29 作戦行動開始 前編
大陸歴 二千三百六十五年
トゥランヘイム王朝歴 九百四十三年
八の暦 二十三日
満天の星に照らされている、王都ラーヘンの閑静な高級住宅街。王国に務める高級官僚の官舎や、地方貴族の別荘・別宅が並ぶこの地区が何やら普段と違う。時間は二十二時を過ぎようとしているのに、落ち着きを見せる事無く騒々しい。
――この閑静な高級住宅街の中心とも言うべき噴水広場、その外苑を沿うように東西に伸びる大通りに面し、他の集合住宅や豪華な邸宅の中でひときわ目立つ大きな館が、その騒々しさの原因。周囲を背の高い鉄柵で囲んだ『ハデルムント公国領事館』を中心に、辺りは異様な空気に包まれていたのだ。
今宵は週の中日で、単なる平日の折り返し地点。いくらエグゼクティブな階級の人々が住んでいるこの地区であっても、この時間帯になればほとんどの家屋が灯りを落として深い眠りにつく。だが今日は違う、それが騒動の大きさを物語っている。普段ならば宵闇に包まれるはずのこの地区が、窓の中から放たれる灯りに照らされたままなのだ。――その原因がつまり、ハデルムント公国領事館にあったのだ。
トゥランヘイム王国との関係上、全権大使を置く大使館を設置する事は叶わないものの、その豊富な財力を持って贅沢な領事館を構えるに至ったのだが、その立派過ぎる正門前と、館を挟んで反対側に設けられた裏門の前には今、漆黒の軍服を着たトゥランヘイムの兵隊たちに囲まれており、領事館は完全に封鎖された状態となっている。もちろん外交特権に対する配慮は為され、領事館の敷地内に一歩も踏み込む事はしていないものの、この謎の兵隊たちによる威圧行為で街は騒然となっていたのである。
「何だ、何が起きてる?」「こんな時間に?」「えらく物騒だね」と、近隣の住民たちは眉をひそめながらカーテンの隙間越しにそれを見詰めており、領事館に住む職員や家族すらも、その異様な光景に息を飲み目を見張っていた。
領事館の正門前、そして裏門には、おおよそ三十人ほどの兵士たちが整然と横一列に並んで、閉ざされた門を凝視している。まるでそれはこれから始まる「何か」のために、息をひそめて機を狙っているかのよう。肩から魔装小銃をピンとぶら下げ、ヘルメットも被っている。いくら見慣れぬ漆黒の軍服を着用しているとしても、ここはまごう事無くトゥランヘイムの王都。『ハデルムント公国に対して軍隊が動いた』事を予感させる、非常に剣呑な雰囲気を醸し出していたのだ。
ヒリついた空気に支配され、それこそ嵐の前の静けさを具現化したような領事館と領事館周辺であったが、ゼンマイ式の振り子時計が二十二時を過ぎた頃、状況が劇的に変わる。――二つのヘッドライトが煌々と辺りを照らし、大通りの石畳を勢い良くパタパタとタイヤで鳴らした黒塗りの魔装車が、この公国領事館前でキュッと停止したのである。
「諸君、お役目ご苦労!」
正門を封鎖している兵士たちの前で車が止まるや否や、凛と張った女性の声と共に三人の男女が降りて来た。兵士たちと同じ軍服をまとってはいるが、ヘルメットを着用してはおらず、星明かりが反射するほどに磨かれた『つば』の軍帽だ。
「オイホルスト少尉、お待ちしていました!」
そう叫びながら、正門を封鎖していた兵士たちの列から指揮官らしき若者が一歩前に躍り出る。王国近衛騎士団王都防衛隊のシェラド・ベランシェ少尉がその人なのだが、車から降りて来た三人とはつまり、近衛騎士団軍務部警務課第二班のデュアンナと副官のバルデン軍曹、そしてレイジの事である。
「ベランシェ少尉、お待たせして申し訳ない」
「こちらは手はず通り、配置は完了しております」
デュアンナもベランシェも同じ階級ではあるものの、作戦指示部門と実践部隊との差がある。ベランシェはその差に何らの引け目を感じる事無く、凛々しく敬礼を捧げ、デュアンナもそれを笑顔で返す。既に二人は打ち合わせを充分重ねてあるのか、一瞬の迷いもなくその足を正門へと向けた。
「イツァーク曹長」
「はっ!」
「これより“キツツキ作戦”を開始する。作戦行使の承認宣言を頼む!」
「了解しました!」
兵士たちの隊列を前に直立不動を維持していた曹長は、ベランシェ少尉に呼ばれるとすぐに彼の元へと駆け付け、デュアンナとベランシェを恭しく見詰めながら軽快に軍靴の踵を鳴らして敬礼し、まるで選手宣誓のように声を張り上げた。
「近衛騎士団警務課第二班及び、近衛騎士団王都防衛隊・第六独立展開小隊により、これより“キツツキ作戦”を開始する!指揮はデュアンナ・オイホルスト少尉及びシェラド・ベランシェ少尉の合意に基づき、オイホルスト少尉を指揮官と認めるものとする。以上、第六独立展開小隊指揮官補イツァーク・ザルチェフ曹長がこれを承認します!」
