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虎の師匠、女豹の妹子(でし)  作者: 十九川寛章
プロローグ
7/13

実践、新鮮、これ実戦、さらに失神戦

江合川の上を渡るように風が吹いていた。

強く吹いている。川に沿って立つ桜並木を、容赦なく(なぶ)るかのようだ。つい昨日まで満開だった桜の花びらが、風に舞っている。

花びらがまるで生き物ででもあるかのように、意志を持って踊っているように見える。

桜の花びらは風の力を借りる事で、生きているのだろうか。それとももはや、死んでいるからこそ、風に舞うのだろうか。あるいは、その両方か。どちらにしても、春の風景だった。

どちらでも、いいことだ。

仲村有美里はそんなことを思いながら、その桜吹雪の中を歩いていた。学校からの帰り道の途中、江合川の堤防上である。

この春から有美里は、地元の進学校として名高い高校に入学した。

新川(しんかわ)早明(そうめい)高校」、これが有美里の入学した高校の校名である。略して俗に「早明」とも呼ばれ、もとは女子校だったのだが、少子化の(あお)りを受けて十五年ほど前に共学化され、男子生徒も入学させるようになった。それに伴い校名もそれまでの「新川女子高校」から、現在の校名に改められている。

何年かに一度は、某有名国立大学への現役合格者も輩出しているらしい。それなりに偏差値レベルは高いようだった。だが、有美里は元々成績が良かったので、ほぼ問題なく入試をパスしている。受験勉強らしい受験勉強など、していないにも関わらずだった。

実は誰にも話してはいなかったのだが中学三年生時の担任からは、もっと上のレベルの高校の受験を(すす)められてもいた。それでも()えて地元の「早明」を選らんだ理由は二つ。一つは有美里には、高校など入れればどこでも良く、レベルどうこうなど二の次で、とにかく家の近くだということ。

もう一つは高校に入っても、変わることなく勇吾の指導のもとで武術修行がしたかったからに他ならなかった。

まして卒業後の進路などはまるで考えていた訳ではなく、自身の学力で無理なく入試に合格出来そうだったから、というだけに過ぎない。故に入学した直後の希望進路のアンケート調査には迷わず、「未定」「進学以外」と回答した。実際に他の生徒はどうだか知らないが、高校に入学したばかりで大学がどうのこうのなど、有美里にとっては興味のない話だったのである。

それよりも今の有美里の興味の大半を占めているのは、勇吾から仕込まれる剣道やら他武術のことであり、様々な武術のエッセンスであった。さらに楽しみになっていたのは、先日入学式の後で勇吾から告げられたことである。

「近いウチ、ここひと月くらいの間に、オレが世話になっているジムに連れて行くぞ」

有美里はほとんど飛び上がりたくなった。むろん、嬉しさのあまりだ。勇吾がいう「ジム」とはつまり、「キックボクシング・ジム」のことしか指さないことは、一年近く付き合えばだれでも分かり得よう。

「もちろん、キミさえ良ければだが」

「良ければだなんて、そんな。ぜひお願いします。前から先生に一度連れてって欲しいと思ってたんですから」

「思ってたんなら、何故言わなかったんだ?」

「一応、遠慮してたんです。何となく、剣道さえまだ満足に出来ないのに、って言われそうで」

「あのなあ、キミの場合、変に遠慮はいらんよ。もっと素直に好奇心を出していい」

「いいんですか」

「構わん。キミは逆に、それぐらいで丁度いい」

勇吾は珍しく、ニコニコした顔になっている。自分でも気づいていないが、有美里のことが弟子としてかわいいと思えていた。不器用だが素直である。今時の女子にしては珍しいくらいに、奥ゆかしい。それでいて教えていて楽しいことに、指導したことは次回にはしっかり身につけて来るのだから、指導のしがいがない訳がなかった。

有美里は輝くような笑顔である。明るい顔を紅潮(こうちょう)させたまま、勇吾に訊いた。

「見学で、ですか」

「とりあえず、な。性に合いそうなら、そのまま入門しても構わんぞ。トレーナーの矢部さんには話してある」

ただしキックの場合は、オレは指導というより一緒に練習するんだがな。勇吾は最後に、そう付け加えたのだった。

その時の会話を思いだしながら、有美里は歩いている。自宅までの帰り道が、今日は妙に長く感じられるのは何故だろう。

決まっていた。

今日はまさに、その日だからである。今日これから勇吾に連れられて、キックボクシング・ジム「RCK新川ジム」に行くことになっていた。帰宅したら、先ず道場「清風館」で勇吾と落ち合うことになっている。気が()いている分、早く家に着きたかった。とにかく家路を急ぎたかった。

前からキックにも興味を持ってはいた。勇吾のことは、尊敬のひと言でしか言えないのが有美里である。その尊敬の理由は無論、その強さだった。あの強さの秘密は、どこにあるのか。その(みなもと)が知りたかった。その源は案外、キックの中にこそあるのかも知れない。妙な確信めいたものが、有美里にはあった。



一旦帰宅し、トレーニングウェアに着替えた有美里が自宅を出たのは16時を少し過ぎてからだった。

「RCK新川ジム」の練習が始まるのは19時からと聞いている。少々早いかとは思ったが、出かけることにした。確かこの前勇吾は、今日は朝から一日中、完全休日(オフ)と言っていた記憶がある。

