五月九日
五月九日、月曜日。
いつものように学校へ来てしばらくしたときでした。
教室のドアが開き、例のあの人が姿を現し、私は思わず立ってそちらの方を体ごと向来ました。
「須田さん、もう学校来て大丈夫なんですか?」
「はい、佐々木さん。一応土日に様子を見て退院してもいいからって……」
須田さんがもう学校に来ています。
心臓が弱い代わりに、ちょっと心臓が停止したくらいなら二、三日で回復できるみたいです。
「おはよう。早く元気になってくれてよかった」
「おはよう神野くん……あの、話したい事があるんだけど?」
もちろん金曜日の件は学校中、いや日本中が知ってますからみんな須田さんの言うことに耳を傾け、教室中がピンと張り詰めた空気に変貌しました。
「話って? 親御さんとの話はもう勘弁だけどな……」
「恥ずかしいから二人だけで……」
《そんな馬鹿な。本当に命を救われたからって好きになったんでしょうか?》
と思ったのはきっと私だけではないでしょう。
二人はどこかへ行き、数分で戻ってきました。
彼ら何も言いません。教室のみんなは、何を話していたのか気にはなるものの、話してくれそうにないので諦めて普段の生活に戻りました。
しかし私は生徒会特権があります。神野さんとは少人数で話が出来ますからね。
放課後、生徒会室に集まるなり、私は先輩方がいる前で神野さんに面と向かって正々堂々と聞いてみました。
「今朝、須田さんと何を話していたんです? もちろん答えたくなければ答えなくていいです」
「……全くにわかには信じられない話だ。岡本さん、聞きます?」
「聞きたい聞きたい!」
「会長は?」
「聞かせてちょうだい」
とのことだったので、神野さんは咳ばらいをしてから話を始めました。
「須田さんは僕に言った。なんでも自分は動物さんとお話出来る能力だと。
動物のような高い聴力があるだけでなく動物語までわかると。
正直僕は思った。この女、これは話に聞くが今まで実際に見たことはなかった、ぶりっ子ってやつかと」
「須田さんってそういうタイプだったんですね……」
「何その子あざとーい。ちょっとこれは許せませんね会長!?」
「何を言っているの岡本さん。まさか命を助けてもらった相手に下らない嘘はつかないでしょう。
ただのバカか。もしくは本当にそうなのかも知れないわね」
「ええ。それで動物と話が出来ると言い出した彼女が奇妙な体験談を聞かせてくれたんですよ」
「どうかしたのかしら?」
「須田さんによると昨日病室で寝ていると、不思議なことに中にネズミのようなものが入ってきたそうです。
そしてネズミは、妙な事を言い出したそうなんです」
「妙な事を言い出したって……言葉を話すネズミってだけで十分妙ですよ神野さん」
「まあ確かに。そのネズミいわく、ネズミは十二支の牛の背中に乗って一番乗りを果たした。
ずる賢くて牛を利用することにかけては右に出る者はいないと」
「……」
私たちは、あまりに意味不明な話にリアクションさえ上手く返せません。
「それで、今度烏を見つけたら知らせてと言ってました。
なんでもそのネズミと同居している烏が逃げ出したそうで……」
「そう。まあネズミにこちらから連絡する手段がない以上、無視が一番よハルくん」
「そうですね……」
「しかし神野さん、なんでそれを須田さんはあなたに限定して言ったんですか?」
「ああ、それはね。僕の先祖は牛の頭を持つ神様という伝説があるんだ。
そして十二支の伝説……ネズミは真面目が取り柄の鈍牛に乗っかった。
そして牛は誰より早く出発して自分が神様のところへ一番乗りかと思ったら、背中のネズミに先を越されたってわけ。
ちなみにネズミが猫を騙して十二支に入れないようにして以来、猫はネズミを追いかけ回すようになった、なんて伝説もあるね」
「しかし須田さんは部外者ですから、あなたの家の伝説など知らないはずでは?」
「神野家が経営する神農製薬は世界最大の製薬会社だ。
そのホームページにも一族の由来が書いてある。須田さんはそれを知ったんじゃないかな?」
