勘違い男の権威失墜、その前段階はその序章
(ば、ばかな、こんなはずじゃあ・・・)
深沢は、息を切らせながら驚愕していた。
リングの内である。
上ではなく、内だ。
高くなっておらず、床と同じ平面上にあるからである。
PCK新川ジム。
上村勇吾や仲村有美里がキックの練習に通うキック・ボクシングジム。
日本チャンピオンの草刈大夢も在籍する、競技レベルの高さでは業界内でつとに知られたジムである。
その新川ジムの練習スペースの一角に、床上に置かれるように設えられたリングがあり、深沢がいま立っているのもそのリングの内側だった。
かなり息が上がっている。
一目でもう、バテていると分かる。
鼻からはわずかに、血が流れていた。
口唇も切れ、端から血がつたっていた。
顔がいくらか、腫れ上がって来ている。
ヘッドギアをつけていないせいだ。
だが相手との体重差があるゆえに、まだこの程度ですんでいたとも云える。
仮にここまでの体重差がなければ、とっくにK・Oされていただろう。
とりあえずまだ、ファイティング・ポーズを取って構えてはいる。
構えてはいるが、それだけだ。
先ほどからもう、手が止まっていた。
足も前に出なくなっている。
(何だよコイツ、この前とまるで違うぜ・・・)
構えた両手の間から、別人かと思いながら、相手を見ていた。
その構えの向こうで、冷静な目で深沢と向かい合っている人物。
こちらは息を乱さず、顔もきれいなままである。
上村勇吾だった。
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その男━━深沢賢治がジムに入って来た時、一番嫌な顔をしたのは、矢部と草刈だった。
リングの中でミット打ちをしており、ちょうど終了のブザーが鳴った時である。
バタンと音がして、入口の扉を押し開けながら深沢は入って来た。無言である。
一言も、挨拶すら発しないまま深沢は、ジムの内部全体をぐるりと見回していた。
(また来たのか、コイツ)
矢部は小さく、表情に出さずに舌打ちした。
前回の体験入会の際の、失礼を通りこした無礼な振る舞いは正直、腹に据えかねていたところだったからである。
「おい、アンタなぁ・・・」
矢部の代わりに草刈が口を開いた。
「いきなり挨拶もなしで、他人の庭の中に踏みこむのか?!」
問われて深沢は、ジロりとリング内を見返した。
「上村のヤツ、いる?」
矢部と草刈を交互に見やり、質問に質問を返す。
礼儀をまるで弁えていないと云えるだろう。
「・・・アンタねぇ・・」
草刈が苛立ちを隠さない顔で、リングの外に出る。
質問をしてるのはこっちだ。ナメてんのか、こら、とでも言いたそうな顔だ。
矢部がそれを察し、先に応える。
「今日はまだ、来てないよ・・・」
来てないがその前に、とつけ加えた。
「挨拶もしなけりゃ、ひとの質問には答えないわじゃ、こちらも歓迎することは出来んぜ」
「歓迎なんか、必要ねえさ」
「何だと?」
深沢の愛想のない返事に、草刈が気色ばむ。
「オレはまた、スパーさせてもらいに来たんだから。上村と、さ」
「何だってそんなにやりたがるんだ、勇吾とスパーを」
矢部の問いに、深沢はまた傲然と胸をそらして応えた。
「そりゃ、気に入らないからだよ、ぶっちゃけさ」
「気に入らない、だって?」
草刈が、はっきりと不快と分かる顔になった。
「アンタの態度こそ気に入らないよ、こっちこそ、ぶっちゃけ言うがね」
何様のつもりだ?そう言わんばかりである。
草刈はトレーニングウェアの袖で、額の汗を拭いながら深沢を睨んだ。
基本的には温厚だが、キックを馬鹿にされると鬼に変わる。
そういう男だ。
矢部もリングの外に出た。
「気に入らないのはまあ、同じ職場とはいえいくらでもあるだろうがな、人間だからね」
だが、とつけ加えて尋ねる。
「だからといって、勇吾とキックで勝負しようってのは、あまり利口とは言えないと思うんだが、本気で言ってるのか」
「ああ、本気だよ」
どこか人を小馬鹿にしたような表情を変えぬまま、深沢が応えた。
何を分かりきったことを、という顔であった。
「この前のスパーで、ヤツとは互角にやれると分かったからな。今日は絶対に、ブチのめしてやる。そう決めてきたんだよ」
「勇吾と互角?アンタが?」
と、矢部。
「誰を、ブチのめすって?!」
草刈が驚きの表情を浮かべた直後。
二人は顔を見合わせるなり、どちらからともなく、吹き出した。と見る間に、大爆笑し始める。
「な、何がそんなにおかしいってんだよ?!」
深沢がここで初めて、不愉快そうな顔になった。
その顔のまま、さらに続ける。
「バカにしてんのか、アンタら?」
深沢は朱がさしたように、顔を真っ赤にして声を荒らげた。どうやら本気で怒ったらしい。
このセリフで、それまで笑っていた矢部と草刈が、急に真顔になった。
「アンタこそ、バカにしてるじゃないか」
草刈がいえば、矢部がつなげる。
「どうやら本気で勇吾に勝てると思ってるようだがね、そういうのを、おめでたいと言うんだよ」
「何だとっ?!」
二人が諭すように言うのに対し、深沢は声のトーンが上がっている。
