九月二十日 その三
結さんと取り残された神野さんは、目がとろんとして今にも眠そうな結さんと突然唇を重ねたそうです。
初っ端から変なことをしているわけですから、真夏さんの警戒は正しかった事になりますね。
「夜食とコーヒーでも買って来ます。目、覚めました?」
「うん……」
結さんは一気に興奮して目が覚め、神野さんが近くのコンビニで色々買ってくるまでまんじりともせずホテルを凝視していました。
それで、レジ袋片手に戻ってきた神野さんがこう提案したんだそうです。
「張り込み……どうします?」
「いやどうしますって……」
「さすがにあれだけのデカいホテル、満室って事はないと思うんですよ。
だからあの二人の入った部屋の隣にでも入れればと思ったんですが」
「それを早く言いなさいよ! こんな蒸し暑い車のなか嫌よ私は!」
「この作戦だと結さんには一晩中起きて、耳をそばだててもらうことになる訳じゃないですか?
さっきまでの眠そうな様子だととてもムリそうだったんで、言いませんでした」
「あーそういうこと。私は平気。今からでもチェックインしよ!」
「結さんさえよければ……ただ、支配人と話をしないとな。
暫くかかりそうですから、それでも食べて待っててくださいね」
神野さんはその後、冷えたアイスとシュークリーム、そしてコーヒーを置いて一人でホテルへ。チェックインまでのあれこれは聞いただけでちょっと笑えました。
まずフロントのお姉さんに支配人を呼んでもらうところから既に難関。
しかし神野さんはルックスが良くて物腰柔らかで爽やかな男を演じるのがうまいので、それに難無く成功し、支配人との交渉に移ります。
「どうもはじめまして。あなたがこちらの支配人の?」
「野口と申します……しかしあのお客様、私どものフロントが何か不都合でも……?」
女性じゃなく、中年の男性が支配人でしたから、フロントのお姉さんよりは難航しそうです。
「クレーマーじゃないですよ。実は私、神野都市計画株式会社の社長をしておりまして。
多分その会社の計画したホテルだと思うんですがここは…」
「は……?」
目が点になる支配人さん。支配人と言ってもホテルのオーナーではないですからね。
上の人がどうなってるか知る由もありません。目の前にいる人は、雲の上の人です。
「ここのホテルの権利関係は神野不動産の所有ですか?」
「ええ、横浜にある宿泊、商業施設は、ほぼ全てそうだと聞いておりますが……」
「僕は神野不動産の社長でもあるわけですが……ああ、あと神野リゾートの社長でした。
何にせよここのホテルの支配人の首も僕の采配一つなんですが……」
「またまたご冗談を」
支配人さんは、そう言いつつも目の前の男の姿が、ニュースなどでよく見るあの四宮幸村にうり二つなのに気づき、嫌な汗が吹き出てきます。
「何も首にしようって言うんじゃありません。
むしろ謝礼を払いたいくらいだ。社長の権限で臨時ボーナスを出そう。
一億円でどうです? 今すぐにだって経理に指示出せますけど」
「一億……では一体私に何を?」
支配人さんはだんだん神野さんの言うことを信じはじめていました。
いい大人なんですからもう少し慎重に動くべきですが、神野さんがあまりに堂々としているのでつい気圧されたらしいです。
「簡単な話です。一時間ほど前、ここに入ってきた外国人風の男と若干ふくよかな金髪の女の子が居たはず。
二人は実の親子ですが……受付登録しているはずだ。データを見せてほしい」
「いけません、部外者に機密を……!」
「だから部外者じゃないと言ってるだろ。
しかしまあ支配人がそれだけ慎重という事は、適した人材という事か。
よし、では今月末に臨時ボーナスで二億円払おう。で、その部屋の隣の部屋に二人でチェックインしたい」
「最上階のスイートですが……」
「空きがないなら話をつけに行く」
「困ります、お客様の迷惑になるようなことは!」
「埋め合わせはする。納得してもらうから!」
「私の責任問題になります!」
「ならないって言ってるだろしつこい人だなぁ……」
神野さんは支配人の制止も聞かず、フロントのお姉さんのところへ二人で舞い戻りました。
「お待たせしてすみません。宿泊客のリストとデータ、よかったら見せてもらえますか?」
「いかん、部外者に見せてはならん!」
「ですが支配人、この方……ニュースで見るあの方にそっくりじゃありません……?」
「あの方ってどの方か知らないが、人を見た目で判断してはいけない!
