六月二十三日・その六
「さてそんな春雪さんに一つ頼みがあるの。仕事、引き受けてくれない?」
「仕事ですか。例のやり甲斐のある仕事ですか?」
「ええ。この国を統治してもらいたいのよ」
「……はい?」
「今は神野家で分担してやってるわ。会社の経営、政治も。
春雪さんほどの人ならそれらを一本化してこの国の統治者になれると思うわ」
「そんな馬鹿な。経営一族はどこか知らないところにいて、俺は経営にかかわらない血筋だと聞きましたよ?」
「だからイザナと結婚させるつもりだった。でも正直、三十歳差での結婚はさせられないわよね?
かといって、イザナの相手じゃなくなった小さい方の春雪さんを、実は血の繋がった娘の井上鳰ちゃんとくっつけさせるわけにも行かないし。
経営一族達の実権は私が握ってるわ。伊達に二百年近く生きてないからね。
神野春雪が来たら、全ての権限を譲らざるを得ないようになってある」
「……どうして俺が?」
「まあその話はいずれ……」
その後、結さんが説明を始めたのはスケールがデカすぎる話でした。
「神野家の財産を使って、最初は私が全ての会社を創設、拡大させたわ」
「すごいですね?」
「いや、金は金を生むのよ。だから元手の金さえあればお金は増えつづける。
新規事業開拓も、そし業界独占状態の構築も金さえあれば簡単な事だったわ。
まず手始めに製薬業界、医療機器メーカー、それに医療従事者を輩出する大学事業を完全に独占した。
その後はコンビニチェーン、スーパーマーケット、鉄道会社、金融、保険、インフラ整備、運送、建設業。
全てを掌握したあとに政権を握るのはもっと容易い事だったわ。
その後は日本は世界最高の高福祉国家として移民も多数来るようになったわけだけど、いくら人口二億、世界一の経済大国日本でも財源がないはずで、海外の研究者も頭を悩ませたわ。
答えは簡単。この発想を作り出した私はノーベル経済学賞をもらってもいいぐらいよ」
「医療を完全に手中にしている神野家が政権を握り、税金で福祉を手厚くした。
つまり、国民にどれだけサービスを手厚くしても結局神野家は儲かる、という寸法なわけですか?」
「その通りよ。さすが私とイザナの見込んだ男。税金と医療業界の儲け全てが神野家の懐なら、それはお金を横へ流しただけの事で、出費ではないのよ。
これは医療に限らず全ての公共サービスにおいても同じ事。
高速道路を作るお金をインフラ関係の会社に渡したら、実質無料で国内に投資したのと同じ事になる」
「じゃあ海外に日本が無料で高速道路や鉄道を建てまくって海外から感謝されてるってニュース見るけど、まさかおばあちゃん!?」
十二歳の真夏さんもカラクリに気づいたようです。
「そう。日本政府が税金で神野財閥系の建設業者に仕事を依頼すれば実質無料。
外国からすれば日本が高速道路をタダでくれるみたいなものよ。
その通行料金を受け取って儲けを出してる。
水道施設、発電所、ダム、鉄道、大学、病院、ありとあらゆる必要不可欠なインフラを建てまくってるわ。
その国の政府と儲けは折半してるから、むしろアフリカ諸国を中心に注文は殺到してるわ。
無料で建物がバンバン建つし、こっちはそこまで儲け重視してないから期限が来れば全てその国の物になる約束もしてるから」
「まあ……良いことしてると言えるよね……?」
「そもそも世界の基軸通貨で、最大の信用がある日本円を好きに刷れる時点で、お金なんてもうあっても無くても変わらんのやけどね。
実質財布は無限。春雪さんにはこの軍事力を持たない世界最強の国家の統治を担当してもらう」
「ええ……」
それから一ヶ月後、東京に引っ越しを完了した神野さん。
もう既に政権を握っているようです。早い。
私が勉強をしたこともある政策もいくつか作っていました。
二十歳以上の既婚女性限定のベーシックインカムもその一つ。
発案者が女性の結さんなのかは不明です。
それまで女性の賃金はもちろん、会社内での出世レースでも上に上がりづらい事は事実でした。
そこで政府は男性との賃金格差をベーシックインカムによって軽減。
ただしそれだけで生活出来るほどの額ではなく年に百万円ほど。
いや、まあ切り詰めれば生活出来ますけど一生これで生活しようとは思わない額です。
結果、若年層が早くから結婚することが増えました。その方が生活水準が明らかに上がるからです。
