入門、潜(くぐ)る門、その前に関門
(参ったな)
長沢は、困っていた。困り果てているといっていい。長沢ほどの武術の達人が困りきっていた。
(これじゃあ上にあがれんだろうが)
口に出さず、心中で軽く呪った。その原因は彼の目の前で向かい合って立っている、一組の男女にあった。
上村勇吾と、今しがた長沢が道場に通した少女、仲村有美里の二人である。
もうさっきから十分ほども、向かい合って立っている。ひと言もお互いに言葉を発しなかった。
もっとも、違う点はある。勇吾は有美里に視線を据えたままだが、逆に有美里は視線を落としたままだ。何か言いたそうにはしているが、目を伏せたまま黙っている。
それが分かるだけに、勇吾も辛抱強く待っているようだ。ようだが、勇吾が見かけほど温厚ではないのは長沢もよく知っている。
(何か用があったから来たんじゃないのか)
長沢がそう口を開こうとした、その時だった。
「何か用があったんじゃないのか」
勇吾が尋ねる。まるで師の心中を量ったようだ。
有美里はというと、まだ下を向いている。
(これは、二人に話し合わせたほうがいいな)
長沢は、そう判断した。何となくだが、これは自分が立ち入っていい話ではない。そんな気がする。
先刻道場を出てすぐ、玄関のドア前に立っていた有美里とほとんど突き当りそうになった。
「何かご用でしたかな?」
問いながらすぐにピンときた。この前勇吾が話していたのは、この子だと。
「あ、あのぉ」
有美里が吃りながら切り出した。
「こちらの道場に、上村さんという人は?」
「ああ、今ちょうど、なかにいるよ」
答えながら長沢は、案内するかのようにドアを開けた。促すように、頷いてみせる。
入りなさい、という意味だと有美里は理解したらしい。黙って長沢の後をついてきた。
「勇吾、この前の子というのは、この子の事か」
尋ねながら道場に入ると、勇吾はもう長沢の後ろに目を向けている。答えるまでもなく、そうだと分かる顔になっていた。
「キミは、あの時の」
勇吾に聞かれて有美里は、コクリと頷いた。
無言である。あるが、目は勇吾を凝視している。よほど強い決意を伴う用があるに違いなかった。
にも関わらず、無言なのである。
「オレに何か?」
用でもあったか、というような顔で勇吾が有美里にさらに尋ねた。
ここで有美里が下を向いた。何やらモジモジしている。勇吾は不機嫌になった。有美里を見つめる眉間に皺が寄りはじめたのがその証拠だった。
オレに何の用だったんだ、そう聞いた顔が仏頂面になっていく。
(これは)
長沢が間に入ろうとした、その時だった。
有美里が意を決したように顔をあげた。
「あ、あの」
視線はまっすぐ勇吾に向けている。
「あ、あなたに、弟子入りしたいんですが」
吃りながらもキッパリと言い切った。勇吾の返事を待つように、勇吾を見つめたままである。
(な、何だって)
勇吾も長沢も一瞬、虚をつかれたらしい。どう言っていいか分からず、ポカンとしている。開いた口がふさがらない、まさにその状態になった。
いきなり朝早く人を訪ねてきたと思ったら、今どき弟子入りとは何だ。いくら何でも時代錯誤すぎやしないか?
長沢は言いかけたのを辛うじて呑み込んだ。勇吾が代わりに口を開いたからである。
「ここの事はどこで知ったんだ」
当然の疑問だった。あの日、つまり勇吾が有美里を内藤らの魔手から救ったその後、勇吾は有美里に何も告げずにその場を立ち去っている。状況が状況だけに、有美里も気まずかろうと思ったが故の判断だった。それ故に勇吾は連絡先などは教えていない。
もっとも勇吾が夕方に走っていた時、あの現場近くのバス停でスクールバスを降りたばかりの有美里が歩いているのを何度か見かけている。
後ろから追い抜いたこともあるし、すれ違ったこともあった。その度にチラリとお互いに一瞥するだけで、ことばを交わしたわけでもない。
「一度、追いかけました」
唐突な有美里の返答が、勇吾に思い出させた。そういえば一度だけ、待ち伏せてでもいたかのように有美里がバス停近くに立っていた事がある。どうやらその時、後をつけられたらしい。たまたまだろうと気にもとめていなかったが、迂闊だった。
にしても、こんな女子中学生がオレのロードワークについてこれたのか?だとしたら、相当なモンだ。もしかしたらオレ以上の天性のバネを持ってるんじゃ・・・。しかも、制服を着たままだろ?
勇吾が自問自答しているところに有美里が続ける。
「でも、結局、上村さんが早くて、ついて行けなくて」
何だ、そうだったのかよ。
「だから、調べたんです」
何だと?
「市内中の道場とか格闘技のジムで、上村さんの名前が出て来るところがないか、ネットで検索しました」
何ぃ、オレの名前を検索?