確かに似ているが……だからといって何の証拠にも……」
「支配人、確かに社長のくせにあなたに顔も見せなかったのは悪かった。
忙しくてね。ただ今日は大事な用がある。しょうがないな。
じゃあ、父さんを呼べばいいんだな……わかった、呼ぶよ」
それから神野さんは待機している結さんの携帯電話にかけました。
「あー、父さん? 悪いけど交渉が長引いて。
ああうん。そう。最初から顔見せた方が早かったかな?
はい、じゃあ待ってる。ごめんね、それじゃあ」
続いて現れた会長の姿を見て支配人もフロントも血相を変えます。
薄々気付いていた事が、まさに事実とわかったからです。
結さんは完璧なる変装で華麗にホテルへ姿を現しました。
「やれやれ、一人で交渉してくると言った割には助けを求めてきたな」
「父さん、悪かったって。交渉頼むよ」
「ああ。こういうとき、普段からニュースなどで顔を見せておいてよかったと思う。
支配人、このホテルが開業した時のテープカットには私も顔を出した。
君はその当時から他のホテルでの業績を買われて支配人であったかと思うが……違ったかね?」
「あのっ、いえ、それはハイ、違いません……」
「そう怯えるな。君は確かまだ子供が小さかったそうだな?
若い間は仕事に人生を捧げて結婚は遅かったか。実に結構。
ところで、君の年俸はいくらだったかね?」
「一千万円……です……」
「臨時ボーナスだ、受け取ってくれ」
突如、支配人の口座に謎の振込みが発生したそうです。
支配人はゼロの数を確認して血の気が引きました。
「せんまん、一億……こ、これは二億円、ですか!?」
「足りないかね? 人材とは得難いものだ。決して過大評価とは思わないがね。
その金で娘にグランドピアノでも買ってあげなさい。
ところでフロントの君。勤続何年になる?」
「四年目になります……」
「見たところブランド物の化粧品や高級なアクセサリー類はない。
結婚はしているが、指輪も慎ましいものだ。大学はどこかね?」
「い、一応卓抜大学です」
「なるほど。神奈川県でも随一の難関校だ。実家暮らしかね?」
「はい……弟が成人して就職するまでは……」
これまでの質問でだいぶお姉さんの人柄が見えてきました。
歳の離れた弟の面倒を両親だけで見られないということは、多分片親。
経済的に裕福ではないですが、資質は優れていて難関大学に合格。
文系だったんでしょう。その後地元のホテルに就職、四年目にしてフロント。
ルックスと真面目な性格と能力を評価されてのことだとおもいます。
結婚はしているようですが、多分近い世代の男性とで、まだ彼は豪華な指輪を買える収入ではない模様。
家族に縛られて実家暮らしをしているお姉さんと結婚していますから、相手の男性もそれなりに好感が持てます。
という事までもここまでの質問で分かるわけですね。
「見立て通りの人物だな。
息子がどれだけ迫っても情報を開示しなかった。
ルール厳守の真面目で意思のしっかりした人物だ。素晴らしい。
人事権は支配人、君に一任しているが、採用したのも君かね?」
「はい……二年目でフロントのチーフを任せました。
強面の男にも動じないしっかりした性格で、適任だと判断しました」
「出る杭は打たれるはずだが、そんなことを微塵も感じさせない。
これはその事を評価した報酬だ。要らないというなら恵まれない子供達にでも寄附するといい」