ここに児童手当もプラスされますから、結果少子化対策にもなりました。
また、そのお金のおかげで家庭で女性の方が権限を持ちやすく、それまで経済的に夫に完全に依存していた専業主婦でも夫に物を言えるようになりました。
実質男性への増税に近いわけですから、特に女性と結婚できない男性にとっては可哀相な話ですが。
十数年前の施行なのですが、ここ最近諸外国でもこの法律を導入し、同じく若者の結婚離れを食い止める事が出来たとか出来なかったとか。
その他海外も真似した法律としては国会議員の議席と報酬のカットでした。
特に報酬カットは苛烈で、なんと報酬は恒久的にゼロ。
ローマ人は国家に奉仕することを『名誉』とし、国家の要職では報酬を受け取らないものとしていましたが、その真似でしょうか。
いずれにせよ、実質的には選挙で選ばれた政治家に一切の権限がない日本では当然の法律でしょう。
マネした外国がどうなったかは、知りません。
ただこれは日本を統治しているのが誰なのか、子供でも知ってはいましたが、それを隠しもしない法律ということ。
神野家が完璧に近い善政を敷いているのがよかっただけで、同時にこれほどの力を持つ財閥が現れたら国家は簡単に国民主権ではなくなるという事実をも我々人間に知らしめた、世界史の教科書に載ってもおかしくない事件です。
あと、私はこの前ちょっと行ったことがあるくらいだったので実像を知らないのですが、いわゆる阪神圏と京都・奈良は日本最大の観光地であるため、十三年程前から非常に厳しい規制がかけられました。
白い恋人、姫路城のある姫路市や大阪城のある大阪市、それに世界遺産だらけの京都市、奈良盆地全域などではコンクリート製の高層建築が絶対にダメで全て取り壊し、ということになりました。
そうでなくては歴史あるお城やお寺、神社が映えませんから。
建物は二階建てまで、高さも規制があり、当然木製でなければいけません。
外壁や調度品にまで規制がかけられ、法律で定められた服飾規定まであります。
関西の観光地に住む人々は必ず着物を着なければならず、履物も当然草履、下駄など。
家に西洋風の家具は置いてはならず、マンションに住むなどもってのほか。
たいていの家にガレージがなく車や自転車での移動も不可。
というわけで、基本的にこの地域に住んでいる人々は徒歩と地下鉄で行ける範囲のみが行動圏内。
私が行った四宮家の三嶋の家など、大阪でも僻地にあるようなところは高級住宅街。
というわけなので近畿圏や北海道、沖縄など観光客の多い地域は必然的に人口が面積の割に少なくなっています。
マンションやビルなどが少ないですからね。お金持ちも多いので一軒あたりの面積も広いです。
これら観光地は人口あたりのGDPでは他県の数倍にも及ぶリッチなところでもあります。
非常に窮屈な規制があるかわりに商売が保証されており、さすがの神野家も観光業によるインバウンドには手を出さないらしいです。
そこに住む人々の生活は非常に豊かなのでうらやましい気もしますが、窮屈そうでもあります。
観光地には何でもありますから、私だったら全く平気ですが。
内政のほかにも外交で手腕を発揮したこともあり、とくに十年前の中国に対する所業は悪魔と称されました。
神野さんは突如、中国との無制限通貨スワップ協定を打ち出しました。
中国からすれば世界で最も信頼ある基軸通貨の日本円を実質上タダで稼げる垂涎もののチャンス。
深く考える事なく一瞬で飛びつき、異例の早さで重慶条約が締結。
その後どうなったかというと、パパもご存知ですよね。
無制限通貨スワップにより、日本は中国政府が刷って送って来る大量の人民元を受け取り、同じ額の日本円を送ります。
すると予想されていた事ですが、市場での人民元売りが加速し、インフレしました。
インフレを起こすほど中国がお金を刷ったのではなく、国内に日本円が毒のように蔓延しだしたせいです。
信用の高い日本円を受け取れる共産党員とそれを持たない市民との間に無視できない経済格差が発生。
単純に人民元の百倍くらいのレートで取り引きされる日本円ですから、中国の平均賃金は円に換算すると年に数万円ほど。
ところが共産党員は給料を円で払ってもらうようになり、しかも目下経済成長中の中国では、最初からインフレしています。
