20 エリア・ディストーション 前編
――レイジ聞いてくれ、これは君を部外者扱いした結果ではない――
王都アーヘンの夕方、太陽の残り香がオレンジ色のヴェールで街を飾る時間帯。レイジは労働者の群れに混ざりながら帰路についている際に、マンフレットの言葉を思い出していた。
まだシグニス・ブラザーズの正式メンバーとして認められていないと言うのは理解出来る。何故ならシグニスは、懲罰大隊のように強制的に部隊に入れて、死ぬまで戦えと言うスタイルの強制的な懲罰組織ではない。スキルのある希望者を募って訓練し、ハイクオリティな戦闘部隊として仕上げた民間組織である。まだ自分の能力すら明らかにしていない自分が、のうのうとして居られる場所ではないのだ。
(魔力が皆無なのは、完全にバレてる。伯爵夫人がそれを証明したし、逆に言えば俺のスキルを見抜く者はいなかったと言う事だ。つまり俺は今のシグニス・ブラザーズにとってはお客様も良いところ。メンバーたちは当たり障りの無い業務を任されたのだと思っているだろうな)
そう思われても仕方が無いと思っている。レイジ自身がまだメンバーと打ち解けていないと感じているし、『クライアント側が押し付けて来た部外者』……メンバーからはそう見られていると自覚するほどに、双方を阻む高い壁の存在を感じているからだ。
だがリーダーのマンフレットは、腫れ物に触るようにレイジを扱っている訳では無かった。それが証明されたのは今しがたの事、オイホルスト家の倉庫を後にして帰路に着いた際に、マンフレットに呼び止められたレイジは重要な事実を言い渡されたのだ。
――良いかレイジ、クライアントの護衛に回れと言ったのは、決して君を厄介払いしたかった訳ではない――
「つまりはデュアンナさんの身に危険が及ぶ可能性がある……と?」
「察しが良いな。敵が明確に見えている段階ではないのだが、いずれ彼女は凶弾に倒れるだろう」
倉庫内に寄宿しているメンバーたちとは違い、王都の街に帰ろうとするレイジを呼び止めるマンフレット。体格に似合わぬ小さな声で、こう続ける。
「彼女は言っていた、栄光ある近衛騎士団と言っても一枚岩ではないと。そして近衛騎士団ですら一枚岩になれないのに、王国が堅牢でいられる訳がないのだ」
「先日話してくれた勢力図の事か」
「そうだ。元老院に貴族院、そして近衛騎士団に王国国軍。それぞれが水面下で睨み合っている現在、目立つ彼女は危険な立ち位置にいるんだ」
レイジの肩に手をかけて、まるで自分の息子に語りかけるように、丁寧且つ穏やかに話していたマンフレットだったのだが、ここで表情を巌のように変化させた。――これから話す事は私の心情だから、一切の他言は無用だとばかりに、短く刈り上げた白髪を夕焼けの色に染めつつも、厳しい表情で語り出したのだ。
「良いかレイジ、世の中には善と悪の概念がある、正義と悪の概念も然りだ。だがな、私は悪など存在しないと考えている。人の行動原理は全て善と正義で始まる、間違いなく全てだ。それが結果的に悪とされたとて、あくまでもそれは他人が評価する事であり、本人にとってはまごう事無き正義なんだ。だから私は懸念するのだよ、この世界で生きる者全ての善と正義の概念が違う事を」
マンフレットの言う事は、確かに一理ある。人を害する事に悪意は無い、自分の……自分だけの正義を振りかざすから人を害すると言う考え方も出来る。それがたとえ快楽殺人者であっても、自分の快楽を満たそうとする正統な行為だからだ。一人一人の善や正義の概念が違えば、『落としどころ』が無ければ必ず軋轢を生んで衝突する。その最大の不幸が戦争と言う考え方も出来るのだ。
「デュアンナ・オイホルスト少尉は王国の将来にとって必要な人物だ。彼女は間違いなく成功するだろうし、その名声も世に轟くはずだ。だがな、目立てば目立つほどに嫉妬や妬みの視線にも晒される。それはつまり、別の正義が彼女を排除するきっかけになるんだ。黒い髪黒い瞳の異国人に、国の命運を賭けるのは間違っている!とね」
【だからレイジ、君は彼女を守れ。今は宙ぶらりんで立ち位置が見えづらいかも知れないが、いつかシグニスと彼女を天秤にかける時期が来る。その時は間違い無く彼女を選べ】
そう言いながらマンフレットはレイジの背中をバンと叩き、いつも通りの穏やかな表情に戻り、帰宅を促したのである。
太陽は西の地平線へと沈む、その足跡を表す橙色の輝きもいよいよ弱まり、それに取って変わるように王都は街灯の白い明かりに染まり始める。
自宅の安アパートが視界に入りそうな距離で、レイジは飲食街に続く路地へと踵を向ける。その路地を抜けると目的地の『玉ねぎ屋』、毎日のルーティンである、夕飯テイクアウトを受け取りに行くのである。
朝の簡単なサンドとはまた違い、店の看板娘であるアンネリエが用意してくれるのは、フライドチキンとガーリックトーストのバスケット(詰め合わせ)で、売れ残ったからと言い訳しながら、そこにカット果物やサラダボウルを付けてくれるのだから、育ち盛り真っ最中のレイジにとっては有り難くない訳が無い。一日の生活の中で一番楽しみな瞬間……それが今なのだ。
だが、路地に入った途端に異変に気付く。普段ならば行き交う人々は足早に動き、一刻も早く目的地を目指そうと忙しないのだが、今日に限り人だかりが出来て身動きが取りづらくなっているのだ。それも玉ねぎ屋を中心として。
人々の視線は間違い無く玉ねぎ屋に向かって集中し、そして視線の束の先からは、ドタンバタンと物がぶつかり合う騒々しい音。
「何だ?客同士のケンカか?」
不審に思い、人だかりの間に無理矢理身体をねじ込み、人をかき分けながら強引な足取りで店に進む。すると、この人だかりはケンカを見物しようとして胸を高鳴らせて見守る人々のたぐいでは無い事に気付く。誰もがその瞳に『怯え』の色を浮かべながら、心配そうに店を見詰めていたのだ。
……所場代を払わなかったらしいよ……
……払わないだろ普通、ディアーボなんか最近街にやって来た新参なんだから……
……ひでえな、店の物勝手に壊しまくって、やりたい放題じゃないか……
……新興マフィアだろ?気に入らねえ奴なら見境い無くやっちまうって噂だぜ……
声を押し殺した会話が群衆の中で飛び交う。まさか今日耳にしたばかりの単語を、また耳にするとは思ってもいなかったが、事態は緊急を要すると察知したレイジは、問答無用で人だかりを跳ね除けながら店に近付こうとする。
だがその時だ、「やめてえええ!」と、アンネリエの妹フレドリカの幼い悲鳴が辺りに響いたのだ。