03
パン屋へ行った翌日の放課後、彰は昨日のことを思い返していた。
窓の外には薄い雲がかかりながらも、やわらかな日差しが差し込んでいる。木々の枝先には、冬枯れの葉がわずかに残り、風に揺れていた。金曜日ということもあり、校内の中の空気には多少浮ついたものが感じられる。
それは学生だけではなく教職員に関しても同様で、業務を手早く片付けながらも、その傍、休みにどこへ行くか、楽しげに話す様子が見てとれた。彰も誰かと談笑することはなくとも、その気持ちは同じだった。
普段なら、そんな落ち着いた雰囲気のまま穏やかに週末を迎えられていたはずだ。
校舎の一角から、くぐもった怒鳴り声が響くまでは。
「お前が先に突っかかってきたんだろうが!」
「はあ? なにキレてんだよ、うざ……」
他の職員の訝しげな視線が声の方向へ向けられる。彰は反射的に立ち上がると、扉を開けて音のする方へ向かった。廊下の角を曲がった先、階段の下で、二人の男子生徒が睨み合っていた。数人の生徒が周りで様子を見ている。
口論の内容から、何となく何が起きたのかはわかった。その上で、他の生徒から簡単な説明を受けた後、肩で息をする二人の間に割って入り、短く叱りつけた。
「もうやめろ。落ち着け」
彰の姿を見るや否や、両者とも目に見えて硬直した。
これ以上続ければどうなるか、彰の目を恐れるように唇が揺れ、数秒の沈黙のあと、ふたりは、どちらからともなく視線をそらした。
「……お前たちも。ここはいいから、そろそろ帰る準備をしなさい」
周囲の他の生徒に呼びかける。思った以上に低い声が出た。叱りつける気はなかったが、そう感じるものもいたのだろう。素直に帰るものが大半ではあったものの、その中には少しだけ彰に対する反感のような視線も含まれているように感じた。
その場を収め、ひとまず保健室と学年主任に引き渡して戻ったとき、時計は夕方の五時を回っていた。幸い仕事はすでに、あらかた終わっている。鞄とコートを手に、彰はそのまま職員室を出た。
放課後の空気はすでに冷え始めている。昇降口でコートを羽織ったとき、ふっとため息が洩れた。
心底、疲れていた。
外に出ると、風が頬をなでた。鬱屈した気持ちを柔らかく撫でられるような。冷たいのに、何故かその感触が心地よかった。
陽はすでに西の端に沈みかけ、校庭のフェンス越しに夕日が赤く地面を染めている。風に舞う枯葉が舞って足元をかすめた。硬い舗道の上でひときわ軽やかに跳ねる葉のひとつを、彰はぼんやりと目で追った。
冷たい空気と橙色の陽が、心にやわらかく差し込んでくる。けれど……。
(帰るか……)
歩き出す、その足は重い。グラウンド脇の道を歩き、校門を出、帰路をゆっくりと進む。
今夜の夕飯は何だろうか。普段よりは早めの時間だ。久々に妻と並んで食事ができるかもしれない。そこまで考えたところで、何かが棘のように胸の奥を刺した。
日暮の空、茜の中に藍色が混じったその色に、彰は無性に寂しさを覚えて、そっと俯いた。
地面へ向けられた視界を不意に落ち葉が舞った。風に煽られ、高く、彰の目線と同じ高さまで上がると、ひらひらと横へ流れてゆく。
──ここは。
あらかじめ決めていたわけではなかった。けれど、どこか望む気持ちはあったのかもしれない。彰は静かに道を逸れた。
細道へ、それは昨日通ったものと同じ道だった。
昨日と同じ道ならきっとまた、昨日と同じものに出会える。そんな気がした。
閑かな空気の中に足音が鳴る。
夕焼けに染まる街の色が、昨日よりもほんの少しだけやわらかく見える。くすんだアスファルトの上を転がる枯葉は、風に吹かれてくるくると踊りながら道端を横切っていく。
そのときだった。ふと、視界の端を誰かの後ろ姿が横切った。