目減りしない日本円と人民元では同じ給料を払ってもらってても雲泥の差。
考えてみてください。今の給料は変わらず物価はどんどん上がり、ごく一部の人だけが逆にどんどん豊かになっていく状況を。
民衆がそんな状況になると経済格差が浮き彫りとなり、どこも元はいらないから円が欲しいという状況に。
しかも庶民の生活ばかり苦しくなりますから経済と物流が滞りがちに。
すると益々物資は不足し、物価が上昇してインフレになりました。
これにて日本円で生活する以外道のなくなったのが中国です。
通貨スワップなどという甘い罠に何も考えず引っ掛かった時点で戦略は概ね成功。
あとは中国に神野家の建設会社が入り込んで大量のインフラ工事の事業を発注し、何十万の中国人に仕事を与え、給料を円で払うこととし、中国人が飛びつきます。
そうして中国国内の日本支持を固め、共産党員もお金をタダでもらえるので日本支持では同じことです。
あと忘れてはならないのが、国内の混乱と対立に目を付け、中国の地価が下がったところで買いまくったことも悪どいところです。
地価を操作しつつ、あらかじめ中国企業に一等地を渡さぬよう安い価格で土地を買い叩いておく周到さ。
あとは中国の一等地に神野家系の企業がフル稼動で進出し、わずか数年の間に中国を神野家の植民地のように仕立て上げました。
技術力と資金力と事前の準備の差で押しまくられ、産業の九割が神野家系企業に圧迫されているのが中国です。
現在二〇一六年ですが、現在の時点で中国は日本の傀儡、いえ奴隷国家です。
神野家が中国と日本の間にお金を行ったり来たりさせるだけで両国は常に経済を成長させ続けており、言わばツインエンジン体制です。
実は、日本へ行こうが中国へ行こうがお金は神野家の懐に入るんですけど。
中国の共産党員は日本の国会議員と同様年を追うごとに加速度的に減少しており、汚職が減りつつあり、治安も劇的に改善。
軍需産業はかなり低い水準まで縮小され、軍も相当に数を減らしました。
どうも神野さんは軍事のような非生産的な分野がお嫌いみたいですね。
チベット、ウイグル、モンゴルなどの民族問題も共産党時代に比べるとかなり目立たなくなるなど、それなりに良い面もあります。
それに、日本は別に中国から限界まで搾り取ろうって訳じゃないので民衆の暮らしも良くなりました。
中国で儲けつつ、日本の唯一の不安点であった安全保障を、最大の仮想敵国の牙を抜くことで補う事にも成功。
市場で基本的に円しか使わなくなった以上もはや中国は日本と同じようなもの。
神野さんはすぐに規制と行政の改革に乗りだし、戸籍制度の見直しや教育に関する政策を考え出しました。
言うまでもなく親日教育です。まあ日本の場合、中国とガチンコでぶつかったのは唐時代、明時代、あと日清戦争ぐらいしかないので言うほど反日的ではないですけど念のため親日教育をさせました。
そして日中の関税撤廃。日中間の貿易をスムーズにしました。
ついでに税制も改革し、共産党時代よりも税金は軽くなったらしいです。
何しろ国内のどこに税金を使おうと、どの道お金は神野家に戻って来るというマジックによって税金は軽くても大丈夫ですからね。
治安が回復し、そして神野さんは日本でノウハウがあるので、中国でも観光地に規制をしき、各地の観光都市を全速力で整備しました。
結果、世界からの観光客数は年々急増。最近の中国の熱狂的な好景気に日本も便乗して、日本中好景気です。
この件について学者の皆さんが結構本を出してるみたいなんですね。
そのお一人いわく、日本政府は圧倒的人口を誇る中国にいつかは日本が抜かされると先を見ていて、逆に今のうちに同化してその成長に引っ張ってもらおうという狙いがあったのではと分析しています。
確かに。普通に中国で儲けたいだけなら日本円を中国に使わせようと画策する意味もないですしね。
私もその意見に賛成です。
最後に紹介するのがこの法律。少子化対策には並行して孤児対策も必須です。
子供の全体数が単純に増えれば虐待を受けるなどして親を失い施設に入る子供も当然増えますからね。
これは恐らく自分の娘が施設に居ることを知っているからでしょう。
神野家は先ほど私が書いたとおり、海外からのインフラの儲けもあります。
