過去と今と、未来は未だか今か
鉄板の上では肉が焼かれていた。
上カルビである。香ばしい匂いがそのまま、音を立てている。匂いだけでも、音だけでも旨いと分かる。
上村勇吾はトングを使い、カルビを何枚かひっくり返していた。
市内の焼肉屋の店内である。行きつけの店だった。このカルビとハラミが名物で、極上の肉を喰わせるわりに、安い事で有名な店だ。
勇吾の向かいには、体格のいい男が一人座っていた。同じようにトングと箸を交互に使いながら、自分で焼き上げたカルビをつついている。
「しかし、さ。何でまた今頃になってなんだろうな」
勇吾の向かいの男が、ビールのジョッキを豪快に呷りつつ言った。
「さあ、な。まあ大体、予想はついちゃいるがね」
応えながら勇吾がカルビを一切れ、口の中に放り込む。ついでビールを、同じように流しこんだ。こちらも豪快な喰いっぷりであり、呑みっぷりだった。
「真二だって、実はそうじゃないのか」
「まあな。オレだって一応、あの道場には長く身を置いてたからな」
自分で干したばかりのジョッキを見つめながら、男が言った。
阿部真二、これがこの、向かいの席の男の名だった。年齢は勇吾より、一つ下で、空手家である。腕前は実に、日本伝統派空手協会の五段。勇吾の親友と呼べる男だ。
高校時代にインターハイで、個人組手で準優勝、名門の駒拓大学でもレギュラーとして活躍し、実績も多数残している男だった。現在は日本伝統派空手協会の総本部で師範を務めながら、自身で起こした道場「錬義館」でも空手指導にあたっている。
「おおかた、あのクソ館長がまた、ろくでもない事を言いだしたんだろうさ。武のヤツを使ってな」
あのクソったれの考えそうなことさ。阿部は吐き捨てるように言い、店員を呼び出すボタンを押した。ビールのお代わりを注文するためである。
「真二もまだ、根に持ってるよな、あの時のことは」
「当たり前だよ、あの時のことは、絶対に忘れられん」
「本当にお互い、色々あったからな」
「そりゃあもう、あり過ぎだろう」
あまり思い出したくはない、そう言うかのように、二人の顔には苦笑が浮かんでいた。
「勇吾が道場を辞めることになったのを機に、俺も前々から考えていた独立を申し出たんだからな」
「正直、今でも思わんでもない。何だか付きあわせたようで、悪かったな、とな」
「だから、それは前にも言っただろ、悪く思うことなんか、一切ないよ。」
あの男、小野館長のやり方には、ずっとその前から辟易していた。阿部はまた断言しながら、カルビを口に運んでいた。
ちょうどそこで若い女子店員がテーブルにやって来たので、阿部が追加のビールを頼むのに合わせ、勇吾も追加を頼んだ。
「あの時は本当に、困らされたからな」
阿部が未だにぼやく理由、それは勇吾もよく知っていた。勇吾とて、そのやり口には呆れていたからである。
阿部は独立して「錬義館」を開く前、小野勇が館長を務める道場「修知館」で指導員を束ねる「指導部長」のポストにあり、少年部から、高校生以上の男女が対象の一般部までの指導に当たっていた。
勇吾が高校卒業後、剣道の幅を広げ、剣道に活かすためにと入門し、四年ちかく籍をおいていたのもこの「修知館」である。
元々が小学四年で空手を「修知館」で始めた阿部にとって、大学に入るまでは間違いなく、師匠といえば小野勇であり、道場といえば「修知館」だった。
そのはずだった。
しかし大学卒業を控えて、指導部長に就任したあたりから、小野の武道家らしからぬ独善的な行動や考え方が分かるようになってきたのだった。
まず、熱心に指導していた小中学生が、ある日突然、道場に来なくなる。
阿部が不思議に思い、道場生の子どもたちに、誰か理由を知ってるかと訊けば、大体の場合「辞めました」と答えられることが多くなった。当然辞めた理由も訊ねる、しかし誰も明確に答えられない。
ならばと子どもの自宅を訪ね、子どもの両親に話を聞いてみる。
すると返ってきたことばは、言い方こそ多少違え概ねつまり、次の一言で言えるものだった。
「あの館長の教えている道場で、これ以上ウチの子を習わせる気はありません」
そう、話をよくよく聞いてみれば、そうなるのも無理はなかった。
小野は道場の少年部の父兄と、度々トラブルになっていたのである。それも一家族ばかりでなく、何人もとだった。これは指導部長だった阿部にも一切、連絡されていなかったことだった。
「別にウチに無理して通ってくれなどとは頼みません。嫌なら辞めてもらって構いませんよ」
大体の場合、最後にはこういう風に言われたらしい。
