20
夜の風に嗚咽が混ざる。それが自分の喉から溢れるものだと信じられないまま、彰はただ理性を外れた衝動に身を委ねていた。
むき出しになった感情が、雨の雫のように頬を伝う。
腕のなかにあるぬくもりが、ようやく現実のものだと気づいたのは、抱きしめてから数秒が過ぎた頃だった。
「……っ」
やってしまった。そう思った。
夢を見ているものと、そんな風に思っていた。だから、眼前に彼が現れたとき、彰は躊躇いを忘れてしまった。
こんなつもりはなかった。
欠けたものを埋めるために、他の何かに縋る。そんな身勝手なことをするつもりなどなかった……なかったのに。
「すま、ない……こんな」
だから、目前の彼が、離れかけた背を強く引き寄せたとき、彰は思わず言葉にならない声を洩らした。
霞のかかったように思考が鈍る。そんな中で、ただ彼の鼓動だけを感じた。規則正しく、静かに、柔らかな圧が胸に触れた。
それは──赦しのようだった。
胸の奥に落ちた何かが波紋を描く。
泣いていいのだと、心のどこかが認められたのは、そのときだった。
喉奥から込み上げた熱が、堰を切ったようにあふれ出す。嗚咽が、今度こそ紛れもない自分の声として響いた。
夜の静寂に滲み、肩を震わせながら流れ出した涙は、止めようとしても止まらなかった。
どこで間違ったのか、どこまでが……自分の責任だったのか。
答えの出ない問いということはわかっていて。
ただ、今ここにあるこの温もりが、確かに何かを肯定してくれているようで、彰は縋るようにその肩に頭を預けた。
頬を伝う涙が、幸臣の服に染みをつくる。けれど、彼は黙ってそれを受け止めてくれていた。
「……俺は、なんのために」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
冷たい空気が肌の温度を少しずつ奪ってゆく。それでも、掻き抱いたぬくもりは確かにそこにあった。心の奥で渦を巻いていたものが、ゆっくりと零れ落ちてゆく。
深く沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。乱れていた息が、次第に落ち着きを取り戻す。
それでも、最後まで名残惜しむ気持ちを抱いたまま、彰はそっと腕を解いた。
心のどこかで、もう少しこのままでいられたらと思いながら、それは叶わないことも分かっていた。
幸臣の手も同様に。
ただ、離れる間際にそっと背を撫でるように指先が動いた。それが、ある種の呼びかけのように思われて、彰はゆっくりと顔を上げた。
「少し、落ち着きましたか?」
至近距離で微笑む顔に、思わず顔を逸らした。
ただ、頬の赤らみはどうすることもできず、表情を引き締めようと眉間に皺が寄った彰に、意外なものを見たような目をして幸臣が笑った。
「……なんで、笑うんです」
彰が言うと、幸臣は笑みの滲んだ声で返した。
「ごめんなさい、でも、そんな顔もするんだなと思って」
その言い方がどこか楽しげで、からかっているわけでもないのに、彰はむず痒さに堪えかねて小さく眉を寄せた。
指先が、袖口の縫い目をつまんでは離すような動きを繰り返していた。
「なんだか……調子が狂うな」
幸臣はそれには答えず、ふっと微笑んだだけだった。声を上げて笑うわけでもなく、ただそこに、ひとときの安らぎが漂った。
沈黙が降りる。けれど、それは居心地の悪いものではなかった。
ふたりの間に漂う空気は、先ほどとは違っていた。
言葉で埋める必要のない、柔らかな間。少し前までは持て余していたその沈黙が、今は妙に心地よく感じられた。
夜気が、少しだけ冷たさを取り戻し始めている。風に押された枯葉が、舗道を転がってゆく。
「……歩きますか」
しばらくして、幸臣が言った。