全世界に既に数千ヶ所。年間数十兆円にもなるアガリがあり、この一部を国内の施設へ注いでいます。
神野さんが政権を握って以降、その額を増額すると決め、施設出身の子供は学費が全て無料。
生活費も大学卒業まではバイトしなくても生活できる程度には保証という厚遇ぶり。下手な親の子供より施設にいたほうがいいと言われる程です。
これは実質上、悪い親の始末を他の善良な人々が税金を払ってしているということですが、真面目な親が馬鹿を見ないよう児童手当もちゃんと支払われています。
結局損をするのはモテない男性。可哀相です。子供など自分には関係ないのに税金だけは払うんですから。
しかし、自分で志願して児童養護施設に入る子供も出ているあたり、神野さんの構想はプラトンを参考にしているのでは、と推察します。
プラトンは「社会において仕事の分担と専門化、細分化が合理的」と考え、子供を育てるのも専門家に任せるべきと説きました。
神野さんの構想もおそらくは子供手当の廃止と子供の養育環境の一律化なんでしょう。
そうすれば教育格差は格段に減り、子供への虐待も激減するでしょう。
確かに人間味が薄い政策ですが、人間味が薄いというのは言い換えるなら合理的ということでもあります。
私的には親が外国出身の移民でろくに日本語も覚えられず、学校もいけない子供とか、ろくな親を持てなかった子供にとっては良い制度だと思います。
何故私が神野さんの構想をこうだと考えたかと言うと、神野さんの少子化対策にはシングルマザーへの援助が含まれていないからです。
成人女性へのベーシックインカムも既婚女性のみ。
弱い立場の人を援助する政策をこれだけ打ち出してきた神野さんにしては冷たいですよね。
「シングルマザーとか言ってないで国に子供を預けなさい、その方が合理的だから」と内心言いたいのではないでしょうか。
自分の妻が自分亡きあとシングルマザーとして息子を育て上げたことを知っていてこれですから筋金入りです。
この国、日本は前提として民主主義ではなく、『神野王朝』の独裁政治であると言う現実があります。
「はい、この国好きにして良いよ」と言われた神野さんが本当にその通りに出来るようになっています。
結果、彼の政策が十三年後には実を結びつつあり、決して親が酷いわけでもないのに施設出身という子供が増えはじめました。
それで児童手当の制度を変えるという話が持ち上がりはじめている事は最近ニュースで知りました。
子供の居る家庭に定額で給付するのではなく、子供を産んですぐ施設に預けることを選択した場合、一回あたり五百万円が夫婦でもらえるという仕組みです。
仮に二百万人の子供が毎年生まれてその全てが施設に入れられるなら、年間で手当の額は十兆円という凄まじい金額です。
そして子供一人当たり年間百万円かかるとすると、それプラス二兆円ということに。
子供が毎年二百万人入ってきて、それが二十二歳までの世代だとすると、毎年四十四兆円を使うということになりますか。
なんか計算してみると思ったより少なく済んでいる気がします。
日本の税収は毎年七十兆円ほど。国家予算はそれに加えて前述したように世界から毎年数十兆円が勝手に入ってきます。
そして、神野家系のグループは世界中を蹂躙するほどの盛況を誇るので、純利益も恐らく数十兆円にのぼると思われます。
お金がありすぎてお金の使い道に困ってるくらいですから、十二兆円ぐらい安い物のような気さえしてきます。
しかもこの政策は子供を世話するというそれまで家庭で無料でやっていた労働を仕事に変えることで雇用を増やし、親世代は子供がいない分自由な時間が出来て旅行でも遊びでもどこでも行けるという良い面もあるにはあります。
さらにさらに。私は神野さんを褒めることに関して右に出る者はいないと自負していますが、まだまだ語らせてもらいます。
子供がみんなこの施設で育つという制度には為政者である神野さんから見たメリットが他にもあるのです。
それは神野さんや神野家にとって都合の良い思想を子供のころから植え付けるのに施設という閉鎖環境は相性が抜群に良いのです。
神野家バンザイ。神野王朝よ永遠に。神野家の政策はいつも正しいからそれに従っていれば良い。
そんな思想を植え付け、愛国心を植え付け、親と子供が暮らさない事が当たり前だと植え付けようとしているのだと、私は確信します!
