07 それらの全てを私は危惧する
――くっだらねえなあ!――
口にこそ出さないものの、デュアンナ・オイホルストの表情はそう言っている。眉間にシワを寄せながら目を吊り上げて、イライラの頂点に達している彼女は、その表情からだけでなく、鼻息や怒り肩や石畳を叩きながら闊歩するその歩幅までもが、彼女の燃え上がる感情を表現している。それはまるで加速を始めた蒸気機関車のスタートダッシュだ。
王都ラーヘンは珍しく霧にけむっている。出勤のために街は労働者で溢れているのだが、徒歩や自転車に乗る人々が情緒をかき消すように薄霧を弾いては霧散させている。
北に位置するジトー湾から冷たく湿った風が流れて来ていたのか、すくすくと育ち始めた若緑の農作物たちも葉についた朝露に喜ぶ……そんな王都の中心で、デュアンナは怒りに怒りながら出勤していた。
「おはよう御座います少尉、今日はご機嫌斜めですね」
デュアンナの背後から声をかけて来たのは副官。トゥランヘイム王国近衛騎士団、軍務部、警務課第二班に所属するディーター・バルデン一等軍曹。デュアンナの副官である。
「おはようバルデン軍曹、今朝は霧のせいか涼しいな」
湧き上がる怒りを罪の無い部下にぶつけないよう、頬を引きつらせながらも笑顔で挨拶を返す。すると軍曹は仰る通り涼しいですねえと迎合するのだが、彼女の荷物に注視する――左手に持つ小さな紙袋が気になったのだ。
「珍しいですね、今日は店で食べて来なかったのですか?」
デュアンナは近衛騎士団本営に通勤する際、メインストリートに隣接された露店街で朝食を済ませており、彼女が美味そうに朝の食事を済ませている光景を傍目に出勤している。つまり彼女の後塵を拝しているこの状況は、彼女がしっかりと朝食を摂っていない事が伺えたのだ。
(少尉はお気に入りのホットドッグスタンドでいつも同じ時間に食事している。唐辛子入りソーセージドックに、オニオンとピクルス鬼盛りのスペシャルを仁王立ちで美味そうに平らげ、そして冷ましておいた人肌のコーヒーを一気に胃に流し込んで満足顔。何か至福の時間を邪魔したら怒られそうだし、挨拶しないで通り過ぎていたんだよね)
上官であるデュアンナのプライベートに配慮しているからこそ、その日常に起きた些細な異常に気付くバルデン。さりげなく気を利かせるあたりは、なかなかに出来た副官である。
「最悪だ、最悪だよ軍曹」
「何が最悪なんですか少尉、今日に限って朝食がお気に召さなかったのですか?」
「私が食事にあれこれ言わないのは君も知っているはずだ。……とうとうアイツに会ってしまった。あの噂の人物と接触してしまったんだよ」
ガツガツガツ!と、石畳をブーツの踵で叩きつま先で跳躍して行くデュアンナは、これ以上無いくらいの広い歩幅で猛進し、バルデン一等軍曹はササササ!と石畳を低空飛行するように短い歩幅で追随して行く。
「……今年度、新たに創設された教育隊。その責任者であるシュライフマイサー大佐に見つかったんだよ」
彼女の言う教育隊とは、近衛騎士団軍務部教育隊。近年どんどんと『職業騎士団員』の増えたこの組織において、王国の名誉と品位を保つため職員を指導・監督を施す部隊の名称であり、言ってみれば学校の風紀委員会のようなものである。
シュライフマイサー大佐とは、その教育隊の責任者であり、地方の没落貴族の出であると言う経歴以外は謎の人物ではあるのだが、近衛騎士団員の目につく行動全てに怒りと嫌味を持って指導を施すと噂の、面倒くさい人物らしい。
「近衛騎士団員たるもの、大衆に混じって立って食事するとは何事か!自分の置かれた立場を認識し、品位ある食事と食事方法を選びなさい!……つまりナイフとフォークを持って、上等な食事処で優雅な姿で食べろと一喝されたのさ」
