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※主要キャラふたりの概要が前話にあります。そちらをご参照いただいて、冒頭から長いことシリアスな内容になるため、それも併せて大丈夫であれば、お読みください。
平日の朝のはずだった。けれど巌水彰は、休息という言葉から最も遠い場所にいた。
朝七時。冬の曇り空がカーテンの隙間から滲んでいた。部屋の気温は低い。布団から出たくないという怠惰ではなく、この空気に身を晒すのがただ億劫だった。
ベッドの隣では、妻がこちらに背を向けたまま、すでに目を覚ましている気配を見せていた。けれど、声はない。
もう何年も、こうして互いに気配だけを察して、言葉を交わさずに過ぎてきた。
それが習慣のように積み重なったいま、彰の口から出るべき「おはよう」の一言は、もはや胸の奥で塊になって動かなかった。
ゆっくりと身体を起こし、重たい足取りで洗面所へ向かう。鏡の中の自分は、年齢より少し老けて見えた。
脂肪が少し乗り始めた体。無精髭を剃ることも忘れていた顔。けれど、それがどうでもいいとさえ思えるようになって久しい。
家の中は静まり返っている。息子の部屋からは微かな音も聞こえない。
思春期を迎えた少年は、いつしか父親と目を合わせることさえ減った。それが自然な成長だと頭では分かっている。だが、心はその静けさに居場所を失っていた。
食卓には、夕べのままの食器が残っていた。片付けられた形跡もない。
妻はあれから一言も発していない。たとえば「片付けてほしい」と言われれば、彰は素直に動いたかもしれない。けれど、それを言わない妻と、それを察しても動けない自分。どちらが悪いとも言えず、ただ時間だけが積み重なっていく。
やがてリビングの扉が開き、妻が無言で現れた。視線が合うこともない。視線も言葉も交わさないまま、彼女はカップを手にしてキッチンの奥に消える。
「……行ってくる」
その一言も、返答はなかった。
靴を履く音だけが、狭い玄関に響く。ドアを開けたとき、冷えた風が頬をかすめた。
学校へ向かう道のりは、普段と変わらぬ街並みだった。けれど、すべてが薄く色褪せて見えた。
学生たちの声、すれ違う車の音、朝のニュースが流れる家々の窓。どれも自分には関係のない世界のように感じられる。
そんな中で。
ふと、数日前のことが脳裏に浮かんだ。
何の気なしに足を踏み入れた、あのパン屋。小さくて、あたたかで、言葉が少なくとも安堵できる場所。そこで差し出されたコーヒーとパンの温もりを、彼はまだ忘れられずにいた。
あの場所は、何かが違っていた。ただそれが何なのか、まだ分からなかった。
ただ──。
そこにいた誰かの笑顔が、今の自分の中に、ほんの小さな光のように残っていた。
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