とか言っていますが、私は神野さんの有能さだけは評価をしています。
前世からやってきた彼は、結さんが良心で中途半端に残していた民主主義という仮面を脱ぎ捨てる改革を果敢に決断。
プラトンの理想によく似た国家を作るという長期的な戦略を着実に実現しつつも、日本以外の国にインフラを続々建てて社会貢献も欠かしません。
しかも自分の理想の実現はそのまま神野家の支配体制の盤石化にも繋がるという抜け目のなさ。
彼は王の中の王だとイザナさんが言っていたのは単に「王の資質を持つ人間よりも更に上を行く生物界の王としての遺伝子を継いでいる」という意味ではなく、人を支配する政治力に長けた切れ者だということでしょうか。
さてここまで政治について長く語ってきた訳ですが、何故私が神野さんの有能さを褒めちぎったかはちゃんと理由があります。
結さんが彼を王に抜擢した事は結果として良かったと言えるでしょうし、見る目も確かです。
しかし何故、彼女はどうしても神野春雪さんを王にしようとしたのか、そこがわかりません。
何か裏がありそうなんですよ。まあ、それは後で聞いてみます。
さて、一年目で以上の政策を立て続けに打ち出した神野さんはまさに大改革者でした。
その仕事を結さんが手伝い、指導し、助言をし続けました。
そんな事をしている間に、神野さんは、結さんがまだまだ一人の女だということに気づいたようです。
まして、神野の男を強く引き付ける結さんの血筋の始祖である張本人。
その二人が昼も夜も一緒にいて、一つ屋根の下で寝起きしていて、体の関係にならない方がおかしいのでした。
ある日久しぶりに家に帰ってきた神野さんが倒れるように寝ていると、朝、物音に気づいて目が覚めました。
もう娘がどこかへ遊びに行っている日曜日の朝。午前九時頃に起きてきた神野さんは、二百年近く生きているだけあって料理も上手な結さんの朝ごはんを出されました。
この時、こんな言葉が口をついて出ました。
「I Love you in the morningという歌詞の出てくる英国の曲が好きでね……もちろん土曜日の夜は一緒に寝たって事だ」
「あら。あれだけ忙しく働いてて曜日の感覚あったの?」
結さんは自分の分のクロックムッシュをかじりながら言いました。
「ああ。働き通しで帰ってくると、毎週こうして結さんの朝食が食える。
俺にはそれがとても幸福で……ああ、そうだあの子は?」
「今日は友達とプール……十歳以来学校行けてなかったから中学校は満喫してるみたいね」
「何にせよあの子が人生をやり直せてよかった……未来に何かあったらしいが、それから逃がすため俺の息子が何かしたんだろうか」
「多分ね。で、日曜の朝がどうしたって、春雪さん?」
「毎朝言おうと思ってたんだ。だから今言う。俺にはあんたが必要だ。
あんたにも俺が必要なはずだ。同じだ。違うか?」
「うーん……」
結さんはペロリと口の周りについたパン屑を舐めとると、ねっとりと値踏みするような目で神野さんを上目遣いで見つめ始めました。
私は妖艶さなど微塵もない色気のない女の子だと自負してますが、妖艶さというのが何なのかぐらいわかります。
この時の結さんがそれです。色気は身長や年齢には関係ない事を私は学びました。
結さんは普段は無邪気な子供のようですらあるくせに、スイッチが入るとそれとはまるで別人です。
「まったく春雪さん。いつもそんな可愛らしくイザナを誘ってたのん?」
「いや別にそういうわけでは……」
少年の神野さんならともかく、三十代を過ぎた彼でも結さんにはなんか性格的に敵わないものがあって、たじたじのようです。
「若い体を持て余した男女が密室に二人きり。いつ襲われるか楽しみに待っとったのよ?