「なるほど……牛の神野さんは気をつけた方が良さそうですねネズミには」
「そうだね。ネズミ年の人にも注意が必要かもしれない。
五歳上の人、もしくは七歳下の子供に注意だな……」
「そうですね……」
その後、仕事を片付けて神野さんは一番最後まで必ず残る会長に挨拶します。
「ではお嬢、また明日」
「じゃあ私も……神野さん、また明日」
私は相手の返事も聞かずに帰路へつき、学校前の長い直線の歩道を歩いていきます。
しかし運命のいたずらか。せっかく別れたのに、帰り道が同じなようで、神野さんが私の横にまでやってきました。
しかもその横には私を敵視しているといった感じの桜井さんまで。
確か一緒に住んでいると言っていましたが。
「しかし無期限延期ですねぇ、能力の訓練?」
気まずいので話題を振ってみると、神野さんがこう答えました。
「近いうち、君の双子の姉に会いに地元まで行く。
これはもう決定だ。どれだけ千春が止めようと、僕は行く」
「……桜井さんはどうするんです?」
「私はハルくんがそうしたいなら、もはや無理に止めない」
「いや、わかっているんだ。何を見に行くべきか、もうほぼハッキリ見えている。
だから君に説明をしておきたい。僕が向こうへ行く前に、彼女に伝えて置いてほしい」
こう言われたので記録に残しておきます。
ところで、私の目というのは人の心に潜む本音を見ることが出来ます。
どういうことかというと、人間はどんなに訓練しても感情を微細な表情として顔に出してしまうんです。
それが、微表情と呼ばれるもので私の動体視力と顕微鏡のような目はそれを読み取ります。
人と話していても嘘をついてるかどうかすぐ分かるんです。
神野さんは終始本音で語っており、一切嘘はありませんでした。
「姉弟同然に育った僕と千春は、いつも一緒だった。
僕は前にも言ったと思うけど極度に内向的な性格だった。
要するに外へ出て冒険するとかは全然興味がない。女の子に関してもね。
千春は保育園児の頃から僕と結婚する事を望んでいたし、僕もそうなるのが当然だと思ってた。
はじめから側にいる千春で満足で、それ以外などどうでもよかった。
ある日、僕は児童養護施設に行く用事があった」
「なぜです?」
「神野家は日本最大の財閥だ。そして対面を良くするための慈善事業の一環として児童養護施設を運営していた。
僕は神野家本家の唯一の跡取り息子だったから、顔を見せて地域に密着し、僕がこれからも施設を守っていきますよとアピールする必要があったようだった。
僕にとって女の子というのは千春だけ、まあ後はせいぜい妹くらいだったからかもしれない。
施設で出会ったその女の子には一瞬で目を奪われた。なにかこう……運命じみたものを感じた。
僕はわずか八歳だったし、彼女も同じ年頃だったから恋愛ではなかったと思うが……」
「話がみえませんね。だから何ですか?」
「彼女の名前は井上鳰。両親不明。生まれてすぐ乳児院に入り、その後この施設で育った。
天涯孤独の身だった。周りの人に僕はとても恵まれて育ったから、彼女の気持ちは僕には想像も出来ない。
でも幸せにしたいと思った。彼女の家族になってあげたいって、初めて見たときから思ったよ」
「……ちょっと待ってください、それってまさか!」
「そうだ。佐々木本部長唯一の未解決事件。井上鳰誘拐事件。
あの時あの場に居合わせた僕と千春があの事件の証言者であり、生き残りだ。
僕の人生は鳰を探し出して、犯人も見つけることだ。それ以外は全て取るに足らない」
私は絶句しました。そして、桜井さんは自分の腕で自分の体を抱いて、こう言いました。
「私の心はいつも雨降り。あの時私もハルくんも何も出来なかったから、ハルくんは必死になってる。
何とかしてあげたい。でもどうしようもないと思ってた。
そしたら去年……彼がこんなことを言ってきたの」
「こんなこととは?」
「五年経ったら警察には頼らず俺一人でやる。
そのための情報はもう集まった。瞳って子に言葉巧みに近づいて捜査をするって。