それに構わず、矢部は続けた。
「この前はあくまで体験入会ということだったし、アンタからたっての希望だったから、勇吾に相手をしてもらったのさ。言っとくがあの時、勇吾は実力の三十パーセントも出してないぜ」
いつもはどちらかと云うと寡黙な矢部が、珍しく多弁である。
深沢が何事か言いかけたが、草刈がそれを許さぬように後を受けた。
「その通り、かなり手加減してたのさ。それに気づかずに、勝手に自惚れてりゃ世話はない話だぞ」
「だ、誰が自惚れてるだとうっ?!」
「アンタだよ、他に誰がいるんだ」
矢部が深沢に、告げるように断言した。
「だから、おめでたい、と言ったのさ」
「あれは仮にも体験だからこその、勇吾なりの気遣いだよ。それが、手加減されてたのに気づかず勝手に互角にやれたと勘違いした挙げ句、今度は勝つぞ、とその気満々で来られたんじゃ、勇吾だけでなく、キックそのものをナメるな、という話だよ、アンタ」
矢部と同様、草刈ももう一度、自分の言ったセリフをまた口にした。
その上ではっきり、舐めるんじゃない、と言っている。
草刈も相当、怒りが湧いているようだった。
「それとも、どうだ?」
ここで矢部が逆に提案した。
「分からないなら、いっそのこと、オレらとスパーしてみるかい?言っとくが、こっちの草刈は日本チャンピオンだし、オレも引退はしたがこれでも一応、元日本ランカーだ」
「アンタらと、だとぉ?!」
深沢が明らかにバカにした目つきのまま、見返しつつ矢部に尋ねる。
「上村はいくらなんでも、アンタらほど強かねえだろうがよ」
「いいや、それがな」
草刈が、深沢の疑問を否定した。
「勇吾はこのオレと、互角にスパーするんだよ。仮にも日本チャンプのオレとな」
「・・・へえぇ・・・」
深沢が興味を引かれたように、表情を変えた。目に少なからず、何かを狙う光りがある。
「じゃあ、さぁ・・」
「じゃあ?」
矢部が応じる。
「アンタに勝ったら、オレは上村より強え、ってことになるのか?」
この深沢の問いに、
「何ぃ?!」
と眉を吊り上げたのは草刈。
「・・・おい、さっきから黙って聞いてりゃ何だ?随分とナメたことばかり言ってくれるじゃないか、キックを」
静かでゆっくりしているが、ドスの利いた口調に変わったのは矢部だった。
口調そのまま、質問を重ねる。
「本気で勝てると思ってるのか?勇吾にも、この草刈にも、そして・・・」
一旦、言葉を切った。
ジム内の練習生らが、ゴクリと唾を飲み込む気配があった。
「何より、キックに」
「ああ、思ってるよ。当たり前じゃねえか」
でなけりゃ、ここに来ねえよ。
事もなげに、深沢が答えた。
何しろ自分は「勇吾と互角にやれる」と思っているのだから当然と云える。
「き、貴っ様あっ!?」
ついに草刈が怒鳴った。
我慢が限界に達したのである。
「そんなに言う以上、相手になってやる。オレらに喧嘩を売ろうというなら、買ってもやろう。ただし・・・・」
何が起きても知らんぞ、死んでも、だ。
草刈が一気にまくし立てた。
こめかみに青筋が浮いている。
完全に切れる寸前になっていた。
「死んでも知らねえ?はっ、上等だよ」
深沢が、眉間にシワを寄せて言った。
「いいぜ、やってやるよ。上村の野郎をボコボコにするのは、アンタらをブチのめした後でにしてやるよ」
「・・・言ってはならないことを言ったぞ、アンタ」
矢部の目が据わった。
「言っとくが、それは逆にボコられる覚悟もあって言ってるんだな、ということになるぜ」
矢部が怖くなっている。目が、口調が、佇まいが、全てが怖い雰囲気になっている。
かつて同階級で実力派として鳴らした頃の顔に戻っていると云えた。
現役時代、対戦相手に対して試合中に度々キレては、相手を例外なく半殺しの目に遭わせた。
そのため「トルネード・ソウ」と恐れられ、対戦を嫌がる選手が増えたことで、日本タイトルに挑戦できるだけの試合実績が積めなくなった。結果、実力的には十分と言われながら、日本ランキング一位で引退せざるを得なかった男。
それが矢部であり、矢部壮亮という元キックボクサーだった。
「オレらも随分とナメられたもんだ」
「どちらから先にやりたいか、選べ。オレと矢部さんの」
矢部の怖い呆れ顔の隣で、草刈が選択を迫る。
「そうだよ、この野郎っ!!」
「言うに事欠いて、どこまでナメてんだ、コラぁっ?!」
周りでは練習生らからも、怒号が上がっていた。
「・・よぅし、じゃあ、先ず・・・」
アンタだ、と深沢が矢部を指差そうとした、その時。
「オレとやりましょうよ、深沢センパイ」
ジムの入口の辺りで、声が上がった。
その声に、ジム内にいた人間全員の視線が集まる。
矢部も、草刈も、深沢も。
練習生たちも、皆が一様にそちらに目を向けていた。
いつから、そこに立っていたのか。
いや、来ていたのか。
そこには、トレーニングウェアに身を包んだ、彼らの誰もがよく知る男が立っている。
上村勇吾だった。
勇吾がどのあたりから話しを聞いていたのかは分からない。
勇吾の傍らには、牧春香が所在無げに佇んでいた。




