お前も、やりあいたいのか?オレと
白い風景だ。田園地帯である。どこまでも、白い。
霧である。どこまでも深い霧である。まるでこの世の白という白の基本というべき色合の白い霧である。
この白さからしたら、女の柔肌の色などまだ、恐らく濃い。
上村勇吾は、その白い田園地帯のなかを走っていた。
この季節、東北地方の片田舎、それも仙台から北に車で一時間強のこの辺りでは、朝晩の気温差が激しい。特に近くに川があることもあり、早朝には霧がつきものである。
視界は悪く、一種不気味ですらある風景だったが、勇吾はこの時期の早朝の、霧の中のロードワークが嫌いではなかった。
警備員という職業がら、日勤もあれば夜勤もある。走るのは当然、日勤の出勤前か、夜勤明けに限られた。
そのどちらの場合に走っても、気分がいい。気持ちがいいのである。
勇吾は剣道家だ。剣道家だが、アマチュア・キックボクサーでもあった。
清々しい朝の空気の中、走り、時々途中でシャドウを繰り返す。ジャブからワンツー、右ミドルキックから左ハイ、更に空手でいう右上段後ろ回し蹴りへとつなぐ。
勇吾の得意なコンビネーションであり、シャドウの決めパターンだった。
実際にこのパターンで、キックはアマで2勝している。
いつの間にか、いつも通る建物の脇を通り過ぎようとしていた。
地元の人々が「米麦」とよんでいる農業法人、「諸角米麦生産組合」だった。
建物の脇に路上駐車する形で白いカローラが停まっている。「相模」ナンバーだ。勇吾の記憶が正しければ、ここ二、三日ずっと、ここにいる。
米麦の取引先かと思い通り過ぎようとしたその時、白いクルマの先で明らかに別の白いものが動いた。霧ともまた違う白さだった。
「上村勇吾だな」
その白いものは、はっきりわかる声音でそう、勇吾に問うてきた。太い、その気になれば十分ドスが利くだろう声である。
「あんたは?」
肯定する代わりに勇吾は、遠山の目付で相手を観察した。背が高い男だった。180センチは下るまい。体重も100キロ前後はありそうな、一目で鍛え込まれていると分かる体型である。
フルコン系の空手家が着るような道着を着ていたが、左胸に所属先の名が刺繍されていない。
通常、空手家は所属先の名前を道着の左胸に刺繍するものだが、この男はしていなかった。
対する勇吾はといえば身長165センチ、体重60キロほどだ。
一見すると、決して屈強ではない。むしろ華奢にすら見える。それはこの空手家と比べると、正に当てはまる言葉があった。
正反対、このひと言に尽きるだろう。
「三ヶ月前、ここでお前に敗れた空手家がいただろう」
空手家は、浅黒い顔で言った。霧の中でもよく分かる顔色だった。
「あれはアンタの知り合いか?」
「同門だ。覚えていたのか?」
「地元で挑まれたのは、あれが初めてだったからね」
勇吾はさして驚きもせずに応えた。勇吾にとってこういうやり取りは今や日常茶飯事で、最近ではやや、麻痺してきている。
「あの男はあの後、どうなったんだ?」
「死んだ」
今度は勇吾の顔にはっきり、驚きの表情が浮かんだ。基本的に芸能人にいてもおかしくない二枚目だが、したたかに苦汁を飲んだ顔になった。
「死ぬほどのものではなかったはずだ」
「それはお前の判断に過ぎん」
空手家は無表情で構えをとった。隙がない。両腕は上半身を守りながら、膝は適度に弛められており、いつでも飛びかかれるよう力が溜められている。
「まさか、もう始まってるのか?」
「こちらはそのつもりだ」
「待てと言っても、待ちはしないか?」
「無論だ」
男は勇吾の言葉を、それ以上聞く気がないようだった。
「もう三ヶ月も待ったのだ」
浅い呼吸のまま、男は言い切った。
「親友の仇、取らせてもらう」
言葉と同時に男は、右足を跳ね上げた。
蹴るためではない。地面を蹴り上げたのだ。田んぼ道の中は舗装などされていない、砂利道である。当然、石ころだらけであり、男が蹴り上げた地面から、瞬間
無数の石が舞い上がった。
勇吾は読んでいたように、冷静に男の左側に回り込むように足をさばいた。
キックというより、長年の剣道修業で身についた足さばきである。
「せあっ!」
裂帛の気合いと共に、男の左ハイキックは勇吾の顔面を捉え、なかった。
更にそれを読んでいた勇吾が、回り込むと同時に腰を沈めて、左ハイキックに空を切らせたのである。
「ちぃっ」
舌打ちしつつ男が左足を降ろすのと、勇吾の上半身が伸びるのが同時だった。
「しっ!」
低く短い気合いで、勇吾の右の掌打が男の顎を真下からかち上げた。空手でいう掌底である。同時に右足を踏み込みざま、男の軸足たる、右足を払っていた。
果たして男は、見事にひっくり返されて、地面に背中から叩きつけられる事になった。
辛うじて受け身を取り、起き上がろうとしたその時、顔面目がけて何かが降って来るのを自覚した。
次の瞬間、顔面に強烈な衝撃を感じて、男の意識はそこで途絶えることになった。
(顔を、踏まれたのか)
男が薄れゆく意識の中で悟った時、勇吾はもう何事もなかったように、霧の田園地帯の中を再び走りはじめていた。
慌ててはいない。目もくれない。