瞳って、多分佐々木さんの双子っていう人でしょ?」
「ええ、もちろん……」
「佐々木さん、許せとは言わないけど理解してあげてね。
ハルくんにとっては鳰を探し出す事はすべてにおいて優先すること。
そのために瞳さんが騙されて失恋しようが、どうだっていいって彼は思ってる」
「もうひどいな千春! そんなこと……なくはないけど……」
「まあ、その件はもういいです。瞳も魂胆には気づいていますからね。
今はいいです。それより参考のためにも一応鳰さんの話をもう少し聞かせてください」
「わかった。僕はあの日から機会があると施設に寄った。
立場上、鳰に会いに行くためだけに施設を訪問する事は出来なかったけど、それでも構わなかった。
会えればそれでいい……施設の子でも、鳰ほど孤独な子はいなかった。
でも男女ともに人気だったみたいだ。苦しい過去を抱えているであろう、新入りの子は必ず暖かく迎えてあげる、優しい性格だったんだ。
そんな鳰と一緒に外で遊べる機会が初めて訪れたんだ。
それが四月の……上旬だったかな。五年生になって、千春はもう十一歳だった。
春の雪が降りしきる公園だった」
「事件が起きた日ですね……」
「僕は彼女に対して、必ずしも恋愛感情はないと思ってる。
でも、ただ納得いかないんだ。何も悪くなくて、あんなに優しくて、天涯孤独だった鳰が誘拐事件に巻き込まれるのは納得が行かなかった。
だから、鳰と犯人を見つけるためなら、どんな手段も躊躇しない」
「瞳を傷つけてもですか?」
「傷つくかどうかは彼女の勝手だ。僕は何も嘘は言ってないし、騙すつもりもない。
ただちょっと力を借りるだけだ。ただそれだけだ」
「あくまで非は認めない気ですね……」
「ところで今まで気付かなかったけど、君この辺に住んでるの?」
「言う必要はありません」
私は知っての通り親戚の家に住んでいます。
「そう。じゃあ私達はこれで」
桜井さんと神野さんは自分たちの家の方向へゆき、私も親戚の家に戻ろうと少し別の道を歩いていた時でした。
道の真ん中を野良猫が横切り、しかもネズミが追いかけられていたんです。
そんな馬鹿な。私は野良のネズミは一度も見たことがありません。
それを綺麗な住宅街の中で見るなんて。飲食店の密集する中国の汚い繁華街ならまだしも。
と思っていたら、私は急に和服を着た幼女にーーというと語弊があります。
年齢を確認したわけではありません。
小学校三、四年生くらいの背丈の若い女性に声をかけられたんです。
長い黒髪、下膨れの丸顔。赤ちゃんのような、とても日本人らしい美人さんでした。
「あのねモードちゃん、烏がね……」
「はい?」
「烏を見つけたら教えて。あの子失踪しちゃって……」
「か、烏ですか。ええ、でも特徴をおしえてください」
私はちょっとびっくりしていて慌ててもいました。
それで、自分の名前をなぜか女の子が知っていた件について何も疑問に思う余裕がなかったんです。
「特徴はね、三本足。それだけあればわかるでしょう」
「……三本足の烏というとヤタガラスですか?」
「あっ、ヤタガラス! そう、その言葉使えばよかったわね!」
「なんか、えーと、日本語の方言って詳しくないですが関西弁ですか?」
「ああ、うん……ちょっと出てた?」
「まあいいです……それよりヤタガラスってどういうことです……?」
「あの人は太陽の牡牛の末裔よ。多分あの子の方から寄ってくわ」
「……?」
そう言い終わると、勝手なことに女の子は、角を曲がってどこかへ消えうせました。
「太陽の牡牛ですって……それは妙ですね」
神野家は神農製薬なる会社を経営してます。
神農は中国の神様。初めて地上を支配した炎帝・神農族の祖先とされ、まあ要するに中華史上最初の王朝の始祖です。
メソポタミアの王朝にとってのギルガメシュ。
あるいは日本の天皇家にとっての天照大御神のようなものでしょうか。
要するに、その神農という牛の頭の神様が先祖だと神野家は自称しています。
そのため神農と神野が少し似通っているのだと。
