死神たちは集まり群れる、ハゲは頭頂部が蒸れる
背の高い漢だった。180センチはあるだろう。一見すると痩せてみえる。しかし、よく見るとそうではない。
余分な肉が腹周りにも腰回りにもついていないのだ。そのくせ、締まっている。みっちりと鍛えぬいた筋肉が覆っている。
腕も脚も同様である。よく見るとかなり太いのだが、たっぷりとしたサイズのジャケットを着ているのと、同じく太いジーンズを履いているせいか分からなくなっていた。
眉目秀麗、そう言っていい顔立ちだった。切れ長の目の下に高い鼻のスッキリとした鼻稜があり、整った口元がそれを際だたせている。その顔のまま、歩いていた。
漢が歩いているのは飲み屋街だった。居酒屋やキャバクラ、スナックなどが軒を連ねている。先ほどから漢とすれ違う女たちが、あからさまなネットリした視線を送ってくるのだが気にもとめない。自分が関係ない人間は男であれ女であれ、興味はなさそうだった。
「北町銀座」、これが漢が今歩いている通りの名前だ。この街、宮城県O市内でも酒を飲ませる店や、着飾った女たちが接客する多分にいかがわしい店が多く集まっている。その昔まだ日本経済がバブルにわいていた頃などは、かの仙台の歓楽街「国分町」とも並ぶ賑わいも見せていたのだが、それも昔の話。かつてほどの賑わいはない。しかし、そこはそれ、いつの時代でもこういった場所が仕事帰りのサラリーマンやOL,公務員などがひと時の夢気分の舞台に選ぶのは変わらないはずだった。
漢が一軒の店の前で立ちどまった。紫のネオン管が看板になっている。店名はゴシック体、アルファベットで「Russian wind」とあり、重そうな木製のドアの上に飾りつけられていた。一瞬、店名を確認した漢は、間違いないと思ったらしくドアノブに手をかける。勢いよく開けるなり、入口をくぐった。
「イラッシャイマセ」
明らかに片言と分かるイントネーションで、女の声が出迎えた。
入ってすぐ右が会計を兼ねた受付カウンターになっており、内側に金髪の白人女が立っている。どうやら声の主はこのブロンド女らしい。黒のドレスの大胆に開いた胸元から覗く豊満な乳房が透きとおるように白く、ドレスの黒と見事なコントラストを形作っていた。
「オヒトリ様、デスカ?」
ブロンド女が、漢に訊ねた。
顔立ちから察するかぎりロシア人だろう。
(なるほど、ロシアンウィンドか)
漢は店の名の由来に、妙に納得していた。
瞳が茶色く、肌が抜けるように白いのもうなずける。年の頃は恐らく、二十代。胸につけた名札には「ナターシャ」とカタカナで表示されていた。
「小野さんが、先に来ているはずだけどな」
漢がナターシャに訊ねる。
「オ待チアワセデスカ?」
「そうだよ」
「オナマエヲ、ウカガッテモ?」
漢は頷きながら答えた。
「角田武」
「カクニンシテキマス、オマチクダサイ」
ナターシャはカウンターを出ると、店の奥に歩いていった。カウンターの前には大きな衝立があり、奥までは覗けないようになっている。衝立の向こうからは、男の酔声やら女の享声、奇声がひっきりなしに聞こえ、時おりバカ高い笑い声が響いてきていた。どうやらそれなりに繁盛しているらしい。
すぐにナターシャが戻ってきた。彼女が歩くたびに、ドレスの下で豊満な乳房が重そうに揺れていた。
「オ待タセシマシタ、スミダ様。ドウゾコチラへ」
漢の、つまり角田武の前に立ち、案内を始める。角田は黙ってナターシャの後についていた。前を歩くナターシャから、何ともいえない芳しい香りがしている。彼女の生来の体臭もそうなのだろうが、香水のセンスも素晴らしいといえる。恐らく、何種類もの香水を吟味に吟味を重ね、自分に合うものを選んだのだろう。その上で一度に使う分量まで、色々と試行錯誤したに違いなかった。
(サムライウーマンだな)
ナターシャの後を歩きながら角田は、香水の銘柄を探っている。多分間違いないと確信してもいた。