この時間ならもう道場にいて、少年剣道の指導をしているはずだった。だったら自分もこの際、一緒に稽古させて(もら)おう。そんな気になったからである。今日も道場での早朝稽古を済ませてから登校した。これは高校に入った今でも変わっていなかった。最近では放課後も、道場に行く日が増えてきてもいる。少年部の小学生たちにも、有美里は妙に好かれてもいた。だから行けば、楽しく稽古が出来るのである。

幸い道場には常に稽古道具が一式、予備の道着も含めて置いてある。とにかく先ず、道場に向かおう。

そう思いながら有美里が、自宅を出てから十五分ほども歩いたころだったろうか。

あと二つか三つの角を曲がれば「清風館」に到着という、その時に、有美里はその二人を目にしたのだった。見かけたのは丁度角を曲がったその時で、有美里の百メートルほど前を並んで歩いていた、男女の二人連れである。二人とも有美里と同じ「早明」の制服を着ていた。最初は後ろ姿だったこともあり、誰かまでは気づかなかったが、女の子の横顔に見覚えがある。

(あれは確か、同じクラスの)

間違いなかった。前野麗美(まえのれいみ)という、クラスメートである。クラスの男子たちが、美人だとか可愛(かわい)いだとかウワサしていただけあって、かなりの美少女と()っていい。出身中学が違うのでまだ話したことはないが、所謂(いわゆる)いい子ではあろう。有美里の彼女に対するイメージだった。どこか、可憐(かれん)そうな少女だ。

麗美に次いで、男の横顔を見た有美里は思わず息を呑んだ。

(あの男は)

最悪だ。有美里が男に対して持っているイメージは、麗美とはある意味、真逆と云えるものだった。

片山陽希(かたやまはるき)、有美里と中学でも同学年だった少年だが、こちらは同級生の間でも悪名高いワルである。

スラリとした身長と、男性アイドル顔負けの甘いマスクを武器に、何人もの女の子を泣かせているというウワサがある男だった。

あくまでもウワサだったので、有美里は気にも止めていなかったのだが、片山に部屋に連れ込まれて無事に出てきた女はいないと聞いたことがある。

これもウワサでしかなかったが、片山の部屋に入るともう、中には何人もの男たちが待ち構えているらしかった。後は言わずもがな、でしかあるまい。ウワサが本当なら、女の子たちに出来ることは一つ。そう、泣き寝入りしかないはずだった。

(もしもウワサ通りなら、このまま見過ごすわけには行かなくなったわ)

よりにもよって、エラい場面に遭遇(そうぐう)してしまった。これが今の有美里が思っていることだった。

だが、中学時代に何人か確かに、ある日を境に急に明るさを無くしたり、登校拒否になったりした女子がいた記憶がある。そういえば彼女らにもついて回っていた名前は、どれも片山ではなかったか。そのことを、有美里は思いだしてもいた。

このままでは、オオカミの群れの中に子羊を投げ込むに等しい。

有美里は、決断した。

(とりあえず、後をつけよう)

そのままの距離を保ったまま、片山と麗美の尾行を開始したのである。



「あと、どれくらいで着くんですか?片山くんの家って」

前野麗美は歩きながら、片山陽希に(たず)ねた。

小首を(かし)げるクセがあるらしい。その美少女ぶりを、さらに際立たせている。

背が低い。150センチをいくらも出てはいまい。低身長と相まって、下手なアイドル顔負けの可憐さがある美少女だった。

「うん、もうすぐだよ。二分とかからない」

片山は麗美を見返しながら、にこやかに答えた。どこかまだ高校に入学したての少年とは思えない、女を扱いなれた雰囲気を(まと)っている。

「男の子の部屋に入るのって、初めてだから、何だか楽しみです」

「そっか〜、楽しみなんだ〜。でもかなり、散らかってるよ」

「え〜、どれくらいですか〜?」

「さ〜あ、それは入ってみてのお楽しみ、かな~」

「え〜〜」

などと会話を交わした時だった。

「ほら、あそこだよ」

片山が指差す方向に、一軒の二階建ての住宅があった。ブロック(べい)に囲まれた、門から入ってすぐに玄関がある。玄関は普通の、木製のドアだった。

玄関の脇に小さな、申し訳程度の庭があり、その向こうが駐車スペースになっている。

片山の両親は外出しているらしく、クルマは停まっていなかった。平日の夕方である。仕事とみるのが普通だろう。

片山はポケットから鍵を取り出すと、ドアノブに差し込んで回した。

カチャリと音がして、鍵が開いた。

「まあ、上がりなよ。今ウチ、誰もいないけどそのうち、お袋が帰って来ると思うからさ」

「はい、お邪魔します」

片山に次いで麗美も、靴を脱いだ。片山がスリッパを用意してくれている。

「ありがとう」

礼とともに、スリッパに足を通す。

玄関から奥に向かって廊下が伸びており、廊下に沿う格好で階段があった。片山の部屋はどうやら、二階らしい。麗美に目で促しながら、階段を登り始める。

麗美は片山の後に続いて、階段を昇った。

緊張してくるのが自分でも分かる。今さらながら、初めて男の部屋に入るということを自覚していた。胸が不安で高鳴る。

(二人きりだね、なんて言われたら、どうしよう〜)