子供六人も産んだこんな体でよければどうぞ、好きに使って?」
六人どころかこのあと七人目も生むことになるんですけどね。
神野さんは頑張ってロマンチックに誘おうとしましたが、そもそも相手が悪過ぎました。
相手はそういうのに弱いタイプではなかったので、作戦は失敗でした。
実際結さんの言ってることも図星で、二人は血がどうしようもなく引き合うのを感じながらも頑張って耐えていたんですから。
神野さんと深いキスをしばらく堪能してから、結さんはベッドへ移動し、肘とよほろの部分で胸を左右から押さえ、手で膝を支えて股を開き、腰を浮かして神野さんを迎えるような姿勢で、こんなことを言い出しました。
「でも、ええのん? こんなことしたらもう後戻りは……」
「イザナの事は、もう一人の俺が幸せにしてくれる。
娘の恋を潰してるんだ、幸せにしてくれなきゃ困る」
「でも何で急にこんなことを? 春雪さんならいくらでも我慢出来たんとちゃうのん?」
「あんたも言葉を欲しがるところはイザナと一緒だな。
俺はどの道、国を導く道に骨を埋めると心に決めてる。
恩人のあんたと一生共にする覚悟は決めてる」
「へぇ。私と一生を共にするんなら不老不死くらいなってもらわんと困りますなあ……?」
「そんな方法があるのか? それを早く言ってくれ!」
「え?」
「あんたの人生の寂しさは、これでも良く知ってるつもりだ。
親は知らない。幼少期の記憶もない。細胞を変質させる力が暴走していたからだ」
「うん……」
「夫も子供も孫も曾孫も、みな自分より先に他界した。俺もそうなるべきだろう。
と思ってたが、そんな方法があるんなら何でもっと早く……」
「不老不死になるかどうかは、今まで夫や娘らに言ってあるわ。
全て断られた。そんなん今さら軽々しく聞けるわけないやん!」
さっき書いたのは訂正します。結さんは妖艶さと少女のような無邪気さを常に同時に持っているようです。
「あんたのためなら不老不死にでも何でもなってやる。
俺の命、こんなところで生きながらえてる意味は結さんと出会って未来に遺産を残す事だと俺は思っているから」
多分、未来に遺産を残すっていう言葉を、「子供を作ろう」って意味だと結さんは勘違いしたみたいでした。
年甲斐もなく真っ赤になって恥ずかしがりながら、自分で着物の帯を外し、神野さんも、後戻りする道を断ちました。
「不老不死に見合う対価を贈ると約束しよう」
ところが、突然色気のない事を神野さんが、まな板の上の魚のように自分へ身を委ねて来ている結衣さんを見下ろしてつぶやきました。
「何かしら……例えば一生分の愛とか?」
「冗談きつい。子供のときならともかくこんな中年男にそんなセリフ吐けるかよ。
あんたに贈るに相応しい対価は……そうだな……世界、かな」
いやそっちの方が万倍子供じみたセリフだとおもいます。
私と全く同意見だったようで、色気も吹き飛ぶような、噴きだし笑いのあと、結さんは上半身全体をヒクヒクと蠕動させ、目には涙さえ浮かべて大笑いしました。
「あっはっは。それ本気?」
「不老不死と引き換えだからな。俺が世界を征服し、世界政府を樹立して世界に平和と秩序を取り戻す」
「……でも何で私のためにそこまで? 金なら今でも使いきれないくらいーー」
すると、神野さんは帯の抜かれた着物の隙間から結さんの下腹部に手をやりました。
子宮のあるあたりでしょうか。
「自分の産んだ娘のせいで壊れた世界は自分が始末を付ける。そう思って、ここまで来たんだろう?