確かに。二十三、四歳の小娘がフロントチーフなんて、いかにもイジメに発展しそうですが、このお姉さんは極端に強靭な体質で、それを物ともしなかったんでしょう。
たまに居ますよね、こういうメンタルも体も極端に強靭な人。同じ人間とは思えません。
お姉さんも支配人と一緒で携帯電話を確認し、顔が青ざめました。
何億円くらい振り込まれていたんでしょうね。
「さて、我々はただある部屋の隣に泊まりたいだけだ。
満室ではないだろう。見てくれるか?」
「はい、あのお客様は、両隣が空室の部屋はあるかと聞いてきたので……」
「やましいことでもしているのかもな。それなら二つ隣の部屋でいい」
「畏まりました……」
「しかし父さん、お金まで出すことなくない? 賄賂みたいだろ」
「そんないやらしい意味はない。行くぞ」
支配人と会長例の部屋へ、しかし神野さんはまだフロントにいます。
「で、あの部屋に親子が泊まってるって件だが……」
「親子……? いえ、お一人様しか泊まっておられませんが」
「それはおかしい。ちゃんと見たんですか?」
「お一人様でしたが……確かに……目立つ金髪の女の子というのも記憶にございません」
「なるほど。その女の子が車のトランクに詰められている可能性はない。
僕らが追いかけている隙にそうする時間は絶対になかった。
意外と人間一人完全に縛るのは時間がかかるしな……」
フロントのお姉さんはヤバいことに巻き込まれたと青ざめます。
ホテル、それもデカいホテルとなると厄介事は多いでしょうから、そのうち慣れるでしょう。
その後神野さんは会長と支配人のところに合流。
例のイタリア車の点検には行きませんでした。
「ごゆっくりどうぞ……」
「苦しうないぞ」
会長に化けた結さんと神野さんは部屋に入り、鍵を閉めました。
その途端結さんは変身を解いて先ほどまでの女性らしい着物姿に戻り、ベッドに身を投げ出して大の字に。
正直私はホテルの最高級スイートなんて泊まった事もありませんが、とにかく大きい部屋だということは想像できます。
「結さん、なかなかの女優ぶりでしたね」
「ふふん。さて、一休みと行きたいところやけどそうも行かんわね。
春雪さん、正直なところどの程度ルイ=ニコラとかいうフランス人を危険視してるのん?」
「九割九分、ほぼ確実に瞳を誘拐しようとしている。フランスでマフィアに借金でも作ったのかな。
いや、乗ってる車がイタリア車だった。シシリアンマフィアかもしれない」
「だから私をここで一晩中縛り付けんのん?
もう、私これでも②一国の女王なのよ?
そんな私に対してそんなにわがままに振る舞えるのは春雪さんだけやねんからね?」
「その割には嬉しそうだけど……いや感謝してますって。悪いとは思ってるんだ。
結さん、例の部屋ではどんな感じの会話が聞こえてます?」
「ふぅむ……」
結さんは耳をうさぎ型に変化させ、ベッドの上に膝立ちして壁に頭を密着させます。
その姿勢のまま、神野さんにこう報告しました。
「ルームサービスを頼んだみたい。部屋のドアが開く」
「他には?」
「用心深く常にフランス語で、瞳ちゃんの昔の話とか聞き出してるみたいね。
こっちもルームサービス頼む? 私まだ晩御飯食べてへんのよ」
「おばあちゃんさっき食べたでしょ。二百歳越えてボケたか?」
「ええから食べよ! あー、でもホテルから朝帰りしたらまた娘に軽蔑される……」
「もう遅いよ。夏樹ちゃん、お兄ちゃん達と一緒に晩御飯食べたんだろうな……」
あの家会長もいなければ、今夜は結さんもおらず、夏樹くんしか居ませんからね。