などという、いかにも乙女チックな妄想をしてもいた。

先に階段を上がりきった片山が、部屋のドアに手をかけた。手前に引いて、麗美が中に入るのを促すように、そのまま廊下で待つ。

「お邪魔します」

麗美がまたそう言いながら、部屋の中に入った瞬間だった。

「ひゃーっほーっ!!」

「レイミちゃんだよね、待ってた、よ~ん」

「皆んなで仲良く、あ、そ、ぼ、う、よ~」

口々に(はや)し立てるような、はしゃぐような、複数の男たちの声が上がったのである。

部屋の中には誰もいないとばかり思っていた。故に麗美は最初訳がわからず、状況が飲み込めなかった。

部屋の中には既に、三人の男たちがいた。どうやら片山が麗美を連れて帰って来るのを知っていたとしか思えなかった。

「だから言っただろ、散らかってるぞ、ってさ」

いつの間にかドアを閉めた片山が、麗美の後ろに立っている。事ここに至ってようやく麗美は、自分の置かれた状況を理解していた。

そう、片山も含めてこの男たちは、始めからそれが目的だったのだ。それ、つまり、集団レイプであり、輪姦(まわし)に他ならない。

そしてその対象、このオオカミたちの前に投げ込まれた子羊、それが自分だということ。

それを悟った瞬間に、麗美は自分の顔から血の気が引くのを自覚していた。

「世間知らずだな、キミは」

片山はせせら笑うように言った。

「部屋には誰もいないなんて、言ってないぜ」

「で、でも、今は誰もい、いないって」

「ああ、確かに言ったよ。今ウチの人間は、誰もいない、ウチの、ってな」

麗美の声は震えを帯び始めている。明らかに、(おび)えていた。

片山の声はというと、残忍な響きが混じり始めている。猫が小鳥を甚振(いたぶ)るように、追い詰める空気を(まと)っていた。

「あ、アタシ、やっぱり帰ります」

やっと言いながら片山の脇をすり抜けて、ドアに向かおうとした麗美の行く手が、唐突に(ふさ)がれていた。

片山が、その先には行かせないと言わんばかりに、麗美の前を横切る形で右手を伸ばし、壁を平手で突いたのである。麗美を絶望させるに充分な威力を持った、冷酷な「壁ドン」であった。

麗美が思わずビクリと、蒼白な顔のまま肩をすくめる。

片山が右手は麗美の行く手を塞いだまま、麗美の顔に顔面を近づけながら言った。

「パーティはこれからだってのに、主役が来てすぐ帰るなんて、そりゃないぜ」

片山の声がドスの効いた低音に変わった。

「れ、い、み、ちゃ〜ん、あ、そ、ぼ〜」

「帰っちゃ、やー、だー、よー」

「一緒に、盛り上がろうよ〜」

他の三人が口々に騒ぎ立てる。完全に、(もてあそ)んでいた。

「どうしてくれんのよ、すっかり折角(せっかく)盛り上がったこのムードと、俺らの熱い想いを〜」

片山が低く響く声のまま、麗美の耳元で残酷に(ささや)く。

どこまでも冷たい現実に思えた。麗美は喉元に刃物を突きつけられたような気がしていた。(ひざ)がガクガクと震える、足に力がはいらず、動けない。それはつまり、麗美が初めて経験する圧倒的な恐怖というものだった。

(こわい、こわい、怖い)

頭の中が全て恐怖で占められそうになった。

その時である。

部屋の入口のドアが突然開き、疾風のように飛び込んできた影が一つ。

部屋の中にいた全員の視線が入口に集中した、まさにその瞬間。

「がはあぁっ!?」

片山が鼻血と、折れた前歯を飛び散らせながら吹っ飛んだ。

その影が素早く片山の肩を掴んで振り向かせるなり、片山の鼻頭に容赦ないストレートパンチを叩き込んだのだった。

「逃げて、はやく」

影はそう叫びながら、呆気に取られている麗美を入口に押しやった。

我に返った麗美が、訳が分からないながらも必死に走り出す。自分が逃げねばならないことを思いだしたようだった。

「何だテメェ」

「誰だ、コラァ」

片山の部屋にいた男たちが、叫びながら立ち上がる。片山がぶっ飛ばされるのを見て、状況を理解したらしい。

影はいちいち、男たちを確認などしていなかった。取り敢えずの矢鱈(やたら)めったらという感じで、パンチをふりまわす。しかし良く見ると、的確に急所を捉えたワンツーだった。この差し迫った状況で、見事なまでの冷静な判断という他なかっただろう。たちまちの内に頭をオールバックにした()せた男と、ツーブロックにしたデブが片山同様、突然に吹っ飛んだ。

「オォらあっ?!」

髪を短く刈り込んだ男が、右フックを繰り出して来る。影はそれを特に防御せず、構わず前進した。ただし、男の倍ほども上を行く早さの踏み込みだった。

結果として男の右フックは空を切り、男の顔面にも強烈なワンツーが叩き込まれる。

「ぶはぁっ!?」

短髪の男も、一撃で沈められた。影はその時にはもう、入口に向かって走っている。

「野郎、ふざけやがって」

最初に殴り飛ばされた片山が、ここでようやく復活して来ていた。

「ぶっ殺してやる」

部屋にあったタンスの引き出しを引き開ける。

中に入っていたのは、刃渡りは30センチもあろうかという、大振りのランボーナイフだった。ランボーナイフを革ケースごと掴むなり、影の後を追う。あの小柄な体躯には見覚えがあった。確か、同じ学校だ、それも、自分と麗美と、同じクラスだったはずだぞ。