ナターシャは店のもっとも奥まったエリアに、まっすぐむかっている。いくつかのボックス席の間を通りすぎたが、どのテーブルにも客がいた。一人のテーブルもあったが、だいたいは二人づれや三人づれだ。各テーブルで客の人数に応じて、一人ないしは二人の女が客の相手をしている。いずれもロシア人と一目で分かる女たちだった。
一番奥にまた衝立があり、店内のほかの席からは見えなくなっていた。ナターシャがその衝立の中に入っていく。必然、角田武も後に続いて入った。
中は一段低くなっている。据えられた応接セットも、ほかの席のそれよりも明らかに高級だった。
そこに、入口を向くように一組の男女が座っていた。男の方が入ってきた角田武に軽く手を上げて迎える。
「久しぶりだな。呼び立てて悪いな」
「いえ、どうも」
挨拶を返しながら、角田武は男の向かいのソファーに身を沈めた。チラリと男のとなりの女を一瞥する。やはりロシア人だった。女は黙って水割りを拵えている。角田武に出すためだろう。
「で、話ってなんですか?小野さん」
案の定、女が自分の前に拵えた水割りのグラスをコースターに載せて差し出して来る。
そのグラスに視線を落としながら、角田武は男に訊ねた。
角田武に小野さんと呼ばれた男、小野勇というのがこの男の名前である。
年の頃は五十絡み。背は座っているので分かりづらいが、おそらく角田ほど高くはあるまい。体つきは一見、太っている。太ってみえるがよく見ると決して、いわゆるデブではない。筋肉が分厚く体中を包んでおり、筋肉の丸みがそう見せているだけなのである。
角田武といい小野勇といい、只者ではない。見るものが見れば、二人の体つきから一目でそうと分かる。そういう漢たちのようだった。
「話ってのはな、実は他でもない」
小野はここで自分の顎の下に短く伸ばした髭を、やはり自分の右手の人差し指と親指ではさむように一撫でした。
小野が決して良くない話を切り出す時の癖だ。角田には、その事がすぐに分かった。
本当に昔から、この癖は変わらない。
「上村だよ、上村勇吾。アイツのことだ」
「上村ですか」
「そう、三年前、お前がうちの道場から追い出しにかかって退会に追い込んだ、あの上村勇吾だ」
ここで角田は、不快そうに眉をしかめてみせた。まだ二十代の前半らしい整った相貌が、意地が悪そうにわざと歪められていた。
「追い出しも何も、元をただせば剣道家のクセに、二足の草鞋ができると思って軽いノリでうちに習いに来てたのが悪いんじゃないですか」
「まあ、その点はオレも最初から気に入らなかったんだがな」
「剣道家なら剣道だけ、やってればいいんですよ。空手をナメるんじゃあ、ないって話です」
「そうさな。剣道を続けながら取り組んで大成できるほど、空手の世界は甘くないよな。
剣道に活かすためだか何だか、知らんがな」
どうやらこの二人は空手家のようだった。それも相当な実力者なのは、その体格が証明している。
「そう思ったんなら、何で入門を許可したんですか」
「それはだな。上村にというよりはな」
ここで小野は、意味ありげに身を乗り出した。角田の質問に答える前に、一区切りするようだった。やや額から頭頂部にかけて毛髪の薄くなり始めた頭の地肌が、店内の照明を反射していた。
「上村の元々の師匠に関係があるのさ。あの男の弟子なら少しくらい、イジメてやるのも面白そうだと思ったもんでな」
「知ってるんですか、上村の師匠を」
「ああ、長沢邦章って男だ」
ここまで話を聞いていた者がいれば、この二人は師弟関係にあることが分かるだろう。すなわち、小野が空手の道場をやっていること。それと、角田がその門弟ということがだった。
「その、長沢って剣道の師匠と、小野さんは」
どういう関係ですか、と聞きかけた角田の質問を制するように、小野が話し続ける。
「それで最近、その上村についてあんまり面白くない噂を耳にしたんだよ。なんでも、ウチを辞めたあと、キックのジムに入門したと思ったら、そこそこの実力で結構、有名らしい」
「キック?キックボクシングですか」