夏樹ちゃんの母親に対する反感はますます強まる一方です。
元々からして、あの母娘はあまり仲良くはなかったですし。
それから暫くすると両方の部屋にルームサービスが到着。父娘水入らずの会話に結さんが耳をそばだてます。
「ふむふむ……あっ、瞳ちゃんがシャワー行くみたい」
「ですか。なら彼女が居ない間に秘密の電話をするかも」
「その可能性高いわね。あっ、春雪さん!」
「どうしたんです?」
「私もおしっこしたくなってきた!」
「幼児か! 電話する気配ないですか?」
「ないわね。春雪さん、悪いけど一旦離脱する、限界!」
「やれやれ……結さん、僕はもう懲りた。携帯貸してよ?」
「わかった!」
結さんはトイレへ。その隙に神野さんはトントンへ電話を。
「もしもし、君か?」
「こんばんは本部長。こちらは無事ホテルで張り込みを開始しました」
「なにか変わった事はないか?」
「いいえ。本部長、実は少しお願いがありまして。
瞳さんの写真と彼女の父親の写真をそれぞれ用意してくれませんか?」
「うむ。構わないが……」
「それを信頼できる警察の部下に頼んで今から指定するビルで受取人に渡してください」
「まるでこっちも犯罪者みたいだな。どこに行けばいい?」
「東京新宿区……日本一高い大日本帝国二千六百周年記念ビルです」
さすがに二千六百メートルのビルは作れませんでしたが、総床面積は桁違いの高層ビル。
もちろん神野家の企業がギッシリ詰まっており、東京都庁を嘲笑うかのように高く高く屹立しています。
「受取人は?」
「浜田という女性です。その女性には今から連絡します。それでは」
「ああ。必要なことがあれば追って連絡してくれ」
「恩に着ます」
神野さんは電話を切ると結さんの携帯電話のデータを物色し、目当ての女性に連絡を取ります。
「あー、もしもし浜田さん?」
「これは……会長! 奥様の携帯電話でいかがしました……?」
「いや会長ではなくて。聞いてないですか。僕が会長の息子です」
「あまりに声がそっくりで……失礼しました、クビだけはご勘弁を!」
「会長達は一体どんなパワハラしてるんですか……」
と呆れたのもつかの間。神野さんは気を取り直して続けます。
「今から例の二千六百周年記念ビルに警察関係者が来ます。
秋田県警の刑事だと思いますが、浜田さんはその人から男と女の子の写真を受け取ってください」
「えーと……要領を得ない命令なのですが……」
「浜田さん、仮にも神野交通の専務だったらもっと優秀な読みを発揮してくださいよ。
その写真の二人は親子ですが、犯罪を犯して高飛びする可能性がある。
今は極秘に進めている。どのくらい仲間がいるかわからないので、情報はなるべく狭い範囲で共有するのが得策。
そう考えて浜田さんに連絡したんですよ、わかりますか?」
浜田さんは後で聞いた話によると某大を卒業後、わずか二十年で神野交通という超巨大企業の専務にまで上り詰めた超キャリアウーマンです。
現在四十五歳。神野交通というと、電車、高速道路運営、バス、船舶、飛行機に至るまで公共交通機関の全てを網羅した超巨大企業。
末端まで含めるとのべ二千五百万人が携わっている巨大企業の、ほぼほぼ頂点である専務というのが如何にすごいかは、社会に出たことのない私でも何となく理解できます。
神野家は王族。その王族以上にはなれないとはいえ、専務まで来たわけですから。
「えーと、何となくは……つまりこういうことですね?