――それはそれは災難でしたねと、肩を小刻みに振るわせて苦笑するバルデン軍曹。だがデュアンナはシュライフマイサー大佐から受けた叱責の全てを副官に吐露した訳ではなく、何か歯に物が詰まったかのような話しぶり。だが目の前の副官こそが自分にとって一番頼りになる人物なのだと再確認したのか、衝撃的な言葉をポツリと呟いたのだ。
「シュライフマイサー大佐がな、私に向かって言ったんだ。……だからミケリ民族以外は心置けないんだと、近衛騎士の栄誉が黒髪の蛮族に穢されてはかなわん!とな」
この言葉でバルデンの表情がガラリと変わる。
普段はそれこそ平々凡々で「どこにでもいる青年」「群衆に紛れると何処にいるか一切分からない普通の人」と、デュアンナから揶揄されるのだが、裏を返せば感情が表情では読み取れない謎の人と言う真理に辿り着く。つまり腹の底が見えない深慮遠謀の人物だと評価されているのだ。
そんなバルデンが表情から一切の余裕を排除させて、瞳に凶大な殺気を含ませるのだから、デュアンナが驚かない訳がない。――共感の怒りもあるだろうが、こんな表情も見せるんだと言う驚きも含まれている。
「少尉、そいつが貴族崩れだか縁故採用だか知りませんが、民族差別はトゥランヘイムの栄光に泥を塗る汚れた思想かと判断します」
「ああ、だから私は立腹しつつも、怒りのやり場に困った挙げ句に、しゃかりきに歩いてる。やり場の無い怒りなんだ、わかるな?軍曹」
「本来ならば、私の上官を侮辱する輩など、その日の内に死体安置所で涼んでもらうのですが、少尉がやり場の無い怒りと仰るならば、致し方ありません」
結果として彼女の怒りを軍曹に伝播させた事で、幾分気持ちが晴れて来たのかも知れない。それが証拠に、デュアンナは歩幅を狭めて普通のペースへと戻したからだ。
だが、彼女の表情は晴れない。この国には全く関係ないはずであった民族差別と言う概念が台頭し、それを目の当たりにしてしまったショックもあるのだが、それがあくまでも氷山の一角である事を知っていたからだ。そしてそれが今まさに暗雲となって王国を包む可能性、考えたくもない迫り来る危機に思いを馳せる表情であったのだ。
「軍曹、一度しか言わんから心して聞け。今朝の民族差別発言もそうだが、近年の近衛騎士団は逸脱している。もはや王と王族の護り手だけにとどまらずに【蠢いて】いる」
――デュアンナは続ける――
我々などの必要最低限の一般登用ならともかく、近衛騎士団は武装組織を編成しようとして一万人にものぼる一般兵士の募集を始めた。これはもう軍隊だ、近衛騎士団ではない。そして軍隊を作ると言う事は、ぶつける相手がいると言う事だ。
この黒い制服の事、そして軍隊編成の事。更には教育隊制度を導入して思想教育まで始める始末。その教育隊もゆくゆくは職員だけでなく国民に向かっても、啓蒙活動を行うそうだ。
「それらの全てを私は危惧する。理解出来るか?ディーター・バルデン一等軍曹」
「私は少尉ほど学がありません、ただ王国と王室に対する忠誠の誓いは、間違いなく少尉を経由して責任を果たしているつもりです。少尉がそれらを危惧するからこそ、あの少年を迎え入れるのですよね?」
「そうだ、彼がやって来るのは今日。我々は新たな抑止力を手にする事になる。そう言う力を持っていて欲しいと願うよ」
「ならば私も願います。早く会ってみたいものですね、レイジ・トキに」
デュアンナはその名詞を耳にして口角を少し上げる。
それは世の中を俯瞰に見詰める、知ったかぶり野郎のいやらしいニヤケ笑いではなく、何かが劇的に変わる予感を素直に喜ぶような、爽やかな笑みであった。