「それで、こちらの道場の師範代の名前が上村さんになっていたので、もしかしたらと思って」
もしかしたら、だと?人違いだったらどうする気だったんだよ。
「で、来てみた、と?」
それまで黙って話を聞いていた長沢が、勇吾にかわって口を開いた。
「はい」
「それにしても、キミ、かなり危ういな。もしも、だが、キミの捜していた勇吾じゃなく、勇吾がいると偽ってキミに何かイタズラしようとする輩にでも出くわしたら、どうする気だったんだ?」
「何となくですけど、そうはならない確信がありました。それに、ここで間違いないと思いましたので」
「何となくじゃあ、確信にはならんだろうが」
勇吾が珍しく、いらいらしたようにいった。
「随分と、しっかりした話だな。この前はたまたま、オレが通りかかったから良かっただけなんだぞ」
勇吾はもはや呆れたように、有美里を見ていた。そんなだから、あんな目に会うんだ。そう言いたげな顔である。
有美里は有美里で、もうまっすぐに勇吾しか見ていない。まるで恋する乙女の純情に似ていた。もっとも、有美里は年齢的にはたしかに乙女ではある。違うのは同意なしではあったが、経験済み、というだけだろう。
「そもそも、今どき弟子入りとは何だよ、弟子入りとは」
勇吾はおそらく、一番の疑問を口にした。
「何でオレなんだ?他にも色々いるだろう?」
「それは、上村さんが一番だって思ったからです」
「だから、何でオレに弟子入りするのが一番だと思ったんだ?オレが聞きたいのはそこだよ」
「それは、あの時に」
有美里は続ける。
「上村さんが、剣道だけじゃなく、色々できる達人だと思ったからなんです」
「あのな、達人なんてだいそれた評価を簡単にしてくれるなよ。オレなんかを達人といったりしたら、世の中達人だらけになっちまう」
「でも、ワタシからみたら十分にそうだと」
「それに、だ」
ここで勇吾は、有美里のことばを遮るように声を大きくした。反射的に有美里は言いかけたことばを飲みこむ。勇吾の目が、何もいわせないとでもいうような光を帯びていた。
「本当に達人と呼べるのは、ここにいる長沢先生くらいだよ。オレが知る限りではな」
「おいおい、達人だなどといわれちゃあ、オレだって困るよ」
長沢が苦笑しながら否定した。もっともそれはこの漢なりの謙遜だと、勇吾は知っている。だからこそ、敢えてツッコミは入れずにいった。
「でもオレは、先生には未だに勝てる気がしませんよ」
「そりゃあそうだろう。オレだってそう簡単に肩を並べられるようじゃ、立場がなくなる。後輩に追いつかれないように、オレら指導者も日々これ全て修業なんだよ。何しろより上の人たちから見れば、オレだってまだまだ悪いところや欠点はいっぱいあるんだからな」
長沢がそう言い終わるのを待ち、勇吾はふたたび有美里に目を戻した。
「と、まあ、聞いた通りだ。オレは少なくともキミが思ってるような達人じゃあない。ましてやオレだってまだまだ修業中の身だし、弟子を取るだなんてもっととんでもない話さ」
勇吾に言われた有美里は下を向いた。表情さえ、分からない角度になっている。
勇吾はさらに続けていった。
「だから、オレに弟子入りなんて話は無しにしてくれんか?キミがどうしてもウチの道場に入門したいというなら、いつでも受けつけるがね」
有美里の顔は、依然下を向いたままだった。
その場合はまず、こちらの長沢先生に弟子入りという事になるが。そう言いかけた勇吾は、有美里の顔の下を見て気づいた。
床にポタポタと、滴が落ちている。それが有美里の顔から滴り落ちたものなのは明白だった。
「キミは、」
勇吾は驚いていった。
「キミは泣いてたのか?」
もう、慌てていると言っていい。剣道やキックの試合の時には決して示さない動揺を、勇吾は示していた。元々、女の涙には弱い男である。まして相手がまだ中学生の少女では、何となく泣かせてしまった罪悪感がこみ上げてきた。決してイジメたわけじゃないぞ。
けど、これじゃ悪いのはオレじゃないか。
勇吾がそう喚きたくなった時、不意に有美里が顔をあげた。やはり、泣いている。目からポロポロと涙を流しながら、それでもまっすぐに勇吾を見据えているのだった。
泣き顔のまま、目をきつく閉じ、叫んだ。
「アタシはそれでも、上村さんに教えてほしいんです。それじゃあ、いけないんですか?!」
ふたたび目を開けても、まだ勇吾を見つめていた。
まだ泣いた顔のままである。
勇吾は完全にまいってしまった。困った顔で長沢の顔を見た。助けを求める気分だった。
「勇吾、どうやら、な」
長沢はニタリと笑いながらいった。
「この嬢ちゃんは、お前さんに武術を
習いたがってるんだ。剣道にせよ、他のプラスα(アルファ)にせよ、な」
勇吾は黙って長沢のことばを聞いている。
「オレが見たかぎり、お前さんの負けのようだ。ウチに入門する形は取るが、この子の師匠はあくまでもお前だぞ」
勇吾はもう言葉もない。黙って肯くしかなかった。
「良かったな、嬢ちゃん。たった今、弟子入りは受けつけられたぞ。オレが証人だ。そう思っていいよ」
「はい、ありがとうございます」
有美里はもう、泣いていなかった。さっきまでが嘘のように、明るい笑顔になっている。
勇吾の前に一歩進み出ると、頭を下げながらいった。
「よろしくお願いいたします、上村センセイ」
勇吾は曖昧に笑うしかなかった。
本当にいいのかよ、オレが師匠で?
顔をあげた有美里が、うれしそうにニコニコしている。その顔を見ながら、勇吾はまだ困っていた。