「そうだ。しかも最近は、高校生になるかならないかの女子生徒が一人、上村から専属で教わってるそうだ」
「弟子持ちですか?出世したもんですね」
「そうだよな。あの上村が弟子まで取って、師匠面してるってのが何より面白くないよな」
「ウチを辞めた後で、キックで芽を出したってのも益々、気に入らないですよね」
「だろ、そう思うだろ」
小野はここで、この男の生来の性根を表すような、意地の悪そうな笑みを浮かべた。左の口角だけが吊り上がっている。
「そういうヤツにはな、思い知らせてやらんといけないよな。自分の身の程ってものをだ。前と同じように、お前、また遊びに行ってやったらどうだ」
この時もう、角田の顔にも同じような笑みが浮かんでいた。なんとも残忍な笑顔である。
その顔のまま、角田武は答えた。
「いいですね、行きましょうか。せいぜい、甚振ってやりますよ」
角田武は、三十分ほどで「Russian wind」を出た。
出てすぐに思い出したのは、小野の薄い頭頂部に反射する、店内照明の眩しさだった。
(相変わらずというか、眩しさにいっそう、磨きがかかりやがったな)
以前よりずっと、禿げ上がり具合が進んだような気がする。多分、間違いない。
(やたらとテカるんだよ、あんたの禿げ頭は)
肚の中で、思い切り師匠に毒づいてみせた。師匠ではある、あるが、所詮尊敬まではできるような男ではない。
(そもそも、空手の道場なんか経営してるくせにスケベすぎるんだよ、アンタは)
角田が席を立つ間際、小野は隣に座る女の肩を抱き寄せ、肩越しに右手を前に回していた。その右手はというと、女のドレスの開いた胸元に直に潜り込ませて、しきりにモゾモゾさせていた。間違いなく、直に乳房を弄くっていたはずだった。もっとも角田も同じことを、いつの間にか自分の隣に座っていたナターシャについさっきまでして来ている。まだナターシャのスベスベした肌の手触りが掌に残ってもいた。掌を鼻に近づければ、あの得も言われぬ芳香がしそうである。
(そういえば、聞いたことがあるな)
市内のどこだったかに、従業員の女が皆、ロシアやらスウェーデンなど北欧系の外国人ばかりが雇われているクラブがある。
その店の女たちの給料は店からは、最低賃金分しか、支払われていない。稼ぎに不満があれば、足りない分は外で稼いでいい事になっている。そこで稼いだ金は、女たちが自身の懐に全て入れていい事にもなっている。
つまり副業を認めているのである。だが、外国人の若い女が出来る仕事など限られて来るし、一つしかない。
そう、身体を売る、肉体を与える「売春」、それだ。
「Russian wind」に呑みに来た客の多くは皆その事を知っている。知っていればこそ、目的の大半はそれである。客の男は店の中で気に入った女がいれば、先ず男性の店長かオーナーに「連れ出し料」について交渉する。「連れ出し料」とは名目上の店に支払う手数料の事であり、大体は一〜二万円が相場だ。売れっ子の女になると、その倍はするらしい。
店側も法の目を掠めて女たちに「副業」を斡旋する以上は、それぐらいの儲けは欲しい。また客の男らも多少なりとも普通に、例えば歌舞伎町あたりで日本人の娼婦を買うより高い金を出して遊ぶ以上は、いわゆる「保険」が欲しい。すなわち、もし仮に行為の最中に警察に踏み込まれても、「連れ出し料」を払っている以上は、あくまでも、これは客と女の自由な恋愛だ、個人の恋愛に店は関与していないと、口裏を合わせてくれるのだ。もちろん、白人の女が好きだという、金髪趣味というものに興味を持ってのことでもあろうが。
何であるにせよ、「Russian wind」で出す酒や肴がとにかく安いのはそのためである。店側は女たちへの副業の斡旋で利益を上げているらしかった。
もう一つ、店の奥には特別な「個室」がある。中にはちょっとしたベッドやソファー、テーブルなどの家具から、果てはバスルームまで備わっているらしい。
