26 夢喰い
――真夜中の王都アーヘンを駆け抜ける一匹の獣がいる。
街灯の明かりの元に姿を現す事は無いが、路地裏や石造りの家の際を軽快に駆るその姿は犬や猫ではない。そしてその影は獲物を狩るようなランダムな動きをする事無く、一直線に駆けて行く。それは間違いなく、この獣が何かしらの目的を胸に、目指す場所に向かって一心不乱に駆けて行く様だ。
暗闇を進むその影は、そのシルエットだけを見ても犬猫でないのは明らかなのだが、どう見ても猪。それも大人の猪ではなく、『瓜坊』のようだ。
まるでゆで卵のような「つるん」とした形状に、短い手足を生やしたようなシルエット。その物体はテケテケと忙しく手足を動かしながら、やがて一軒のアパートへと入って行った。
「やあ、おかえりヤシュート。ずいぶん時間がかかったね」
石造りのアパートの階段を開け上がり、最上階である三階の一室に飛び込んだ瓜坊は、声をかけて来た人物の元へと歩み寄り、ぴょん!とジャンプしてその者の膝へと乗った。
テーブルの上に置かれたカンテラが、紅い炎を踊らせている。その弱々しくも暖かい明かりに照らし出されていたのは二人の人物。瓜坊を膝に乗せているのはホビット族の少年で、テーブルの反対側に位置するのは高貴な雰囲気を惜しげもなく発しながらも、穏やかに佇む貴婦人。二人ともこの王都の下町……つまり労働者の町には場違いな空気を醸し出してはいるのだが、彼女らにはそれ相応の理由があった。
『ハデルムント公国の息がかかっていると思われる新興マフィアのディアーボ。その拠点を見つけ出して監視し、人物構成を探る』
トゥランヘイム王国近衛騎士団、軍務部警務課第二班からの依頼を請けた、特殊傭兵団シグニス・ブラザーズの構成員であるアントニーナ伯爵夫人と、ホビット族の少年ハンネスが、このアパートの一室を監視小屋として利用し、諜報活動を行なっていた。
両の眼球が真っ白な伯爵夫人は人知を超えた『第三の眼』で、そしてビーストテイマーの素養が高いホビット族の少年は様々な動物を使役して、深夜にもかかわらず人知れず内偵調査を行なっていたのである。
「あらあら、あなたのヤシュートはひどくご機嫌のようね。美味しい夢にありつけたのかしら?」
「この子はこの前から、レイジが気になるって言ってたんですよ。どうやら成果はあったみたいだね」
伯爵夫人の質問にそう答えながら、ハンネスは膝の上のヤシュートを殊更撫でてやる。気持ち良さそうに目を細めるヤシュートだが、よくよく見ると猪の鼻とは言えないほどに鼻が細長く伸びているではないか。まるで象のような細長い鼻、もはやそれは猪でも象でもなく、魔獣の類いではないかと推察するほどである。
……ぶももも、ぶももも……
長い鼻を鳴らしながら、ヤシュートは獣の言葉で何かを伝える。するとハンネスは含むところの無い笑みを浮かべて、伯爵夫人にこう話したのだ。
「やはりレイジは毎晩悪夢を見てたみたいですが、根は深そうです」
「根が深い?……彼は懲罰大隊時代の環境に、負けず劣らずの経験をしていたと言う事でしょうか?」
「そうですね。そう言う事になりますが、ヤシュートが幾分和らげられたと言っています」
「あら、それならば安心ね。あの子からは本当に綺麗なキルリアンが出ているから、将来が楽しみなのよ」
「僕としては、一番下っ端の新入りが僕じゃなくなったって事が重要です。レイジには頑張って続けてもらわないと」
「あらあら、そんなに志が低いと、あなたの友達にも笑われるわよ」
伯爵夫人がクスクスと笑いながらハンネスの友人を見詰める。そう、ヤシュートと言う名のこの獣、その正体は猪でも象の子供でも無く『獏』。睡眠中の夢を喰らう魔獣、悪夢を喰う縁起の良い獣として語り継がれて来た、幻の獣である。ヤシュートは以前よりレイジの夢の質つまり『匂い』が気になっており、ハンネスと伯爵夫人がこの下町に拠点を構えた事を利用して、就寝中を狙ってレイジの元を訪ねていたのである。……もちろん、密かにである。
毎夜眠りにつくと脳裏に浮かぶ懲罰大隊での記憶。「死」に世界で一番近い場所と言われる環境での壮絶な体験が、今もレイジの睡眠を蝕んでいたのだが、この幻の獣ヤシュートが、多少なりとも和らげたと言うのが、今宵の大きな収穫と言っても過言では無かった。
ただ、ハンネスが伯爵夫人に説明したところの「根が深い」と言う言葉が、二人の心配を解消するに至っていない。血しぶきや肉片が縦横無尽に舞い飛ぶ戦場の記憶を夢に投影するレイジを不憫に思い、ヤシュートはその悪夢を喰いつつ、彼の記憶にある『良い思い出』を引き出そうと試みた。楽しかった、嬉しかった、恋慕の情を浮かべたり胸が焦がれる思い出だ。
ヤシュートは苦悶の記憶の勢いを削ぎ、甘い思い出が夢に現れるように図ったのだが、結果としてレイジのそれにはオチが付いてしまった。――茜姉ちゃんは施設の木で首を吊って死んだ。だからこれは夢だ―― と、夢の中でレイジに気付かれてしまったのだ。
それでもヤシュートは、それを失敗したとは思っていない。懲罰大隊時代よりも更に深い心の傷を抱えてはいるものの、記憶に押し潰される事無く、冷静な判断が出来るほどに自分の立ち位置に踏み留まるレイジが、とても頼もしく見えたのだから。
(ちゃんと自己管理してる。心が壊れないようにちゃんと自分を守ってる。ちょっと安心したけど、それでも負担は軽くしてあげなくちゃ)
そう言った言わぬか定かではないが、ヤシュートは『ぶもも』と小さく鼻を鳴らしながら、細めていた目をやがて閉じる。彼自身が幸せそうな寝息を立て始めたのだ。