「あいつ、確か、そうだ」

玄関に向かって走りながら、片山は思いだしていた。あの、さっき自分たちを殴り倒した影の、いや、女の名を。

「な、仲村、とか言ったな」

血まみれの鼻と口元に、壮絶な笑みが湧いていた。



有美里は一気に玄関まで駆け下りた。後ろを振り返る余裕はない。そんな暇があるなら走った方がいい。それだけは分かる。

玄関では先に逃げ出した麗美が丁度、自分の靴を履こうとしているところだった。かなり慌てているので、なかなか靴に足が入らない。まごついている。

「履かなくていい、靴を持って」

有美里が声をかける。麗美はその意味が分かったらしく、カバンを持っていない、空いている左手で靴を掴んだ。靴下のまま、走り出す。

「あ、あなた、仲村さん、だよね?」

有美里に気づいたらしく、麗美が走りながら訊ねてきた。

息を乱しながらなので、かなり抑揚があるが、言葉になってはいる。

(しゃべ)るのは後、今は逃げよ」

応じながら、有美里は一瞬振り返った。

視界の隅に、復活したらしい片山らの姿が映る。かなり必死の形相だった。それはそうだろう。仮にも女一人、集団暴行しようとしたのである。有美里に邪魔されて、未遂に終わった上に殴られたとはいえ、どちらの方が罰則が重くなるか。考えるまでもあるまい。このまま有美里と麗美を逃がせば間違いなく、自分たちは破滅のはずだ。これまで重ねた悪行も全て、白日の下に晒されることになる。

それが分かっているだけに、鬼のような顔で追いかけて来るのだろう。

「待てぇ、こらぁ」

片山が叫びながら追ってきていた。後ろに血まみれの顔のままの、片山の仲間たちが続いている。どれも口汚い言葉を何やら吐き散らしていた。道を行き交う通行人が皆、何事だろうと見ている。だが当の本人たちには、もう周囲の状況は目に入っていないようだった。

有美里はチラリと、自分の右手を確認した。

細く折り畳んだ状態の新聞紙を、掌の中で両端を握り込み、指の根本に分厚い面が重なるようにもっていたのである。

これは即席のメリケンサックだった。新聞紙さえあれば即座に作れる、言わば簡易的なものだが、威力は決して(あなど)れない。それこそ本物のそれには及ばないが、限りなく近いものがある。

現に先ほども有美里の右ストレートを、高校生とはいえ大の男を一度に四人も殴り飛ばせるほどに変えている。

他でもない、勇吾から教わったものだった。

「コイツのいいところは何よりもな、本物のメリケンサックと違って、手を痛める心配がないのさ」

そういいながら手早く簡易メリケンを作ってみせた勇吾の姿が、有美里の脳裏に浮かんだ。

片山宅まで二人を尾行した有美里が、すぐに家の中に入ろうとして思いとどまった理由。

それは、片山宅の新聞受けが目に止まったからであり、それと同時に新聞メリケンを思い出したからである。中に何人いるか状況が分からない中では、さすがに丸腰で突入するのは(はばか)られたし、あまりにも無謀だと有美里も分かっていた。何か武器になるものをと周囲を見回し、新聞が入ったままの新聞受けを見つけた瞬間、有美里はほとんど神の加護を信じたと言っていい。

(屋内では下手に棒とか竹刀のような長物の得物より、かえってこの方が扱いやすい)

勇吾の言葉が思い出され、背中を押してくれた。

後は即席メリケンを右手に巻きつけ、鍵がかかっていなかった玄関から、屋内に侵入するだけだった。靴は、脱がなかった。恐らく自分の想像通りなら、この後では履いている暇などない。すぐに逃げ出せるようにしておく必要があったからである。

(自分の考えすぎで、違ってたら謝ればいい)

という程度に考えてもいたが、それが杞憂(きゆう)に終わらなかったからこそ、今走っているのだ。

メリケンには明らかに、染みがついている。

男どもの鼻血であり、切れた唇、折れた歯の口腔からの出血によるものもあったろう。

表面の一枚目が既に()がれかけ、二枚目も破れかけていた。しかし、まだ使えそうである。このような状況下でも、なぜ自分がここまで冷静に行動出来ているのか。有美里自身、不思議でもあった。

麗美と駆ける有美里の目に、見覚えのある建物が見えてきている。見た瞬間、助かった、と思った。本音である。

「もう安心だよ。あのドアの中に入って」

三階建の、社屋らしいビルの一階、何かの入口になっているドア。その一見何の変哲もない木製のドアの脇に、これも木製の大きな看板がかかっている。看板には墨書きで「清風館」と大書されていた。

そう、有美里は無意識の内に道場に向かって走っていたのである。

何かから逃げようとする時の人間は、特に意識しなくとも、逃げる方向は大体きまっているらしい。もっとも通りなれた道、慣れた道を選ぶといい、つまりは自宅、あるいは行き慣れた訪問先などに自然と足が向くものなのである。片山宅から走り出た有美里が意図せずも、「清風館」に走ったのは、ごく自然といえた。麗美はただ、有美里について来ただけにすぎない。

麗美は「清風館」の玄関に、飛びつくように駆け込んだ。(すが)りつかんばかりにドアノブを(ひね)る。麗美がドアの中に姿を消したのを有美里が確認したその時、通りの向こうから片山らが出て来るのが見えた。いいタイミングだったといえる。