写真だけ渡されたのは偽名を使う可能性が高いと」
さすがキャリアウーマン。頭の回転は速いです。
「ええ。いずれにせよ父娘二人だけで近々横浜付近の空港の便に乗るとなると、それなりに限られて来るはずです。
警視庁の応援は来ませんが、一応秋田県警の刑事さんも手伝ってくれるはずです」
「でもいいんですか? 県警が本庁に黙って都内で動いても……令状もないでしょう」
「そんなことは浜田さんが心配しなくていいですよ。
浜田さんは刑事さんと一緒に顧客データをしらみ潰しにしてください。
浜田さん程の人にそんな単純作業本当はさせたくないんですけど、信頼できる人以外には任せられませんからね」
「はい……でもあの……私からしたらあなたが信頼できるかの方が心配なんですけど……」
「まあ確かに。会長の息子なんていきなり言われてもね。じゃあテレビ電話に切り替えていいですか?」
ずいぶん浜田さんも疑り深いです。結さんの携帯電話からかけてきた時点で信用していいと思うんですけどね。
そしてテレビ電話に変えた途端、浜田さんは負けを認めました。
「あっ。もう十分です。間違いなくあなたが会長の息子です……」
「信用してくれてどうも。時間はかかるかと思いますけどね。
念のため写真が用意してあります。フライト当日に顔を確認してくださいね、それじゃ」
「はい、承りました」
電話はこんな感じで切れたのだそうです。
直後、結さんは部屋に戻って来ました。小用にしては非常に長かったですが。
「ん? 誰に電話してたのん?」
「浜田さんに。あの人が一番信頼できるでしょう。用心に越した事はないですから。
僕も現地に顔出したいんですけど、それは許してくれそうにないですね」
「当たり前やん。春雪さんもおらんのに眠たい中、張り込みとか出来るか!」
「だと思った。また眠たくなってきたら言ってくださいね」
と言った途端、予想通り結さんは弱音を吐きます。
「ああ、もう限界! 幻覚まで見えてきたわ……春雪さん、眠気覚まして?」
「はい」
漫才かコントのようですが、神野さんはさっきコンビニで買ったコーヒーを手渡しました。
「うーむ……眠気も覚めたわ……」
「それはよかった。僕はそろそろ行くところがあるんで」
「どこ行くん? 私の代打で夏樹でも呼ぶとか?」
「小学生に徹夜させられないでしょう。違いますよ。
次向こうがルームサービスを頼む時に何とかしてボーイに盗聴器を仕掛けさせたい。
そしたら結さんも休めるでしょう?」
「ありがとう……けどそんなすぐ用意出来るのん?」
「神野興信所も横浜にはありますからすぐ用意させます」
ホテル入りから三十分くらいして、神野さんは外出。
何と一時間もしない内にホテルに戻ってきました。
その足でもう一度フロントに問い合わせ、支配人に問い合わせ。
その支配人に言われてボーイの人が出てくると、神野さんはいつものように、堂々と発言します。
「いやーどうもどうも。早速ですけどこれなんだかわかります?」
「盗聴器、ですか?」
「ええ。ところで例の部屋には人質をとった犯罪者がいる可能性があります」
「えっ!?」
「疑うのなら支配人の事も疑う事になりますよ!?」
「いや……そんなつもりはないですが……」
「ルームサービスを向こうが利用したら、部屋の中にこれを設置してください。
出来ないようなら隣の空き部屋にこれを設置してください」
「はい……やってみます」
しかしボーイさんに出番はなく、結さんの報告によるとそのまま瞳とその父親は二人で寝入ったとのこと。
「なるほど寝たか……しょうがない。空き部屋に盗聴器を設置する。
結さんは寝てていいよ。フランス語なら僕もわかるから」
「わかった。じゃあお言葉に甘えて……」
結さんはこの部屋に入ってきた当初と同じくベッドの上で大の字になって眠りこけ、神野さんは耳をすましてその側で盗聴器の拾う音に意識を集中します。
と、そんな時でした。時間にして午前二時頃の事です。
突然ガチャリ、というドアノブが開く音がして神野さんは心臓が縮こまる思いだったと言います。
部屋から出てきた父はエレベーターを降りて行ったというんです。
「まずいな……」
神野さんは早速行動を起こします。側で寝ていた結さんをたたき起こしたんです。
「行動が始まった。結さん起きてください!」
「あー、気持ち良かった……」
