師と弟子と道場と女子
道場の入口、ドア脇に立派な筆書きで「清風館」の看板がかかっている。鉄筋コンクリート造りの三階建の建物の一階で、入口はドア一つ。一見すると道場には見えない造りである。
早朝の道場には清冽な気が満ちていた。
道場の中央に男が正座している。
上村勇吾であった。
上は筒袖の黒稽古着、下は同色の袴姿だが、よく見ると剣道着にしては生地が薄い。
これは居合用の稽古着である。勇吾はこれから、居合の型稽古を始めようとしていた。
すでに礼法と、腰に帯刀を済ませてある。
勇吾はその状態でただ正座しているだけだが、道場の中には凛とした澄み切った空気が張りつめていた。
澄み切った中にも、まるで引きしぼられた弓の弦のような緊張感がある。咳きどころかせき払い一つするのさえはばかられるような、開演前のコンサートホールの雰囲気に似ていた。
静寂をやぶった者はたちどころに切られる。見ているものがいたら、そう錯覚しただろう、その時だった。
勇吾の両手がさも合掌でもするかのように、静かに持ち上がる。それは一瞬で、静かに刀の柄に手がかかった。
鯉口が切られ、ゆっくりと抜き出しはじめる。かと思ったその時、一気に刀は引き抜かれていた。
豆が弾けるかのような、まさしく弦を引きしぼった弓から矢が放たれるように、切先が鯉口から真一文字に鞘走る。素晴らしい鞘離れの、抜きつけの一刀だった。踏み込みは右足。
さらに切先を左耳に沿って後ろを突くかのように、頭上に振りかぶる。この時同時に左膝は右足カカト近くにおくられており、振りかぶった切先は水平より下がってはいない。
そのまま左手が柄にかかり、間をおくことなく真っ向から切り下ろす。切り下ろしと右足の踏み込みのタイミングがピタリと一致しており、見事な「気剣体の一致」であった。
全日本剣道連盟によって制定された「全日本剣道連盟居合」、通称、全剣連居合の一本目「前」だった。勇吾はこの、全剣連居合の稽古をしていたのである。
全日本剣道連盟、それは明治の昔より日本の剣道界を束ね管轄してきた組織であり、剣道を修業する人間なら関わらずにはいられない組織だ。剣道の他に居合道と杖道も管轄下においており、俗に「全剣連三道」とも云われている。戦前はなぎなたも管轄下にあったらしいが、こちらは現在は「全日本なぎなた連盟」として独立しており、別の組織だ。
全剣連居合が制定されたのは1969年(昭和44年)のことであり、元々は剣道家の居合道学習用として制定されたが、皮肉なことに剣道家よりも、居合道の普及に伴う競技化で試合での優劣を競うための、いわば「居合道の試合」用として普及・発展してしまった経緯があった。
それは余談として、勇吾は全剣連居合の全十二本を次々に抜いていく。二本目「後」から順に抜き終え、早くも十二本目「抜き打ち」を終えようとしていた。
そして終わりの礼法。心地良ささえ感じさせる適度な緊張感のある、うっとりするような時間が終わった。
「うん、いいな。それだけできれば間違いなく、今すぐでも六段どころか七段も狙える」
立ち上がった勇吾の左から、声がかかった。道場には勇吾だけでなく、もう一人男がいた。その男がいたのは勇吾の左の奥、畳が敷かれた居間スペースの中だった。電気もつけず薄暗いままだったので、誰か他にいても気づかなかっただろう。
勇吾に声をかけたのは、彼の剣の師、長沢邦章であった。年の頃は四十代後半くらいか。若見えするのでもっと年は行っているかも知れない。あるいはもっと若いかも知れない、そんな顔だった。
背は勇吾より10センチほど高い。着古され味わい深い色合いの、年季の入った紺の作務衣を着ている。鍛えぬかれた体にフィットしていた。
「まさか、いくら何でもそれはないでしょう」
声をかけられた勇吾が苦笑して応えた。
「いや、オレがそう見る以上、間違いないよ」
「断言しますね」
「するとも」
「保証、されますか」
「する。オレが保証する」
参ったな、というように勇吾は頭を掻いた。この師は武道に関しては決して、世辞など言う男ではないと知っている。本音を言われていることが分かるだけに、妙にこそばゆい。
事実、長沢は全剣連三道全て、教士にして七段の腕前である。のみならず、全剣連中央へのパイプも太い。加えて様々な武術に精通しているだけに見る目は確かなものがあった。
「勇吾、お前さんが五段を取ったのはいつだったっけかな?」
「先生、どっちもついこの間の話ですよ。六段なんて、まだまだ先です」
勇吾のいう、どっちも、とはつまり、剣道と居合道の事だ。そのどちらも勇吾が五段に昇段したのはこの年の春であり、夏も終わりかけた涼しくなり始めのこの時期はたしかに、ついこの間、である。
「まだまだ、なんていってるとすぐに、その時は来るぞ」
「それはそうかも知れませんが、今のところはまだ、六段には興味はありません」
勇吾は正直に、穏やかに否定した。
長沢はというと、返事がそうなることが分かっていたらしい。勇吾に否定されてなお、おかしそうに笑っている。長沢の亡き父親が先代の館長だった頃からの付き合いであり、気心はお互いに知れているといえた。
