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四つ葉の傍らで  作者: シズク
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01

※主要キャラふたりの概要が前話にあります。そちらをご参照いただいて、冒頭から長いことシリアスな内容になるため、それも併せて大丈夫であれば、お読みください。

 平日の朝のはずだった。けれど巌水彰は、休息という言葉から最も遠い場所にいた。


 朝七時。冬の曇り空がカーテンの隙間から滲んでいた。部屋の気温は低い。布団から出たくないという怠惰ではなく、この空気に身を晒すのがただ億劫だった。

 ベッドの隣では、妻がこちらに背を向けたまま、すでに目を覚ましている気配を見せていた。けれど、声はない。

 もう何年も、こうして互いに気配だけを察して、言葉を交わさずに過ぎてきた。

 それが習慣のように積み重なったいま、彰の口から出るべき「おはよう」の一言は、もはや胸の奥で塊になって動かなかった。


 ゆっくりと身体を起こし、重たい足取りで洗面所へ向かう。鏡の中の自分は、年齢より少し老けて見えた。

 脂肪が少し乗り始めた体。無精髭を剃ることも忘れていた顔。けれど、それがどうでもいいとさえ思えるようになって久しい。


 家の中は静まり返っている。息子の部屋からは微かな音も聞こえない。

 思春期を迎えた少年は、いつしか父親と目を合わせることさえ減った。それが自然な成長だと頭では分かっている。だが、心はその静けさに居場所を失っていた。

 食卓には、夕べのままの食器が残っていた。片付けられた形跡もない。

 妻はあれから一言も発していない。たとえば「片付けてほしい」と言われれば、彰は素直に動いたかもしれない。けれど、それを言わない妻と、それを察しても動けない自分。どちらが悪いとも言えず、ただ時間だけが積み重なっていく。


 やがてリビングの扉が開き、妻が無言で現れた。視線が合うこともない。視線も言葉も交わさないまま、彼女はカップを手にしてキッチンの奥に消える。


「……行ってくる」


 その一言も、返答はなかった。

 靴を履く音だけが、狭い玄関に響く。ドアを開けたとき、冷えた風が頬をかすめた。


 学校へ向かう道のりは、普段と変わらぬ街並みだった。けれど、すべてが薄く色褪せて見えた。

 学生たちの声、すれ違う車の音、朝のニュースが流れる家々の窓。どれも自分には関係のない世界のように感じられる。


 そんな中で。


 ふと、数日前のことが脳裏に浮かんだ。

 何の気なしに足を踏み入れた、あのパン屋。小さくて、あたたかで、言葉が少なくとも安堵できる場所。そこで差し出されたコーヒーとパンの温もりを、彼はまだ忘れられずにいた。


 あの場所は、何かが違っていた。ただそれが何なのか、まだ分からなかった。


 ただ──。


 そこにいた誰かの笑顔が、今の自分の中に、ほんの小さな光のように残っていた。

なるべく毎日投稿できるよう頑張ります。

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