「あそこだ、いたぞ」

有美里に気づいた誰かが叫ぶ。

道場には迷惑をかける訳にはいかない。

ここで自分まで道場に逃げ込むわけにはいかない。有美里はそう思った。

先ずはこのまま走る。逃げ続ける。出来るだけ片山らを引きつけ、時を稼ぐつもりだった。今ごろ道場では麗美が、中にいるだろう、勇吾や他の門弟たちに事情を説明しているはずだ。おっつけ通報する事により、警察もやって来よう。麗美は靴を履いていない、靴下のまま駆け込んだはずなので、勇吾や長沢ならば、異常にすぐ気づくはずだった。

いつしか江合川の堤防上に出ていた。河原を左手に見ながら走る有美里の前方に、江合大橋の橋梁(きょうりょう)が、その手前左に河原へと続く降り口が目に入る。有美里は躊躇(ためら)わずに、河原に駆け下りた。

橋桁(はしげた)の下に一直線に駆け込む。ここならば、人目につかない。ややもすると有美里に不利な場所ではあるが、逆に言えば、片山らにとっても不利だと言えた。男四人に追われて逃げている以上、何をやっても正当防衛が成り立つ。まして片山の手にはバカでかいナイフがあるのを、有美里は逃げながら確認してもいる。そこまで必死に走りながら、計算してもいた。

どうやら、ここら辺りかな。肚を決める。橋桁の真下、河原の中央で立ちどまった。

息を整えつつ、足元の小石を左手で一つ拾う。右手の簡易メリケンを握り直した。そのまま、片山らが追いつくのを待つ。

程なくして、来た。橋の下に立っている有美里を見つけた先頭の男が叫んだ。

「あそこだ、橋の下にいたぞ」

途端に四人とも、猛烈な勢いで駆け下りて来る。来るなり、有美里を囲むように広がった。男らの作った円の中央に、有美里が置かれる格好になった。正面は、片山。

「もう、逃げらんねーぞ」

「手前取らせやがって」

「ちくしょう、よく見りゃコイツもなかなか、イケてる女じゃんかよ」

全員、荒い息を吐いていた。息が上がっている。これだけの距離を走ったのでは無理もあるまい。

「よくも下らねえマネしてくれたもんだよな、仲村さんよ」

片山が左手に掴んでいたナイフの柄に、右手を()わせながら言った。

「麗美はヤリ損ねちまったがよ、替わりにアンタに相手してもらうぜ、オレらのな」

言うなり、ランボーナイフを引き抜いた。その瞬間だった。

有美里の左手が閃き、片山に向かって伸びた。その途端である。

「ぎゃがあっ」

片山がナイフも革ケースも放り出し、両手で顔面を押さえた。そのまま(うずくま)り、のたうち回る。鼻面を覆った手指の間から、一筋の血が流れ出てきた。有美里が左手に

握っていた小石を、スナップを利かせて投げたのである。距離は3mほどだった。有美里もそこまで狙っていたわけではない。利き手ではないこともあり、とりあえずの牽制(けんせい)のつもりだった。それがたまたま、思う以上の大効果となっただけである。

「ヤロウっ」

「やりゃあがったな」

「ザケンじゃねえ、バカヤロウ」

男たちの声を背中で聞きながら、有美里は動いていた。

もしも周りを囲まれた場合、一箇所に留まり足を止めるのが一番危険。これは勇吾から教わった、有美里が普段からイメージトレーニングし()つシミュレーションしている事でもある。

有美里は数歩走り、やにわに足を止めた。

振り向くと中背の短髪男が、ほとんど有美里に突き当たりそうになっていた。完全に(きょ)を突かれたのであろう。まさか有美里が逃げずに止まるとは考えてもいなかったに違いない。

「うおっ」

驚いた表情の短髪に向かい、有美里は滑らかに踏み込んだ。例のすり足の足捌(あしさば)きである。その踏み込みに体重を乗せて、簡易メリケンの右ストレートを叩き込んだ。一切の容赦のない一撃だった。

ぐじっ、という、明らかに鼻頭が潰れる音が聞こえ、果たして短髪が、声もなく膝から崩れ落ちた。そのまま前のめりに倒れる。有美里のメリケンパンチを、もろにカウンターで(もら)う格好となったのである。高校生どころか大の大人の男でも、立ってはいられなかっただろう。倒れた短髪の突っ伏した顔の下に、血溜まりが広がり始めた。

有美里は動きを止めない。手も足も、とまらなかった。短髪の次に向かって来た、痩せオールバック。背は高いが、180センチまではあるまい。その、軽そうな男の顔面にさらにワンツーを伸ばした。

「あぐっ」

オールバックが鼻頭を押さえて立ち止まる。

有美里はそのまま、ツーブロックのデブの正面に踏み込んだ。またも、ワンツーを叩き込んだ。それでデブも行動不能に追い込む、追い込める。有美里はそう思っていた。

いたのだが、デブは有美里のパンチでは、倒れなかった。

デブはよく見ると、背もそれなりに高い。明らかに、体重がありそうだった。80キロほどはありそうな、デップリとした体格である。

対して有美里の方は、40キロ少々。打撃が効く体重差ではない。屋内での一瞬見ただけでは分からなかった差が、今の有美里には(ようや)く認識できていた。

「痛えなあ、おい」

デブは鼻血を出した顔のまま、余裕の笑みを浮かべている。有美里のパンチを、蚊に刺された程度にしか感じていないらしかった。

ここに至って初めて、有美里の背筋に悪寒が走った。肚の底から、久しく味わっていなかった恐怖がせり上がってくる。

恐怖を振り払うように、ワンツーを続けざまに打つ。だがその度に見せつけられたのは、絶望的なまでの体重差だった。差が有りすぎて有美里の打撃が、デブにはまるで効いていない。