これでは父兄にしてみれば、上等だよ、こんな道場はこっちから願い下げだ。なにも空手の道場はここだけじゃないんだ、となるのは当然といえた。
阿部がある辞めた子どもの父親とばったり、市内の居酒屋で行き合った時のことである。
「ウチの息子は空手が本当に好きでね、毎回楽しみにして通ってたんだよ。宿題もそっちのけでね」
場の流れから席を共にして呑むことになった、その時に言われたことばだった。
「けど、あんな館長のところじゃもうダメだから、諦めろって言ったらさ、泣かれちまってね。親としては可哀想なんだよな」
無理もない、それはそうだろう。阿部がことばもなく黙って話を聞いていたその時、その父親が言った。
「けど、阿部先生、アンタが教えてくれるなら話は別だよ。息子もあの館長は嫌いだけど、アンタになら空手を習いたいって言ってるんだ。オレだけじゃなく、多分そう思ってる人は多いはずだよ。だから、作っちゃいなよ、アンタの道場を」
その時は漠然と聞いていただけだった。だが、ずっと引っかかっていたこのセリフが半分以上、背中を押す形になり、阿部は大学卒業後、すぐに準備を進めて「錬義館」を起こしたのである。
「真二が辞めて独立すると申し入れた後がまた、色々大変だったよな」
「ああ、一旦は了承もしたし、道場の名前までつけてくれたクセしてな。道場開きが済んだ頃から、細かく何通も、理屈の通らない手紙を送ってくるようになりやがった」
「あの、お前の人生は嘘の人生だ、って文面だろ」
「そうだよ。毎回毎回、その一言は必ず書かれてたっけな」
「何が嘘なもんかよ。人生が嘘だらけなのはアンタの方だろって話だ」
「そうとも。そう返事してやろうと、何度思ったか知れないよ」
阿部がそこまで言った時、女子店員が追加したビールのジョッキを運んできた。
勇吾がグイっと呑む、それ以上に阿部がまた、一気に半分近くを呷るように呑む。
どうやら酔いがほどよく回り、阿部は同時に怒りがまた湧いてきたらしかった。
「何よりもシャマしたのは、だ」
阿部の呂律が、やや回らなくなり始めていた。ちなみに、シャマした、とは仙台弁で「困った」という意味である。
「ウチの道場開きの時のことさ」
「ああ、その時のこけら落としの組手稽古で怪我人が出た時だろ」
「そうだ。まだ門人がいない状態だから、こけら落としにはウチの子どもたちを行かせるからって言うんで、一応ありがたく、その申し入れを受けたんだけどな」
「そうしたら、子ども同士の組手がエキサイトし、顔面から鼻血まで出す事態になったんだろ」
「子どもとはいっても、小6同士だったからな。両方とも小さい頃からやってたから実際、下手な中学生より実力があった。しかも悪いことに、その日は」
「午後からのこけら落としに備え、修知館で午前中に稽古した、その時に」
「ああ、そこでヤラレた方の子が、午後からはそのお返しをしようと狙ってたのさ」
「それを、あの小野館長は、真二の責任だと言い出したわけだ。ここぞとばかりに、な」
「おお、そうとも。オレの管理指導の不行き届きだと、言い立ててきやがったのさ」
もう何度、この話をしただろう。阿部は我ながら、自分で自分にうんざりしている。しているが、言わずにはいられない。それは勇吾も分かっていることだった。勇吾とて、何度も聞かされた話である。
「全く、今思い出しても、言いがかりもいいところさ」
「真二も一度はそれで、看板を下ろそうとしたんだったよな」
「そうだ、あの時はさすがにオレももう、キレたと思ったからな」
「だからオレが言っただろ。ここでそんなことをしたら、また更に言いがかりのネタを与えるだけだぞ、って」
そう、阿部はこの時点で、「錬義館」から道場名を改称しようとまでした。だが、それを止めたのは他ならぬ勇吾だったのである。
「おう、今じゃ感謝してるよ、勇吾」
阿部はトングを動かし、焼けた肉を勇吾の皿に寄越した。自分にも取り分けると、ため息を吐きながらいった。
「だがオレがあの館長に本当に呆れたのは、実はその後だ」
「道場に習いに来てる子どもの母親と、不倫してるって噂になったんだよな。それについちゃオレも聞いてはいたよ。一線を越えたんじゃないか、ってのは耳にしていた」
「噂じゃなかった。オレが裏を取った限り、事実だったよ。あのどスケベ禿げ、よりにもよって、教え子のお母さんにまで手を出してやがったんだ」
「それで確か、真二も電話をもらったんだったよな、心配したらしい館長夫人から」