眠気をずっと我慢してようやく眠れたせいか、三時間たらずしか寝ていないのに結さんはそこそこ気持ち良く目が覚めたようです。
彼女は至ってクールに寝起きで神野さんにこう質問しました。
「現況は?」
「敵が下へ降りていく。結さんはカラスに変身して窓から外へ行って、念のため監視をしててください」
「了解。春雪さんは?」
「瞳に会いに行きます。向こうが人質を解放したんですから、これ以上隠密行動する意味はない。
もちろん、向こうはまだ何もしてませんから、こっちもあの人に手荒な真似はしません」
「そう、わかった」
結さんは手はず通りに開け放たれた窓から夜空へ飛び立ち、神野さんも急いで二つ隣の例の部屋へ。
神野さんは予め支配人にマスターキーをもらっており、念のため突入出来るようにはしていたわけです。
そして大きすぎるスイートルームのベッドに寝ている瞳に近づくと、躊躇なく肩を揺すって起こしました。
「おい、起きろ。しっかりしろ、おい!」
反応がありません。念のため、氷嚢を作って背中や首筋などに当てても全くの無反応でした。
医者としての彼の直感が、口から漏れました。
「まずい。意識不明だ。睡眠薬を飲まされた可能性が高いか……脈はあるが……」
すると、そこへ乱暴に入ってくるのはさっきまでカラスに変身して外の様子を伺っていた結さんです。
「大変! 春雪さん、駐車場で彼が電話で話をしてたの!」
「なんて?」
「瞳には睡眠薬を飲ませた。これから車に積むから、車を取りにこいって!」
「なるほど。謎が解けたな。瞳を隠していたのは証拠を残さないためとアリバイ作りか。
用心深いな。まだ僕らが追っている事にも気づいてはいないと思うが……」
「んなこと言ってる場合か! 早く鍵閉めて隠蔽しよ!」
「でも瞳から奴が離れる事はもう二度とないはず。ここで彼女を引き離さなくては。
しかし……そもそも何故奴は一旦下に?」
「滑車よ」
「滑車ですか?」
「下に目立たない黒色の滑車が設置されてる。もちろんこの部屋にも。
瞳ちゃんは眠ったままシートにくるまれて滑車で下ろされて、下で受けとる奴が滑車ごと瞳ちゃんを受け取って車に回収。
そのあとで奴は何食わぬ顔で、一人で泊まった部屋から一人で出ればいいってわけ」
最上階のスイートですよ。そこから人を一人下ろすとは信じられません。
とりあえずアリバイを作れば後はどうでもいいという雑なトリックでしょうか。
「うーん。じゃあどうやって瞳はここへ?」
「父親の言うことに協力したとしか考えられへんわ。
つまりフロントの目がチェックインするお父さんに向いてる隙に目を盗んで瞳ちゃんは何食わぬ顔でエレベーターを上がるってこと」
「まさか……彼女も誘拐されることは理解してたはずだ。
そこまで馬鹿な事は考えまい……と思ってたんですが」
「春雪さん、よく刑事さんは事件の捜査で、まさかそんな下らない事で人を殺すまい、と思っていた動機が人を殺させたっていう事件もよくあるそうよ?
犯罪という事に関して常識は通用せえへんのよ……被害者の側もストックホルム症候群なんて言って、誘拐犯や立てこもり犯に親愛の情を向けることもあるらしいし……」
「うーむ確かに……でもこの子を回収しないことには始まりませんよ」
神野さんは瞳を背負い、マスターキーで鍵を閉め、何食わぬ顔で元の部屋に戻ります。
すると結さんの携帯電話が部屋で鳴り、瞳をおんぶして手が塞がっている神野さんに代わって結さんがでました。
「はいもしもし、浜田さん?」
「あ、すみません、例の件ですが神野交通の利用客リストに名前がありました」
「どうしたのん?」
「フランス人らしき人物はいるのですが、娘と同乗となると該当者がいませんでした。
その代わりここ数日以内に国外行きの便を利用するフランス人らしき人物は三十人にまで絞り込めましたが……」
「全員をあたるのは厳しそうね。でもそれは万が一逃がした時の念のための措置よ。
今、例の男の娘を確保したわ。浜田さんは一旦休んで」
「はい、ありがとうございます」
という事で電話を切った結さん。彼女は早速こう決断しました。
「この子を確保したのはいいとして、例のあいつを監視する役目も必要ね。
私ほど監視に使える能力を持つ人材も少ないわ。
ここは任せてその子を受け渡すところを本部長に指定なさい」
「わかりました。結さんすいません、ここは頼みます!