「そう何度も同じパターンで打たれたらよ、もう軌道は、覚えちまうよっ」

言いつつデブは、何発目かの有美里の右ストレートを、彼女の右手首を掴んで止めた。

掴みざま、凄まじい力で手首が握り込まれた。思わず激痛に(うめ)いた有美里が、即席メリケンを取り落す。

デブはさらに、掴んだ有美里の手首を引き寄せた。引き寄せながら、接近した有美里の水月に、ドスリと重そうな音とともに強烈なボディーブローが入れられていた。

「こふっ」

一撃で有美里の膝が落ちる。

「おらっ」

さらにもう一発、腹部中央を打たれた。有美里は息がつまり、(あえ)いだ。しかし、酸素が取り込めない。いくら呼吸しようとしても、息が継げなかった。デブが有美里の手首を掴んだままだった故に、辛うじて立った状態だったと云える。ほとんど、もはや失神しているというべきだった。

「さて、と」

デブは無造作に有美里の手首を放した。放り投げた、といったほうがいい乱暴な放し方だった。事実、ドサリと音を立てて地面に転がされ、有美里はまた呻く。苦痛の声を上げることしか出来ない。

「か、はっ」

金魚のように口をパクパクさせるが、開いたままの口からは(よだれ)と化した唾液が滴り落ちるだけだった。

「さっきの部屋の中じゃあ、いきなりだったから効いちまったけどよ」

デブが有美里を見下ろしながら、嘲笑(あざわら)うようにいった。

「オレくらいのヘビー級を倒すには、少しばかり、軽すぎたよな」

非力なんだよ、ネーちゃん。

有美里には、デブのそのセリフは聞こえていなかった。苦悶(くもん)の表情で身を(よじ)ることしか出来ない。今の自分のパンチでは倒すには無理がありすぎる相手だった。そう悟ってもいた。奇襲で麗美を救出したはいいが、ここまでは考えていたわけではない。

完全にあらゆる意味での、状況判断のミスというべきだった。行き当たりばったり過ぎたか。それにしても、メリケンを使ってもダメとは。

有美里は苦しい呼吸の中、様々な考えが頭の中で堂々巡りするのを自覚していた。

「どれ、そろそろ、(たの)しませてもらうぜ」

デブは有美里の背中に回ると、有美里の両肩を掴んだ。そのまま両脇の下に手を入れ、上半身を起こす。

必然的に有美里はデブに、羽交い締めにされる格好になった。 

「さっきから気になってけどよ、結構いいオッパイしてんじゃねえかよ、テメェ」

言うなりデブが右手で、有美里の右の乳房をトレーナーの上から無遠慮に掴んだ。乱暴にこねくり回され、有美里が思わず顔を(しか)める

嫌悪に身悶えする有美里は呼吸がまだ、普通に戻らない。視界が(かす)んでいる。苦痛と、それによって(にじ)んだ涙のせいだった。

霞む視界が、前に立つ人影を捉えた。

「このばか女、よくもテメェ」

その声で片山と分かる。拾いあげたらしく、右手にナイフが握られているのも、抜き身の鈍い光りでわかる。

片山は有美里の前にしゃがみ込み、彼女の右の頬を冷たい刀身を当てがった。刃の平でピタピタと叩く。背後はデブがこれまた、しゃがみながら羽交い締めにしたまま。有美里の両足はというと地面に投げ出された格好になっていた。

そこに復活したらしいオールバックが無言で加わる。デブが羽交い締めを解いて横に身をずらし、有美里の右腕を抱くように押さえた。オールバックは左。どうも、人種的にこういう時の以心伝心は、こういう輩は素晴らしいものがあるらしい。もちろん下品な意味での阿吽(あうん)の呼吸というヤツだった。

「へ、へへへ、動くなよ、動くと痛えことになるぜぇ」

片山が荒い息のまま、ランボーナイフを脇に置いた。有美里のトレーニングパンツに両手をかける。そのまま引っ張り、一気に下まで引き下げた。

下着ごと脱がされたため、有美里の下半身が一糸纏(まと)わぬ裸身になる。白い尻や太ももが露わになった。

「ヤメ、て」

有美里はか細い声を出すしかない。反対に男三人は矯声(きょうせい)をあげた。

「そーら、一気に行ってみるかよ」

片山が有美里の片足から、無理やりパンツの裾を抜いた。スニーカーは履かせたままだ。

手際の良さからは、こういう時の経験値の高さが伺える。前にも何度か、あるいは何度も同様の経験があるらしい。そうと分かる手早さの、手馴(てな)れた脱がせ方だった。

こんな連中に、またも。

有美里の脳裏には、中学時代の悪夢の記憶が浮かんでいた。あの、内藤らに輪姦(まわ)された時の記憶だった。どうしてこうも、同じ目にばかり遭うのか。あんなことなどもう、忘れてしまいたいのに。勇吾に剣道やらキックの真似事やら色々仕込まれて、すっかり強くなった気でいたのに。結局ワタシは、何も変われてなどいなかった。今もまた、あの時と同じだ。また、()られようとしている。

(ワタシは、いつまでも、同意の上でのセックスは出来ない運命の女なの)