俺は医者の息子だ。必ず治療する。病んでしまったこの世界をな」
どうやら、そういう意味で下腹部に手をやったようです。
娘のせいで百年前世界が壊れた。どうやら私がトントンに見せてもらった家系図から導き出していた私の推理はほぼ正しかったようです。
「イザナの……事? どうやって知ったの?」
「若干興味があってな。少し戸籍を調べた。すると神野幸村の息子と結婚した四宮イザナの姿が。
父親は不明だった。だが母親は四宮結。七十六歳の時の娘。
直感したよ。この女性の父親は四宮家の男だな?
そして、俺達の時と同じで血が混じったとき何かが起きた」
「ええ」
「今さら昔の男に興味があるわけじゃないのは断っとく。だが具体的に言うと?」
「私の娘は次女までは最初の夫の子。
三女から下は……夫が先立たれてしかも子供も結婚してあまりに寂しくて、親類との間に子供をもうけた。
三人目と四人目の時は、正直言うと……神野家の人と……」
「あんたが研究所を守ってきたのには……娘が影響を及ぼしたせいで世界に蔓延した異能を消す事が最大の目的のはずだ。
だが異能が消えるだけでは世界に蔓延る問題は解決しない。
空白地帯という名の無法地帯。そいつが異能の消えた日からキチンと法律を守ってお行儀良くするわけもあるまい。
俺が全て支配する。首根っこを押さえ付ける。それが出来るのは多分俺だけだと思う。
それも、あんたの今までの努力という土台がなければ出来なかった」
「でも春雪さん、私は……」
と申し訳なさそうに顔ごと神野さんから目を逸らす結さん。
私は最初ピンと来ませんでしたが、神野さんは気づいていました。
「それも分かってる。長い付き合いだからな。
この世の異能が消えたとき、あんたは死ぬ。それを望んでる」
まさか、あの快楽主義的で脳天気っぽい結さんが死ぬことを切望していたとは全く思いもよらず、あっけにとられる私でした。
「二〇〇年間……本当に色々あったわ。歳を重ねるごとに、傷も荷物も増えていく。
春雪さん、軽々しく不老不死などと口にしないで欲しいわ!」
「死ぬための研究、百年もの間よく守ってこられたもんだな。
事情を知った今となってはイザナを研究していたのも怒るに怒れないな……」
「それはむしろ怒ってくれたほうがまだ気が楽よ……」
「何にせよ、不老不死の呪いは俺にもかけてくれ。
独りでは死なせない。百年の孤独に報いるには、俺にはそれしか思いつかないんだ」
そう言い終わったあとの神野さんを、下から結さんが引き寄せて抱きしめました。
二百年という長い苦行の果てに感情は擦り切れ、せめて外には見せまいと空元気ばかりが目立っていた結さん。
その彼女が本当の少女のように感情を剥きだし、泣き崩れていました。
「私は……二百年も……春雪さんと出会うために、ずっとさ迷ってたのね……?」
「俺がここへ送られて来てあんたと出会った理由など俺は知らない。俺は自由だ。
俺があんたと生きることを望んだんだ。俺の感情も何一つ縛らせない、俺を支配するのは俺だ。
俺が世界を手にする。そしたら二人で世界中の色々なものを見に行こう」
「そんなセリフも言えるのね……」
「死ぬのはそれからでも遅くないんじゃないか。だから俺と生きよう、死ぬまで!」
「ええ。生きさせて。あなたの側で。もう私から離れないで……」
そんなことも言うんですね、は私が結さんに言いたいセリフでした。
いつもは何だか達観した感じで飄々としている結さんとは思えないくらい、ひたすらに胸の中から込み上げる愛情と幸せを押さえ込んでいるような。
まるで初恋の人に告白したくても恥じらって出来ない乙女のようでした。
こんなおばあちゃんとその夫を知っていたら、イザナさんは仮に前世の記憶がなかったとしても、神野春雪さんに興味が湧き、憧れていたでしょうね。
「あの……」
「ん?」
「さっきから話してばっかりで、肝心なこと忘れてないかしら?」
「あ、話に夢中で忘れてた!」