かなりヤバい状況だ……この子はここに寝かせましょう」
「そうね。助けを呼ぶ?」
「念のため救急に通報します。ホテルで女の子が睡眠薬を飲んで自殺を図った可能性がある……とでも虚偽の報告をしましょうか」
この人たちこの日だけで何回念のためと言ってるんでしょうか。
その後、その通りにした神野さんは一旦部屋の外に出ます。
救急さえくれば人目がありますから、もうこれ以上父に何も出来る事はありませんからね。
「あ……」
部屋の外に出て神野さんが目があった最初の人間は、瞳の父でした。
「驚いたな。アンジェリーナの言っていた通りだ。
君はストーキングが得意だな。恐れ入ったよ」
どうやら父は一応念のため罠を張ったようです。
滑車を確認するふりをしてあえて瞳から離れたふりをしたんです。
結さんがカラスになって監視していることなど気づくはずもないですから、ここで奇襲が成功したのはたまたま結さんが部屋の中に注意を向けており、まあ要するに運がよかったからでした。
「あんた娘に睡眠薬を盛ったな? 既に救急と警察に連絡は回ってる、観念しろ」
「久しぶりの親子の再会を邪魔する奴があるか馬鹿者め。
アンジェリーナの報告、試させてもらおう」
父は懐から拳銃を抜きましたが、その動きに反応して神野さんは一瞬抜くより早く身をかわして距離を詰めることに成功していました。
右後ろ回し蹴りで腹を蹴ると、相手も体格はいいとはいえ中年の親父ですから派手に吹っ飛びました。
これは後に聞いた話なので事実を記しますが、この際に父は倒れながら銃を発砲。
神野さんは腕で銃弾を防ぐもこれが貫通。
片方の目を銃弾で撃ち抜かれ、ギリギリ致命傷は避けましたが直後に脳震盪で意識を失ったそうです。
この後の事はかい摘まんで説明致しましょう。
銃声に驚いて出てきた結さんは次に現況を一瞬で把握し、最善手を打ちました。
まず父の事は能力を使用して一瞬で倒しました。
あらゆる細胞を自由に変質させられる能力を用いて、大型ネコ科動物の瞬発力と鋭い爪を備え、人間には反応不可能な速度で接近。
強大に発達した足の筋肉でジャンプし、床に引き倒すと一瞬で意識を刈り取り、続いて真夏さんに電話をしました。
「もしもし。まな、夏樹くんと一緒にホテルに来て、最上階の廊下!」
「どうしたの!?」
「春雪さんが危険な状態よ。早く来なさい」
素っ気なく電話を切ると、この夜散々聞かされた父の声を声帯模写し、履歴を辿って仲間に電話します。
「予定外だ。今すぐ来い、早くしないとバレる!」
電話を切ると今度は神野さんの声帯を模写し、トントンに電話をかけた次第です。
「もしもし、君か。私だ」
「本部長、瞳さんは確保、ルイさんは気絶してます。
神奈川県警と警視庁に連絡を。本部長からの連絡であれば本庁も必ず真摯に取り合うはずです」
「わかった。横浜のホテルに突入だな」
電話は終わり、続いては父の確保です。空き部屋の盗聴器をさりげなく回収しつつ、空き部屋のシーツで手足を縛り付け、その後あまった枕カバーなどで神野さんの目を応急手当したそうです。
警察が来て仲間も逮捕。事件は終息に向かいました。
事件の顛末を一言で言えば、金に困った父が娘を売ろうとしたという、ただのよくある話でした。
このエピは入れるところをまちがえたとおもう、構成の妙である。