冗談じゃないわ。ワタシだっていつか、こんな無理やりじゃなく、どうせセックスするなら好きになったヒトとしたい。好きな男に抱かれたい。ちゃんと、愛し合いたいよ。

ここまで思った有美里の脳裏に、勇吾の教えが浮かんだ。

(過去の自分を変えることは出来ない。だがな、それに向き合い、超えることが出来るのは自分だけだ。つまり、今とこれからの自分自身は、いくらでも変えることが出来る。自分次第でな)

その瞬間だった。有美里の混濁(こんだく)していた意識が覚醒(かくせい)したのは。

そして見た。片山がいつの間にか、己のズボンを下げて露出させていた、片山の分身を。

(こういう場合は、確か)

意識的に有美里は下半身の力を抜いた。脱力させたのである。

片山にしてみれば当然、抵抗されるものと思っていた。足に力が入るはずだ、そう予想していたのである。だが、それがない。

これが意味するところは。男たちが察した意味は一つだった。悲しいかな、それが自分たちを地獄に突き落とす判断になるとは、この時は誰も予想だにしていなかった。

「お、どうやら諦めやがったか」

両足から力がなくなった有美里の様子に、片山がほくそ笑んだ。

「何だよ、その気になったってか〜」

「その方がいいぜ、一緒に愉しめば、逆にラクってもんよ」

そう言いながらデブなどは調子に乗って、有美里の服を(めく)るように裾の下から手を差し入れブラジャーをずらした上で、有美里の右の乳房を直に揉み始めている。

「もうちょい、愉しみてぇんだよ。この感触がよ、なかなか、離しがたいんだよな」

口辺に(よだれ)を浮かべ、舌なめずりしながら言った。

片山が有美里の腰を、両手で掴んで引き寄せた。正常位で突き入れようと、有美里の陰部に己の先を当てがう。

「いた、だき、ます」

言いながら片山は自身を一気に、有美里の自身に突き入れた、はずだった。

「ぐひゃがはあぁあぁあっ」

この世のものとは思えないような、ゾッとする叫び声。およそ快楽のそれとはあまりにかけ離れた、悲鳴というべき声を片山が上げていた。

「こ、このクソ女、お、オレのキンタマをっ」

片山はそう叫んだようだったが、激痛のあまりか言葉になってはいない。変わりに己が股間を両手で押さえてのた打ち回るしか出来なくなっていた。掌の中からは、血が(したた)り落ちてもいた。

デブもオールバックも訳が分からず、呆然としている。

それもそのはずだった。有美里が「その気」になったと片山が判断したその時、二人もまた、有美里の両腕から手を離した。

その瞬間に有美里は右手を自分の股に伸ばし、今まさに突き入れられようとしていた片山の分身を掴むなり、思い切り()じ曲げたのである。

どれほどのダメージを与えたかは、片山の反応を見れば一目瞭然といえよう。快楽の源泉は一度無防備になると、これ以上ない危険な激痛の源にもなりうる。まさに男の最大の弱点とはよく言ったものだった。

ともかくも、身体の自由を得た有美里が跳ねるように立ち上がる。デブとオールバックの二人が我に返ったのは、それと同時だった。

「こら、テメェ、片山に何しやがった」

「ボロボロになるまで()りまくってやっからよ」

有美里は二人に対し、反射的に身構えた。その時である。

「よーし、そこまでだっ」

有美里の後ろから、力強い声が響いた。叫んだわけではないのに、妙に響く特徴ある低音。聞き慣れた、聞くだけで安心する声。

その声に有美里は、思わず振り返っていた。男二人の顔色が変わるのを横目で確認しつつ。

有美里の視線の先に、勇吾の立ち姿があった。紺色のニッカボッカのワークパンツを履いていた。無地のグレーのTシャツの上に、下と同系のワークジャケットを無造作に引っかけている。

ゆっくりと、例の隙のない足取りでさり気なく、有美里の前に歩み出た。有美里を二人から何とでも(まも)れる。そういうポジションの絶妙な位置取りだった。

「もはや、何を言い訳しようとも通らんぞ。オマエらが何をやろうとしたか、見ただけで分かる。誰が見てもな」

「うるせえっ」

オールバックが(わめ)きながら、片山が先ほど地面に置いたランボーナイフを素早く拾い上げた。勇吾の余裕ありげな口調が気に(さわ)ったらしい。腰だめに構えて叫ぶ。

「テメェ、何様だ、このヤロウっ」

叫ぶなり、突っ込んできた。どうやら、この男なりに必殺を狙ったようだった。

だが、勇吾は落ち着いていた。

くるりと身体を独楽(こま)のごとく回転させるように、足を踏み変えて体を捌く。体の回転の勢いはそのままに、勇吾の右足が伸びた。

果たせるかな、勇吾の右上段後ろ回し蹴りが見事な角度で、オールバックの後頭部にヒットしていた。遠心力たっぷりの(かかと)をめり込まされた男が、声もなく卒倒する。倒れた男は白目を()き、口辺から泡を吹き出していた。失神したのである。

「か、空手をやるのかっ」

勇吾の蹴りで、仲間が手もなく()されるのを見たデブが叫んだ。動揺した口振りだった。

「空手じゃない、キックボクシングだよ」

少し混じってはいるがね。そう言いながらの勇吾の口調に変化はない。

「キックだと?じゃあ、階級制なんだよな」

デブはここで、勇吾の実力を体格を観察して判断したようだった。先ほどの動揺は一瞬のことで、すでにさっきまで有美里に見せていたのと同種の嘲笑(ちょうしょう)を口辺に浮かべている。

