの色が内心のモヤモヤを滲ませているようで、翔也は緩慢にイヤホンを付け直した。
玄関が開く音がした。ドアが閉まる硬質な音。少しして、ゆっくりと階段を上がってくる足音を耳が鋭敏に拾った。
重く、ゆったりとした足取り。
母ではないと分かる。父の足音だ。
控えめなノックの後、扉がゆっくりと開かれる気配に、翔也は背を向けるように寝返りを打つ。わざとスマホを顔の前に持ち上げたのは、なんとなく……気づかないフリをしたかった。
「翔也、最近……その、部活はどうだ?」
父の声はぎこちない。無理やり何かを話そうとしている感じがありありと伝わってくる。
「普通だけど」
翔也は顔を向けないまま、短く返した。わざと無愛想に振る舞ったつもりはなかったけど、口調はひどくぶっきらぼうになった。
「……来週の日曜、空いてるか?」
返事に詰まり、スマホの画面を見つめたまま答えた。
「なんで?」
「たまには、どこかへ出かけるのはどうかと思ったんだ」
今さら──何をどうやって埋めようっていうんだろう。
「別に……行ってくれば」
わかっていて、そう言った。言った瞬間、後悔した。
「……お前と、一緒にってことだ」
翔也は小さく鼻で笑った。嫌な態度だと頭ではわかっていても、心が勝手に逸れていく。
「練習試合あんの、知らなかった?」
「そう、か……」
何かを言いかけて、息を呑む気配がした。胸がちくりと痛んだ。でも、
「じゃあ、俺も応援に──」
「来なくていい」
思ったより冷たく響いた声に、自分でも驚きながら身体を起こす。
「そういうの、今さらじゃん」
冷水をかけられたように、父の表情がひび割れた。何かを言いかけるように口を開き、けれど、何も言わないまま、ゆっくりと目を伏せた。
「……ごめんな、邪魔をした」
それだけを言い残して、父は静かに部屋を出ていった。足音が遠ざかる。階下へと消えていく。
(違う、そうじゃないんだよ)
翔也は言葉にならないもどかしさに唇を噛んだ。言い訳だってことも、これが甘えだったことも、自分が一番わかっていた。