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四つ葉の傍らで  作者: シズク
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04

 このところ、仕事帰りにパン屋へ立ち寄るのが、ほとんど日課になっている。

 理由は自分でもはっきりとは分からない。ただ、あの店の空気が心地よかった。それだけのことだ。

 パンの味も確かに良い。だがそれ以上に、あの穏やかな声と押しつけがましくない距離感が、妙に沁みたのかもしれない。

 



 日曜の昼、家には珍しく妻と息子が揃っていた。テレビの音だけが部屋に流れている。食卓にはそれぞれの皿が並んでいるが買った惣菜ばかりが乗せられ、会話のない部屋の中では箸の音すら重く感じられた。


 誰も、何も発さない。

 妻はスマートフォンをいじりながら、口をつけてはすぐに箸を置くのを繰り返している。息子──翔也は目の前の食事を無言でつつき、テレビすら見もしない。彰は冷めかけた味噌汁に口をつけ、それを素早く飲み込んでから、彰は静かに椅子を引いた。


「ごちそうさま」


 返事と言うには微妙な声で、妻が微かに「うん」と言った。


 洗面所で顔を洗い、髭を撫でて鏡に映る自分を見る。いつの間にか、自分が思い描いているよりずっと老けた顔になっている。皺が増えた。髪や髭のところどころに白髪が混じる。

 疲れ切った男の顔に、彰はただ黙って、背を向けた。

 家を出たのは気まぐれだった。

 財布を持ち、靴を履き、玄関ドアを開けるまでの間、誰からも声はかけられなかった。彰もまたかけるべき言葉を見失ったまま、扉を後ろ手に閉じた。


 休日の昼、薄曇りの空はどこか煤けて見えた。中天の陽が薄灰の雲に隠されて、町並みにわずかに影を落としている。


「……さて」


 どこへ行こうか。家から離れる方向へ歩を進めながら考えた。目的もない旅路……いや、“旅”なんて大層な言葉は今の状況に相応しくない。

 ただ抜け出たかっただけだ。目的なんてものが当然あるわけもない。


 周囲の景色を眺めながら歩く。見慣れたはずの光景も、そうして改めて見ると新鮮に思えてくる。

 白い空を背景に、並ぶ家並みはくすんだ色をして、塀に生えた苔の白、道端に折り重なった茶色の木の葉──それらは、確かな冬の色だ。


 日曜だと言うのに、あまり人がいない。


(いや、日曜だからいないのか)


 人の喧騒から意図して離れているというのもあるだろう。だが、日曜の昼間にこんな風にブラブラしていること自体、世間一般からは外れてしまっているような気がした。

 家族で出かける機会も久しくない。けれど、それを思い出したたころで、不思議と気持ちは沈まなかった。

 前向きとは違う、諦めのような心持ちで息を吐く。

 冷たい風が芯の熱を逃がしてくれている。木枯らしの中をゆっくりと進むうちに、彰は少しずつ呼吸ができるようになっていく気がした。


 そうして歩いているうちに、いつしか職場の近くまで来てしまっていた。

 部活動に勤しむ、活発な学生の声がする。ゆるりと視線を巡らせ、フェンス越しに校庭を走り込む学生の姿を目にした彰は、顔を伏せて踵を返した。

 半ば押し付けられたような生徒指導の職務、それを請け負った際、それまで担当していた部の顧問からは身を引いた。それから、もう三年が経とうとしている。

 当時面倒を見ていた生徒も、すでに進学してしまっている今、あの場所に彰の居場所はもうない。それは自分自身で手放してしまったものだ。


(居場所……)


 今の自分に居場所があるのか。


「……どうだかな」


 風がコートの裾を膨らませて後方へ流れてゆく。紺色のチェスターコート、どこか白く見える初冬の街並みの中に、ただひとり自分だけが鬱屈とした影を羽織っている。

 そんな想像をして、彰はふっと笑った。

 

「情けない」


 大の大人がそんなことを考えること自体、本当に情けない。


 


 陽が傾いてくると、空気が冷え込むかわりに、風は徐々に穏やかになっていった。

 街路樹の影が舗道に淡く伸びる。部活終わりの学生や、用向きを終えて帰ってきたのだろう人々が、木漏れ日のまだらな模様を全身に描かれながら、のんびりと通り過ぎる。

 公園のベンチに座ったまま、彰はぼんやりと日の暮れる様を眺めていた。


 結局どこにも行かれず、ただいたずらに時間を潰すだけの一日に終わった。何のために、そう思いながら彰は静かに自分の手に視線を落とした。居場所──脳裏をよぎる言葉に、そっと目をつぶった。


「……寒いな」


 あのコーヒーが飲みたい。不意に、そう思った。

 そして、思いついた時には自然と足がそちらに向いていた。


 店の扉が視界に入る。装飾の少ない木製の扉。はめ込みのガラス越しに柔らかな光がこぼれている。静かな店内の奥で、いつものように店主が作業をしていた。

 扉を押すとベルの音が小さく鳴った。店主がこちらに気づいて、ゆるく微笑んだ。


「いらっしゃいませ」


 数日前と変わらぬ声。柔らかく、それでいて芯のある声。

 彰が「こんばんは」と会釈をして返すと、なぜだか驚いたように目を見開いた。ただ、それも一瞬のことで、見間違いだったのかもしれない。


「今日は、どうなさいますか?」


 そう尋ねる店主の声に、彰はゆるりと肩の力を抜いた。

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