その声はいつもと変わらず、優しく、なんでもない提案のように聞こえた。
少しだけ、夜気を吸い込む。
「……ああ」
短く返すと、幸臣はゆっくりと歩き出した。その隣に並ぶのに、ほんの一拍だけ間が空いた。
互いに肩が触れそうで触れない距離を保ったまま、並木の道をパン屋の方向へ。
歩道のタイルを踏む靴音が、規則正しく並んでいる。すれ違う人はなく、交わす言葉も多くはない。
店を訪れたときと同じ雰囲気に彰は安堵しながらも、けれど、横顔や、ふとした瞬間の間の長さにほんのわずかな違いがあることにも気づいていた。
音にもしぐさにもならない、微かなずれ。それでも、決して不快なものではなかった。
「……あ」
どちらからともなく、歩みが止まった。空を見上げる幸臣につられて、彰も目を向ける。
星の無い暗い空。街灯の明かりの滲んだ、その向こうから、ちらり、ちらりと、白い粒が舞っている。
「雪ですね」
光に照らされながらひらひらと落ちる雪を手のひらで受ける。落ちた結晶がしばらく溶けずに輝くのを眺めてから、彰はそれを指で撫でた。
何かが変わり始めていることを、彰は言葉にできないまま、ただ感じていた。
パン屋の灯りが見えてきた頃には、すでに、降る雪は絶え間なく、その勢いを増していた。
街灯の明かりのなかで、いくつも軌跡を描きながら斜めに降り続けている。
足跡を残しながら足早に進むうちに、別れを惜しむ気持ちが胸の内にひらがるのを感じていた。
幸臣の足がふと止まった。店の少し手前で静かに立ち止まる。
振り返った彼は、すぐには何も言わなかった。
うっすらと雪が肩にかかっている。その姿を目にしただけで、なぜか彰は胸の奥に小さな緊張を覚えた。
少しの沈黙ののち、幸臣が言った。
「あの……傘持ってきますね。雪、すっかり強くなっちゃいましたし」
そう言って、いつもの調子でふわりと笑うと、彼は店の扉に手をかけた。
「中で待っていてください、これ以上、濡れるといけませんから」
促されるままに、彰もあとを追って中へ入る。
鈴の音がひとつ、控えめに響いた。
照明が点いた店内は、すでに掃除が行き届いていたようで、カウンターもガラスケースもすっかり片づいていた。
「鍵……かけないまま来てくれたのか」
仕事の途中に、申し訳ないことをしたなと、そんなことを考えながら、彰は近くの壁によりかかった。
ガラス越しの景色のなかで、反射した自分がぼんやりとこちらを見つめていた。
店前で立ち尽くしたまま入れずにいた自分が……少し後には、こんな状況になっているとは。
(今は待つ側、か)
不思議な巡り合わせだと思った。
あまり間を置かず、奥の扉が開く音がした。幸臣が戻ってきたらしい。
ただ、焦ったような足音だ。何故だろうと疑問に思いながら待っていると、奥から出てきた幸臣が開口一番、
「すみません、巌水さん……私も傘忘れてきちゃったみたいで」
手には何も持たれておらず、困ったように視線を彷徨わせている。
「いつも持つようにしてるんですけど……ちょっと、油断しました」
耳の後ろを掻くように触れるその仕草に、彰はわずかに苦笑をこぼす。
雪はなおも降り続いている。街並みのシルエットすら曖昧になるほど降っているところをみると、あまり出て行きたいとは思えないが、
(あまり、甘えてもいられないな)
もう十分すぎるくらいに、してもらっている。
彰が声をかけようとしたそのとき、幸臣がふと視線を外に向けたまま言った。
「……もし、良ければ」
いつになく躊躇いがちな声色に、不思議に思って眉を上げる。と、
「うちに寄っていきませんか? 近くなんです」
幸臣がそっと手元を撫でるように指先を動かす。
小さな緊張を包み隠すように、コートの裾を握るその仕草は、どこか気後れしているようにも見えた。
次回、5/24投稿予定です。