それから神野さんは結さんの肉体に夢中になり、娘が戸籍を偽って中学校へ行っている間に、時間が許す限り互いの体を貪り続けました。
あえて、彼は結さんの肉体に夢中になったと書きましょう。
見るかぎり、そこには精神的な物は何もないように見えました。
ただただ遺伝子が互いを引き付け、その求めに応じているだけのように。
神野家は牛なだけに、おっぱいの大きい女性にしか興味がないようです。近親相姦に抵抗のない一族で、あまりに小さい娘が犠牲にならないための仕組みなのかもしれません。
結さんは小さい体なので胸も子供のようかと思ってたんですが、それは普段いつも着物を着てるからわからなかっただけで、脱いだら胸は結構大きくて、神野家の男性が興奮出来るだけの胸がありました。
神野さんの大きい体から生まれる衝動を結さんは小さい体で底なし沼のように受け止め切り、ついに妊娠しました。
しかしこの二人に限って、何の精神的なつながりもないのに子供をもうけるわけありません。
全く予想外に二人のラブストーリーを見てしまって私は胸やけ。
そして、もう一人の自分があそこまで結さんを愛していることに赤面を通り越して青ざめているのが、十五歳の神野さんでした。
彼は、私の方を向いて、こうコメントしました。
「やれやれ。穴があったら入りたい」
「やっぱり神野さんは前世を生きていても神野さんですね?」
「……そうだね。僕が同じ立場だったら同じ事をしていたよ」
「続きを見ましょう……」
「そうだね」
数年後、夏樹ちゃんが生まれ、結さんが実に七人目にもなる娘を産んで翌日。
母子ともに健康のためすぐ退院してきて、そして、戻ってきてすぐに、生まれたての娘についてこんなことを神野さんが言っていました。
「娘か……俺の子は女の子ばかりだな」
「そんな事より、ちゃんとした名前考えてきたんでしょうね?
私は性別が判明してからずっと我慢してたんやからね……」
赤ちゃんを抱えて結さんがそう言っているとき、自分の妹の顔を指して、十五歳になった真夏さんが叫びました。
「パパ、私の流星って名前は!?」
「あー、それはその……良い名前だと思うから俺の孫の時にでも取っておいたら?」
神野さんはゴミみたいなセンスの無責任なネーミングをしてきた娘に対し、無責任な事を言いました。
ちゃんと止めなきゃダメなんですけどね。
「わかったそうする」
「で、名前は?」
「……夏樹。昔、そう名付けた俺の子がいた。男の子だったけど、女の子にも使える名前にしておいて良かったな」
「夏樹? なっちゃんはそれでいい?」
「いいと思う。私のお兄ちゃんの事だよね?」
「ああ。絶対に忘れないようにしようとこの名前はつけた。
可哀相に。あいつは自分一人で一族が長年放置し続けてきた呪いや罪を背負って苦しんでる。
悔しいが何もしてやれない。あいつは俺のことを恨んでるみたいだが……それでも、いやだからこそ何かしてやりたいんだ。
そのためにも神野家の大規模な研究施設は何としても守る」
その施設のために苦しんだとは言えない傍観者の私たちでした。
「うん、私もパパと同じ気持ち。一族を根絶やしにはさせないけど、救ってあげたい!」
「なっちゃん、俺は何も地位や権力が欲しくて政治をしてるんじゃない。
あいつをいつか助け出してやるための研究さえ続けられればいいんだ。
今の世代では届かなくても、いつかその先で結果は実を結ぶかもしれない。
あいつにとって過去は呪いだろうが、俺達が呪いではなく、未来に遺産を残すんだ」
「それでこそ私の生涯二番目の夫!」
結さんは子供を一瞬にして真夏さんに押し付けるや、一瞬で神野さんの胸に飛び込んで甘え出しました。
これだけでも結さんにとって自分の産んだ娘がどういう存在か見えてくる気がします。
愛してはいるのでしょうが、別に世界一大切って訳でもなさそうです。
そもそも結さんからすれば子孫繁栄は既に成功していて、今さら末の娘に命かけるほどの事はないんでしょうね、単純に一個の生物として。
この時点から、実に五年が経過しました。