また、元々は京都の貴族で化野という名前であり、いつの頃からか神野に改名したと言います。
これに関しては、同じ時代の平安貴族の日記や記録などに化野の名前が出てくるので間違いなく事実ですから少なく見積もっても神野家は千年以上続いています。
ところが神野家は恥知らずなので、一族の歴史を盛りに盛りました。
四千五百年前に公孫軒猿・黄帝という帝王に一族が倒されて、中華の王族だった一族は各地へ逃散。
そしてその一部が時代を経て奈良時代の日本へやってきたのだと恥ずかしげもなく製薬会社のホームページに一族の由緒として書いてあります。
天皇家を遥かに凌ぐ歴史を持ち、神様の子孫であると宣言してるんです。
何という恥知らずでしょうか。でも神野家が日本最大の財閥なので誰も文句は言えません。
ちなみに四千五百年前というのは、さっき言ったギルガメシュの生きていた時代とほぼ重なります。
さて、ここで問題となるのは太陽の牡牛です。
ヤタガラスは太陽と関係のある鳥ではないかと言われています。
そのヤタガラスが太陽の牡牛に引き付けられるというのは納得のいく話です。
問題は、神野さんの家は中華の元王族という点です。
太陽の牡牛というのは実によくわからない文言なのです。
「しかしまあ、これではっきりしました」
ネズミとやらに病室への潜入を命じた、あるいは自分で変身して須田さんにメッセージを送ったのはさっきの女の子。
そして神野家が元は中国人というのは少し妙だと思い、私は家に帰って調べて見ました。
すると、神様に関する面白い話が出てきたんです。
マルドゥク神。古代都市バビロンで信仰された神でメソポタミア神話でも最高に崇められていた神様。
そしてそのマルドゥクなる名前というのが一説には「太陽の牡牛」を表すとか。
神野家の先祖に古代バビロニア人が混じっているとしたら、あの日本人離れした濃い顔も納得がいきます。
化野という名前の謎も解けました。
神野家は恐らく、人種そのものが日本人とは違うんです。
昔から男女ともに高い鼻に彫りの深い顔、大きな目、そして牛の角のように見える髪の毛といった特徴を有していたのでしょう。
古代日本人から見れば化け物、あるいは鬼のような形相です。
だから化野。あやかしの一族と呼ばれていたんでしょう。
神野家によるホームページの記載では祖先である神農にあやかって化野と名乗った、つまり自称が始まりとしています。
実は化野という名前は、不名誉な他称であったのではないでしょうか。
とにかく、神野家の祖先は私の父親がそうであるように、日本人とは人種が全然違うのは確かでしょう。
さらに、この家はかなり閉鎖的な家だったのは間違いありません。
奈良時代から日本にいたなら、とっくに日本人と同化して薄い顔になっているはず。
恐らく遥か大昔から、日本に渡ってきたあとも一族同士で婚姻し、現地人とは混血してこなかったんではないでしょうか。
少なくとも神野家の何世代か前までは。
そして私はこのような風習を持つ宗教と、民族を知っています。
ゾロアスター教を信仰する古代ペルシア人です。
間違いなく神野家はペルシア人系だと見ていいです。
神野家の祖先は古代バビロニアか、中世ペルシアか、あるいは中華の王族か。
恐らく、全部だと思います。
戦争に負けたバビロニア人や古代中国人が日本に来ていて、同じく牛の神様を祭っているので仲良くなったんでしょう。
そんなところへ、奈良時代にゾロアスター教徒のペルシア人がシルクロードを通って化野家の血筋に加わり、閉鎖的に血を守りつづけていったんじゃないでしょうか。
根拠はあります。マルドゥク神にしても炎帝・神農にしても日=火を象徴する神様です。
どちらも農業の神。太陽と作物と農耕牛のイメージです。
そしてゾロアスター教徒は火を崇める宗教。間違いなく三つが混じっています。
これはおもしろくなってきました。
間違いなく、神野さんが二歳の時父親を殺してしまったことも井上鳰ちゃん失踪の原因も彼の特別な血筋や家系に関連すると確信できます。