何だよ、こっちも随分とチビじゃねえかよ

。オレの方がずっとデカいぜ。

明らかにそう思っているらしい顔だった。

「どう見てもよ、テメェのパンチも蹴りも、オレには効くと思えねえぜ。体重差がありすぎだろうが」

やはり勇吾を見た目で判断している。完全にナメた態度と口調がそれを物語っていた。

「さあ、それはどうかな」

勇吾はわずかも感情を乱していない。こちらもどこか、この状況を楽しむかのような余裕の笑みを浮かべている。

「へ、上等じゃねえかよ」

デブが今度は、一転して凄んだ。 仁王立ちで叫ぶ。

「だったらよ、やってみろよ。テメェみてえなチビがオレを、KOできるってんならよ」

逆に一発で終わらせてやるぜ、そこまで言おうとしたのだが、デブは最後まで言えなかった。

まるで友に握手でも求めるかのように、勇吾はデブに歩み寄っていた。その刹那。

ーーバチンっーー。

凄まじい炸裂音がしたかと思うと、デブが呻き声をあげて左膝をついた。左大腿部を押さえて、苦痛に顔が歪む。

「て、テメェ、何をしやがった」

「何って、右のローを軽く当てただけなんだがな」

勇吾はまだ笑みを浮かべたままである。デブが一撃で動けなくなるほどの右ローキック。そんな蹴りを入れたにも関わらず、どうやら本当に手加減したらしかった。

それはそうだろう。アマチュアながら勇吾のキックの実力は、プロでも充分通用する。

現にジムではプロ選手とスパーもする。というよりも、勇吾の実力の高さゆえに、ジムの練習生たちが相手をしたがらない。相手を嫌がられるので必然的に、プロしか相手がいなくなったのだった。

「軽く、だと?テメェ、ナメんじゃねえ」

「オイオイ、最初はそもそも、オレをオマエがナメてたんじゃなかったか。見た目で人を判断しない方がいいぞ」

「うるせえ、キックなんかやってるクセに、素人に本気だすなんざ汚えんだよ」

このセリフには、勇吾は苦笑するしかなかった。人を見た目で判断してナメてかかっておきながら、分が悪くなると騒ぎ立てる。やってみろなどと言っておいて、ヤラれると自分は素人だ被害者だと主張する。

手前勝手な、自分にばかり都合のいい話であり、甘ったれた考えの若者の理屈だった。

むかっ腹が立ってきた勇吾に代わって、有美里が口を開いた。

「いま先生は、軽く、って言ったはずだよ。全然、本気なんか出してない」

先生が本気で蹴ったら、二度とその足は使い物にならなくなる。有美里はそう、断言もした。

再び勇吾が口を開く。

「本物のキックボクサーなら、本気を出せば素人を一発KOするのは簡単だ。例え、今のオレとオマエくらいの体重差があってもな」

それがプロだ。言い切った勇吾の表情は、いつになく厳しい顔だった。まだ正直、むかっ腹が立ったままだった。

「だったらよ」

デブが左膝を押さえながら、立ち上がって言った。手加減したとはいえ、勇吾のローを受けて立ち上がれるのは、その図体ゆえの頑丈さと言うべきだっただろう。

「テメェの本気を見せてもらおうじゃねえかっ」

デブが思い切り、大振りの右フックを出してきた。踏み込み、腕のスイングスピードともに、スピード感は全くない。だが、当たれば文字通り猛牛も倒れそうな迫力があった。

ブォン!

獰猛(どうもう)な肉食獣の咆哮(ほうこう)を思わせるパンチを、勇吾はダッキングで躱した。その刹那。

「シッ」

勇吾の口から短く鋭い気合のような呼吸が()れる。ほぼカウンターのタイミングで、勇吾の右拳がまっすぐに伸びた。

右ストレートがデブの鼻頭に炸裂し、デブは一瞬、動きを止めた。と思う間に、膝から崩れ落ち、地面にうつ伏せに倒れる。意識を失ったらしく顔面を地面に強打しながらの、かなりみっともない倒れ方だった。下を向いたままの顔の下から、血溜まりが広がり始める。鼻血だろう。あるいは、鼻の軟骨が潰れているかも知れない。キックでは右ストレートは例外なく、内側に九十度近く捻りこむ。

世にいう、コークスクリューパンチというヤツで、威力は計り知れない。

「だから言ったんだ、見た目で人を判断するな、ってな」

キックボクサーをナメるんじゃないよ。

勇吾がそう言った時、遠くの方からようやく、パトカーのサイレンが聞こえてきていた。誰かが通報したらしい。

「先生、この騒ぎに関しての説明なんですが」

「ああ、それはもう、いい」

大体の事情はあの()から聞いたよ。そう言いながら勇吾が指さした先に、駆け寄ってくる少女の姿があった。前野麗美だった。

「すいませんでした、先生。こんなに大きな騒ぎにするつもりはなかったんです。

何とかするつもりだったし、出来ると思ってたんですが・・・」

「確かに色々、判断ミスやら考えが甘いところがあったな。だが、それについての説教は後だ。その前に」

ここで勇吾は視線を足元に一瞬向け、上げた目で有美里をまた見た。

有美里は思わずハッとして、その大事な部分を両掌で押さえた。一気に赤面する。忘れていた。片山に脱がされかけたトレーニングパンツとパンティが、片足の足首に引っかかったままだったのである。

勇吾はいつだったかと同じ、困ったような仏頂面で言った。

「その前に、パンツを履けっ」




























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