「それに一部の偉い先生方は、オレの剣道修業への取り組みように、あまりいい顔はしていないはずです」
「たしかに、していないな。オレも色々、聞いてはいるよ」
「ええ、していません。剣道家は一途に純粋に、剣道修業にまい進すべきだ、という先生もいます」
「キックの事、だな」
「はい」
「まあ、お前さんは気にもしてないのは分かってるが、誰に何を言われても気にせず、自分の信じた道を貫く事だな。人には人それぞれ、違った取り組み方がある。本来の本分たる修業の目的さえ忘れなければ、剣道以外に何をどうやろうと自由なのさ。それこそ、空手だろうとボクシングだろうとな」
「はい」
「お前さんの場合、キックをやるのはその意味でも、オレはいいと思ってるよ。重要なのは、それを剣道にも活かせるかどうか、だ。オレが見たかぎり、勇吾はきちんとキックの練習で得たものを、剣道にも活かしているようだからな」
「ありがとうございます」
長沢はここでニタリと笑い、言った。
「だから、一部の頭のかたい年寄りどもになんか、言わせておけばいい。お前さんが結果さえ出していれば、考え方の狭いクソじじいどもも認めざるを得なくなる。極めて辿り着く境地ってやつは同じはずだからな」
勇吾はニコリとして言った。
「先生には、ご迷惑をおかけします」
「よく言うよ。本当にそう、思ってるか」
お互いがニヤリと笑った。そこで勇吾が言った。
「先生、久々に剣道の稽古をつけてはいただけないでしょうか」
「今、ここで、これからか」
「はい」
「いいな。たしかに、久しぶりだ。しかし、な」
長沢はすまなそうな顔をしている。
「そろそろ、上にあがる時間だよ」
「もう、そんな時間ですか」
「ああ。今日は約束があってな」
「それでは駄目ですね。」
勇吾も残念そうだった。この道場「清風館」が入っている三階建の建物は長沢の所有物件であり、一階が道場で、二階より上は長沢が経営する建設会社のオフィスになっている。長沢が上にあがる、というのは、仕事の時間という事に他ならなかった。
長沢は基本的に毎朝、仕事の前に道場で一汗流していく。朝5時には起床し、朝食や身支度を整えて自宅を出、6時前に道場に入る。週2回が長沢自身が主催し、集まった有志による剣道の早朝稽古であり、他は居合だったり杖道だったり。自分自身の稽古の時もあれば、今朝のように勇吾が姿を見せた時は勇吾に指導する。とにかく仕事の時間以外はほぼ、いつも道場にいる。
勇吾は勇吾で夜勤明けや出勤前の早朝に、ロードワークの後に時間が空いた日は稽古に顔を出す。最低でも週2回は、必ず寄るようにしていた。長沢がいれば剣道、いなければ居合の稽古をする。今朝は長沢がいたのに居合だったのは、長沢から要望されたからだった。
「勇吾、オレはこれから仕事だが、お前さん、今日の予定はどうなんだ?」
「今日は夜勤明けなもんで、明日の朝まで時間があります」
「じゃあ、もう少し稽古していくんだろ?」
「はい」
「分かった。鍵だけは、いつも通りに、な」
「はい」
長沢が言った鍵だけは、というのは理由がある。何しろ道場には会員各自に専用のロッカーがあり、中にはそれぞれの私物が入っている。勇吾の場合は予備の稽古着や稽古用の竹刀に木刀、さらには居合で使用する居合道用真剣「関住兼時」も
普段はロッカー内に保管していた。
ロッカーにも専用の鍵があり、愛刀を置いている以上は必ずかけるようにも勿論している。それだけでなく壁の一面には、木刀や模擬刀に混じって予備の真剣が何振りかかかってもいるのである。
もし仮に道場に何者かが侵入した場合、先ず真っ先に目にするのは壁の真剣であり、盗まれる可能性が高いのもそれらのはずだった。
長沢はこの事を言っていたのである。
その長沢が背を向けながら後ろ手を振り、道場を出て行った。いつもの事だがいちいち、じゃあな、などとは言わない。無論本当に出る時は道場に一礼はするはずだが。
勇吾も師の背中を黙って見送る。いちいち、ありがとうございました、とも言わない。師の背に一礼するのみである。
この付き合いの長い師弟にはいつも通りの、当たり前の習慣だった。もはや言葉にしなくとも分かるだけの信頼関係が成り立っているといえた。
「とりあえず、古流を抜いてみるか」
長沢がドアを開閉する音を耳にしながら、勇吾は呟いた。夢想神伝流の初伝十二本、一本目「初発刀」から抜いてみよう。古流の礼法に則って正座する。
気を鎮め抜き出そうとした、正にその時だった。
玄関のドアが勢いよく開けられる音が響いた。かと思えば次いで、つい先程道場を出て行ったばかりの長沢が足早に道場に入って来る。
「おい勇吾、この前お前さんが言ってた子は、この子か?」
勇吾は訳が分からなかった。分からなかったが、問いかける師の後方、道場の入口に目をやった。
果たして引き戸の陰から中を覗くように、女子中学生らしい少女が遠慮がちに立っている。
その目元のハッキリした、鼻筋の通った美貌に見覚えがあった。
仲村有美里だった。