「ああ、噂はお聞きかと思いますが本当でしょうか、ってな。さすがに事実を告げるわけにも行かないから、適当にごまかしはしたが。あの奥様には、オレもお世話になったから、本当ですというのは忍びなかった」
仮にも武道を志すなら、身を慎めよな。そりや確かに、少しばかりやたら色気たっぷりな奥さんじゃあったが。阿部はそう言いながら、肉を口に運び、ビールを流しこんだ。
(そろそろ、お開きにすべきか)
勇吾は、阿部が酔い始めたのを見て取った。これ以上呑んだら、この男はもう、危険なレベルになると知っている。
そしてそれは間違いなく、誰かが地獄を見ることになるのも分かっていた。元々阿部は、酒癖があまり、いい方ではない。
「真二、その辺で酒はもう、ヤメといた方がよくないか」
「何だよ、勇吾。オレはまだ、酔っばらってないぞ」
「いや、それぐらいにした方がいい。お前さんはどうも、酔うと危険だからな」
「誰が危険だって?人を勝手に危ないヤツのように言うなよ。お互い様だろうが」
呂律は、変らずだ。回らなくなりかけていた。
「大体まだ、ビールしか呑んでないぜ。これから酎ハイ、最後は日本酒ニ合で締めようと思ってたんだぞ」
「そうはいっても、仮にも試合前だろ。そろそろ減量にも入らないと、だな」
「おい、試合は来月だよ。それまでには落とすよ」
「オレが心配してるのは、それだけじゃない。またこの間みたく、どこかで誰かと喧嘩沙汰にならんとも限らんからな」
「何だよ、オレがやられるとでも思ってんのか」
「バカ、逆だ。お前に伸された相手の面倒を、誰が見るんだ?この前なんか、お前に正拳一発でやられたヤツは、鼻が折れてたんだぞ。誰が救急車呼んだか、忘れたのか」
全く、少しは武道家としての立場も自覚しろ。仮にも、伝統空手じゃ有名選手だろが。
勇吾が阿部に、そこまで言った時だった。
「あのう、お話し中にすいませんが」
横から急に、声がかかった。勇吾と阿部が座っている席の横からである。
いつの間に?勇吾と阿部が二人とも、そう思ったほどの自然さだった。二人とも会話に夢中だったとはいえ、その気配にまるで気づかなかったからである。
そう、いつ席の横に来たのか、そこには男が一人、腰を屈めて立っていた。
屈んでいるせいではっきりしないが、背はけっして高くはない。恐らく、勇吾よりいくらも上に伸びてはいまい。
顔は、度の強そうな眼鏡をかけているために分からないが、年の頃四十前後くらいか。
決して、いわゆるイケメンではない。
髪も整ってはおらず、かなりボサボサだ。
これもかなりヨレヨレの、濃紺のスーツを着ていた。一見するとそこらの中小企業のサラリーマン風だ。それも、いかにも「仕事の出来なさそうな」タイプだった。
つまり、冴えない風貌の男だったのだが、その冴えない男が見た目ほど冴えないわけではないことが、勇吾と阿部にはすぐに分かった。
男が、その冴えないながらも一見柔らかい物腰の奥から、隠しきれない気配を漂わせていたからである。
「はい、何ですかね」
勇吾が答える。
男が話す。
「先ほどから、お二人の話しが聞こえてまして、つい、聞き耳を立てさせていただいてました。すいません、盗み聞きするつもりはなかったんですが」
口調そのものは、極めて穏やかである。
男の話しが続く。
「そこで、修知館とか、空手というキーワードが出て来たので、もしやと思いまして」
「なるほど、それで、何がもしやと?」
阿部が尋ねた。
「はい、単刀直入にお聞きします」
男の、気配が膨らんだ。表情は変えないまま、聞いてきた。勇吾をひたと、まっすぐ見ながら。
「あなたはもしや、上村勇吾さん、では」
「ああ、そうだよ」
勇吾が頷いた。
男はここで、ニヤリとした笑いを唇に貼りつかせた。そう、貼りついたという表現がピッタリの、不気味な笑みだった。
つぎの男のセリフが、勇吾と阿部に、はっきり正しかったと認識させた。自分の直感が、である。
「やはり、リアルバウターの上村勇吾さんでしたね」
ここで男の気配がまた、一層の膨らみを見せた。もちろん、膨らんだ気配が本当に見えるわけではない。だが、勇吾や阿部には、見えたとしか言いようのない気配だった。
「少々あなたに、お願いがありまして」
「それはどういうお願いで?」
訊ねる勇吾の顔にも、笑みが浮いている。これから始まる事態をまるで、愉しんで
いるようにすら見える笑みだった。
その顔を見て、男が、低い声でいった。
「無水無月流、早川新甲、立ち合い所望」
男の、早川の見える気配は、見えるままだった。
その気配とは、一言でこう呼べるものだったのである。
すなわち、殺気だった。