暗いコートを羽織った人影。やや前かがみに歩くその背に、彰は数秒、目を奪われた。。足を止めてぼんやりと眺めていると、人影はすぐに角を曲がって見えなくなる。
ただの通行人だ。気にする必要などない。きっと疲れているせいで敏感になっているのだろう、そう思った。
昨日と同じ看板が、建物の間にぽつりと現れる。くすんだ木板に刻まれた文字が、夕映えにかすかに色を帯びている。
彰は扉に手をかけた。軽やかなベルが鳴る。
中は昨日のまま、変わらず暖かい香りと静けさに包まれていた。
「いらっしゃいませ」
白いシャツにベージュのエプロン姿、店主も昨日と同じ。微笑みも、纏う空気も。口数は少ないが、その挨拶ひとつが、どこか安堵をもたらした。
棚には昨日より多くのパンが並んでいる。照明の下で控えめに主張するそれらの姿を見ていると、どれにしようか迷う。
「今日は、ツナのフォカッチャと……ああ、それと、あんバターを」
「はい。ありがとうございます」
店内で食べることを伝えると、「はい」と小さく返答があった。
トングの音が控えめに響く。店主は手際よくパンを皿に乗せ、視線でコーヒーのポットを示した。
「よろしければ、今日もどうぞ。少しだけ深煎りにしてあります」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
紙コップへコーヒーを注ぎ、昨日と同じ席に腰を下ろす。窓際の隅の席。窓の外は日が落ちかけた空と、徐々に深くなる街の影がうつる。
カップを両手で包み、そっとひと口飲んだ。深煎りというのは本当のようで、昨日飲んだものより幾分か苦味が強い。けれど、それがパンの控えめな甘さによくあっている。
ふと息が漏れた。
「お仕事、大変そうですね」
不意にかけられた声に顔を上げると、店主はトレーを拭いていた。横顔を見せたまま、けれど、視線をこちらには向いていない。
「……まあ、ね」
それだけ応えると、沈黙が戻る。けれど、それは想像したほど重くはない。言葉が必要なときだけ交わされる、そんな曖昧な距離感を保ってくれている。
コーヒーの湯気の向こうで、店主が静かに動いているのが見える。
退勤や下校の時間帯だ。客足が増えてきた。パンを食べ終え、コーヒーをゆっくりと飲んでいると、ひとつ空けた隣の席に別の客が座った。
客の対応をする店主の様子がガラスに映り込んでいる。忙しそうだ。
(迷惑になる前に、早く出なきゃな)
残りのコーヒーを流し込むようにして飲み、彰は立ち上がる。
「ごちそうさま」
カウンターに空の皿を戻し近くにいたバイトの青年に会釈をする。
店主は忙しそうで、こちらに気づく様子はない。
それでいい。別に、特別気を引きたいわけでもない。
扉を開け、店の外に出る。外はもうすっかり夜の気配をまとっていた。
閉じる扉のベルの音に引かれて、ふと振り返ると、肩越しに店主と目があった。
──また、お待ちしています。
そう言われた気がして、柔らかく笑んだ視線に彰はそっと目礼を返した。
あの店が、少しずつ居場所になりつつある──そう思うのは、甘えすぎだろうか。自虐するように笑みが漏れて、けれど、足取りは昨日より少しだけ軽かった。
そして、角を曲がる前に──。
どこかから舞い落ちた枯葉がまた、くるくると踊るように足元をすり抜けていった。その軌跡を追いながら、彰はふと、店に入る前に見た後ろ姿を思い出した。
何が気になったわけでもない。ただ、不意に思い出された、中年の少し丸まった背中。
何故だろうか、少し胸の奥がざわついた。
書き終えて思ったんですが、パンを店主が取ってくれるって町のパン屋だとあまりないですよね……まあ、これはこういうものとさせてください。