つまりは一部屋まるごとがラブホテル同様になっており、金さえ店側に払えば貸し切って使えるという話だった。むろん、外に女を連れ出すことなく、「すぐにも愉しみたい」せっかちな客用に用意されているものではあるのだろう。当然、値も張るはずだった。
(そういえばオレらが座っていた席の奥に確か)
その入口らしいドアがあったのを、角田は思いだしている。同時に角田が席を立つ際に小野はというと、自分の相手の女の肩を抱いて、そこに向かおうとしていた事も。
そうなると今頃はどういう状態か、誰でも想像がつく。
(お愉しみの、真っ最中だろうな)
店側にとって小野は、VIP客なのだろう。それだけは間違いない。
師の逢瀬の場面を図らずも想像してしまい、角田は思わず吐き気を覚えた。同時に何か無性に掻き立てられる衝動を覚えてもいる。そう、性的欲求であり、性欲だった。
たまらなく、女が欲しい。ひと言でそうとしか、言えない心境だった。
さっき店を出る前に、一人ぐらい連れ出すことを考えるべきだったか。後悔しかない。
前に女を最後に抱いたのは、何時だったろうか。基本的に女に不自由はしていない身なのだが、妙に心残りだ。
一度店内に引き返すか、それとも何人かいるセックスフレンドの女の内の誰かに連絡を取ろうか。歩き始めながら、考えていた。
その時だった。
後ろからハイヒール特有の足音が近づいてきているのに気づいた角田が、我知らず振り返る。後ろから足音とともに吹いていた風が、何ともいえない芳香を運んで来てもいたからだった。
ついさっきまで馴染んでいた香り、サムライウーマンの香り。その香りが思わず角田を振り向かせたのである。角田の眼に、白人女が映った。
「待ッテ下サイ」
香りの主、そう、ナターシャだった。
「どうしたんだ」
角田が驚きを隠しながら訊ねる。もっともこの時点で既に、大体の事情は察しがついてはいた。そして、ナターシャが次に発した言葉は正に、角田の予想通りだったと言える。
「小野サンニ、頼マレマシタ」
「頼まれた?何をだよ」
「アナタニ、今晩ツキアエ、ト」
「付き合うったって、今夜のオレは、アンタを買えるほどの金は持ってないぜ」
角田の言葉に、ナターシャが僅かに笑みを浮かべながら答えた。
「心配イリマセン、オ代ハモウ、小野サンカライタダイテマス」
あのスケベ狸め、余計なことを。
角田武はチラリと、小野に心中で毒づいた。だが、すぐに思い直してもいた。考えてみればもう、誰か知り合いの女に連絡しようとも、連絡のつくだろう時間を過ぎている。今から呼び出したとしても、本当に来る女が何人いるか。いないだろう。かつ、ここまで盛り上がってしまった劣情はもう、治まりそうもないとも言えた。
いいだろう。たまには師匠の厚意に素直に甘えるとしよう。少々癪だが、却って恩を売ることにもなるはずだ。それに、時には白人女を抱いてみるのも悪くはない。
「そういう事なら、良しとするか」
言うなり角田は、ドレスの上にコートを羽織ったナターシャの右肩を、背中から右手で抱き寄せた。またしても、サムライウーマンの香りが鼻をつくように広がる。同時にドレスの下で、ナターシャの豊かな乳房がユサリと揺れて女臭を放った。香水の香りとはまた別の得も言われぬ、雌の匂い。本能的に男をその気にさせる、絶対的な必殺性があった。ナターシャの肩を抱きながら、また歩き出す。ほど近くに、今晩の宿としているビジネスホテルがあった。一応は名目上、フロントを通さない各客室への直接訪問はNG行為になってはいたが、この時間ならフロントに従業員はいない。仮に気づいたとしても、角田は常連である。知らん振りで黙認するはずだった。
「愉しませてもらうぜ、遠慮なく、な」
ナターシャが角田の右肩に頭を乗せながら、角田に凭れるように歩いている。
さっきまで、「Russian wind」の店内で味わっていたナターシャの肌のスベスベした手触りが、すっかり掌に甦っていた。
下腹部が熱くなり、久々に火が点いた気分を自覚してもいた。
「覚悟するんだな。こうなったオレは、とにかくベッドの上では激しいぜ。壊されても、知らんぞ」