『敵』を目前にしてこの騒ぎ……この人たちは一体何を始めたんだ?と、首を傾げながらそれを見詰めるレイジ。呆けた彼の雰囲気に気付いたのか、隣り合わせたバルデン軍曹が彼に身を寄せて耳打ちする。
「宣戦布告の無い非正規作戦、つまり外国勢力に対する秘密作戦はね、二名以上の下士官による作戦指揮と運用で行われ、準下士官の承認宣言が無いと成立しないんだよ」
「敵の目の前でこんな事やってて、何か馬鹿馬鹿しくないか?」
「形式や儀式ってのは一見無駄に見えるが、必要な局面ってのもあるのさ」
口元にニヤリと笑みを浮かべるバルデン軍曹が、その言葉の最後に『ディルゼル村虐殺事件』と名称を付け加えた時、それらはデュアンナの作戦開始の号令にかき消されてしまった。とある地域の国境線上に存在した村が、精神を病んだ下士官の誤った判断により発生してしまった、トゥランヘイム王国史上最大の忌まわしい事件。いずれレイジもこの事件の悲惨さについて身をもって知る事となるのだが、いずれの話が今現在注目される事は無い。彼はそれを脳裏にしまい込みながらデュアンナの背中を追うように、前へ前へと地面を蹴り始めた。
……なるほどな……
独立小隊に露払いを頼みながら領事館正門に向かうデュアンナたち。その中で彼女の背後の守りを任されたレイジは、バルデン軍曹が何を意図して形式や儀式について話したのかが見えて来たのか、腹の底で一人納得しながらうなづいた。作戦実行が近付けば近付くほどにデュアンナの苛立ちが目立っていたのは、この別部隊との合同作戦が起因してるのではと考えたのだ。
新興マフィア『ディアーボ』が、この千年王都ラーヘンにおいて麻薬の密売を始めると言う、許されざる事を始めた。調べてみるとこのディアーボなるマフィアはハデルムント公国と密接な繋がりがあり、麻薬の売上金の一部が上納金として、公国に納められていたのである。窓口はハデルムント公国領事館、具体的な人物は副領事のエックハルトと、参事官の二ランディルである。
昨日まで……昨日までのデュアンナは、エックハルト副領事と二ランディル参事官を抹殺すると息巻いていた。文字通りの暗殺であり、王都を麻薬汚染させた事への具体的な報復を意味していた。だが実際に当日となった今では、このターゲット二人に対して具体的な発言の一切をトーンダウンさせ、過激な発言を飲み込んですらいるのだ。この異変にレイジが気付かない訳が無く、そしてその気掛かりが、バルデン軍曹の補足説明によって明確に見えて来たのである。
(デュアンナは元々、本気で怒っていたんだ。王都が麻薬に汚染される事態に胸を痛め、その元凶を抹殺しようと考えていた。だが形式や儀式がそれを邪魔したのか)
そう、レイジが思考の羽を伸ばして出した考察は、彼女を取り巻く真実に一番近かったと言える。
いくら警務課第二班が独立部隊であるとしても、抱える事件によっては内容を秘匿せずに、上層部への報告が欠かせなくなるケースもある。
ディアーボの背後にはハデルムント公国が控えていると言う、対外作戦もそうなのだが、公国の領事館職員が事もあろうかトゥランヘイム王国国軍の一部の幹部にワイロを送っていた事が判明した以上、もはや近衛騎士団内で内密に処理出来る範疇を超えてしまったとも考えられる。
――だから強がってはいても、彼女は形式や儀式と言う名の足かせをはめられたのだ。独走して国家間のバランスを崩さないように――
忸怩たる思いでいるだろう
いちいち行動の制限を加えて来た上層部を腹立たしく思っているだろう
王国国軍から近衛騎士団に圧力があり、その結果彼女は上層部から屈辱的な命令を受けたかも知れない
デュアンナ本人の背中はレイジに何も伝えては来ないが、レイジは彼女の心中を察しようとしている。それは即ち、レイジにとって彼女が単なる保護監督者役である以上に、心中を慮る関係性に変化しつつある事を意味していたのだ。
だが、存外にもデュアンナ・オイホルスト本人は、そんじょそこらの圧力などに、簡単に屈するような人物ではなかったのかも知れない――
それが証拠に、彼女は領事館の正門にたどり着くや否や、懐から立派な羊皮紙を取り出して両手で広げ、天を貫くような凛とした声で、高らかに声を張り上げたのである。
「ハデルムント領事館の者ども、良く聞けい!我らはトゥランヘイム王家守りし王国近衛騎士団である!此度は王都に蔓延している麻薬の取引に関して、ハデルムント領事館付き職員であるエックハルト副領事と二ランディル参事官に麻薬組織との癒着の嫌疑がかかった!領事館は速やかにこの二名の身柄を我ら近衛騎士団に差し出すべし!これは国王陛下の勅令、繰り返す!これはトゥランヘイム王国国王バーナッド・アーネム・トゥランヘイム六世陛下よりの勅令である!」




