因縁、悪縁、逆縁あるいは怨恨?
角田武は、入口近くに立ったままだった。
立ち尽くしている、そう見えなくもない。それ以上、ジム内に歩み入ろうとしない。まだジム内の誰にも、近寄ろうとしていなかった。
間合いを取っているのである。これは当然のことだった。いきなり挨拶もなく入口を潜った挙げ句、発したのは嫌味やら誹謗中傷をたっぷり感じさせる憎まれ口なのだ。これではケンカを売っていると、思わない方がおかしい。道場破りに来たと、誰でもそう思うはずだった。事実、練習生の何人かのみならず、矢部や草刈まで表情が険しくなっている。場合によっては即座に逃げ出すことも出来るように、入口近くを動かない。
道場破りにおいては、いや、他所のジムやら練習会場を訪問する場合は、当然かつ必要最低限の心得とも云えた。
例え、事前に連絡を取り合った友好的なものだったとしても、訪問される方は道場破りを迎えるくらいのつもりで待っている。これは何も空手や剣術、ボクシングなどの格闘技に限らない。直接的な身体の接触のない武道、例えば居合道や武術太極拳のような、所謂「表演武術」といえどもそうである。
何も客としての立場上、という訳ではない。
「確かに、久しいな」
言いながら勇吾は、リングの外に出た。練習生の何人かが、勇吾のために場所を空ける。
必然、角田武と上村勇吾は向かい合って立つ事になった。距離は、四歩ほど。互いにもう一歩ずつでも踏み出せば、拳でも足でも、出した攻撃が届く距離だ。踏み出さなければ、届かない。つまり、まだ安全な距離でもある。
「何の用だ」
勇吾が無愛想に訊いた。仏頂面である。久しぶりに会う人間に向けるような、懐かしさ満開の顔などではない。まして、およそこの男らしくもない事である。決していい関係性の知り合いではない事が、誰が見ても分かろうというものだった。
「用があるといえばあり、ないといえばなしですが」
「相変わらず、ひとを喰った物言いだな」
フッと、勇吾はため息混じりに苦笑した。ただし目は、笑っていない。明らかな嫌悪感が表された、そういう視線を向けている。基本的にはいつも人当たりのいいこの男にしては、珍しいことと云えた。
「特に用がないなら帰れよ。オレの方じゃ、貴様らに用はない」
「ご挨拶ですね。普通なら、久しぶりだな、その辺で一杯どうだ、となりそうですけど」
「オレらにそれは、当てはまらんさ」
「当てはまらないですね」
「縁は縁でも、お互い、とんだ逆縁だからな」
「逆縁ですね」
言いながら勇吾も角田も、身体が小刻みに震え始めている。お互いがお互いを強者と認めている。だからこその震えというものだった。つまり、恐れだったり怯えであったり。歓び、あるいは心地良さでもあるだろう。
興奮から来る、武者震いでもあったかも知れない。
勇吾が右足のつま先を、ジリっと前に進めた。躙りよせるという言い方がピッタリくる、爪先一つ分だけの歩みとも云えない歩み。
これに合わせて角田も、左足をやはり爪先一つ、退いてみせた。むろん、勇吾の足遣いに合わせたものだが、ほとんど無意識というより反射的というべきだったろう。
「それ以上、下手に近寄るなよ」
角田が勇吾を、牽制するようにいった。声の震えを隠そうともしない。口調も敬語を使わず、タメ口に変わっている。
「うっかり間合いに入ったりしたら、始まってしまうじゃないか」
「そうだよな」
「さっきから、オレがどれくらい辛抱してるか、分かるかい、上村さん」
「相当我慢してるよな、分かるさ。オレもさっきからそうだからな」
「何だ、やっぱり、アンタもかよ」
「ああ、ウズウズしっぱなしだ」
応じる勇吾の声も慄えを帯びていた。
二人とも、まるで裸の女を前にした若い男のような興奮状態と云えなくもなかっただろう。
「我慢のしすぎは、身体に良くないな。今すぐに始めてもいいんだがな」
「そうしたいがね、今はやめておくとするよ、今日はあくまで挨拶がわりだし」
角田はここで間を切るように、ひと呼吸。
「愉しみは後に取っておく主義ですのでね」
「遠慮はいらないぞ」
「いえ、今ここでだと、相手はアンタだけじゃなくなる」
「それもそうだな」
「何よりも」
言いながら角田は、さり気なく左足を一歩引いていた。後退りとも見えない、自然な足さばきだった。
「キックボクサーとしてのアンタの実力もそうだし、リアルバウターのアンタはもっと怖そうなんでね」
つい、三年前のアンタと同じに考えてた。腕を上げた、というよりも、恐ろしくなったよ。
そう言った時には角田武は身を飜えし、入口のドアから飛び出していた。
勇吾はもちろん、ジムにいた誰もが呆気に取られたほどの早業。鮮やかな逃げっぷりだった。