五月二十八日
五月二十八日、土曜日です。
神野さんが来るというので私はいつものように盲導犬のシオと散歩しながら待っていると、携帯電話に着信が。
出てみるともう到着するという事でしたので家で待ち、朝の八時という時間に彼が来てくれました。
東京から来たので、当然早朝に起きていたらしく、ちょっと疲れたような声で玄関先の私に言いました。
「瞳。会いたかった。キスをしてもいいかな?」
返事を聞くまでもなく、私の手の甲にキスが落とされていました。
普通恋人同士でもそんなことしませんよ。私は何もツッコミませんでしたが。
「そんなことはいいです。いいですか、問題は一つです。
あなたはどうせ、私の目に見てもらうところはもうないと判断して、もう頼らないと言ってたんでしょうがあてが外れましたね?」
「図星です……」
「じゃあどう言うんでした?」
「どうか許してください! あともう一度だけ力を貸してください……わたくしが間違っておりました!」
「よろしいです。では行きましょうか」
思えば神野さんとシオと一緒に出かけた事はありませんでした。
彼は私の盲導犬になりたいとたまに言っている気持ちの悪い人なんですよね。
だからあの子はお留守番だったんですが、今日は三人でです。
問題はありませんでした。シオは私が彼に車から助け出されたのを覚えているのか、彼を信頼している様子ですからね。
そして二人で問題の場所へ行く途中、神野さんがこんなことを言い出しました。
「今日はデートなんだからプランを考えてきたよ」
「要りません。外出は必要最低限にせよとトントンに言われています」
「あ……そう?」
「それに、一つ言っておきますが私はあなたと恋人になるのは保留だと言ったはずです。
恋人じゃない女の子と出かけるだけなんですから、気遣いは無用です」
「違うよ。僕が、君と行きたいところがあるんだよ」
「なら後でという事にしましょう。あなたの事件はもはや終わりを迎えました。
次のステージ。過去を明らかにするという段階にきています。
一度首を突っ込んだ私ですから途中で放り出す事はありませんよ。
だからそれが終わったら心おきなく恋人らしいことをやりましょう、ね?」
「わかった……わがままを言って悪かった……」
神野さんは責任なんか感じなくてもいいのにうなだれました。
私はログを読んでいるので彼の考えていることはわかります。
彼は四宮家に行って情報を得ることは断念しました。
そのうえ、必ず私と言う名の恋人と別れざるを得なくなると半ば脅されて帰った形です。
悔しいはずです。怒るはずです。間違いなくその感情はあったのですが、彼はその一方で逆に嬉しがりさえしました。
私との間を邪魔する障害の登場に俄然燃えてきた、というわけですよね。
同時に焦りもありました。別れさせられる前に、恋人らしいことなど一度も出来ていない私と何か思い出に残るような事がしたいと。
私と彼の考え方は大筋では同じでも深いところで対立しました。
まさか、そんな深い事情があるとはこれを読んでるあなたも思いもよらなかったでしょうね。
神野さんは私と、別れさせられる前にデートがしたかった。
逆に私は、彼に《これで思い残す事はない》などと思って欲しくなかった。
「これで別れさせられたとしても、思い出は残せたからもう構わない」
そういう作戦に手を貸す事は嫌だったのです。
まるでデートを断る私がお高くとまった連れない女のようですが、その実、まるで本物のフランス人のように情熱的に私を求めて来る彼以上に、私の方が彼を好きなんですよ。
だから逆に受け入れられないんです。むしろ頑固に冷徹になります!
私は十分徒歩圏内にある、あの施設へと足を運びました。
その施設に関する情報も既にトントンが調べてくれていて、過去を見ることが出来ます。
あの施設とはこの市内に唯一存在する乳児院。
わけあって親がいない子供を育てている施設で、ここである程度大きくなって、もらい手がいない場合、子供は児童養護施設へ移動となります。
そこで鳰さんは育ちました。わかっています。
問題は乳児院にいつどうやって、彼女が引き取られたか。
私は予想をしていました。完全に予想を。あとは過去を見るだけでした。
トントンの調べによると、乳児院の入口付近に毛布にくるまった赤ん坊、つまり鳰ちゃんが無造作に捨てられ、夏の夜だったためもう少し発見が遅かったら熱中症にでもなるところだったらしいです。
「着きましたね」
「ああ。十五年前、あの二十代くらいの女が十代の時ここに子供を置いたか?
あるいは、他の誰かか。何にせよ奇妙な事だ。とても……調べてくれ」
「はい!」
約十五年ほど前に視点を合わせると、夏の夜の光景がこの目に浮かんできました。
夏の夜、ただ毛布にくるまっているだけの女の赤ちゃんを抱いている、小さな女の子の姿がありました。
月夜の明かりで十分にそれが誰かは視認することが出来ました。
それとともに、私は神野さんの過去を明らかにするという事が凄まじい難事であることも理解することになるのでした。
夏の夜、月明かりの下で赤ん坊を抱いているのは井上鳰さん本人でした。
では、この赤ん坊が井上鳰ちゃんというわけではないのか?
そんなわけがありません。赤ん坊は置き去りにされ、鳰さんは怯えたように走り去って行きました。
それが何を意味するかわからない私ではありません。
そして私は記憶には自信があるのでよく覚えているのですが、十五年前に現れた井上鳰さんは、もうすぐ十一歳になる井上鳰さんで間違いないです。
要するに神野春雪さんによって消し飛ばされた直後がこの姿と思われるのです。
つまり井上鳰さんというのは十歳のときに過去へ飛ばされ、しかもそれとセットで赤ん坊である自分自身を取得したのです。
取得したのち、井上鳰さんは乳児院に赤ちゃんを置き去りにしました。
もう一度言いましょう。井上鳰さんは自分自身を乳児院に預けた張本人だったんです。
言うまでもない事ですが四宮家で神野さんが出会った二十代くらいの井上鳰さんというのはこの時赤ちゃんを置き去りにしてどこかへ消えた井上鳰さんが、十五年の時を経て年齢を重ねた姿に他なりません。
つまり、この世界に井上鳰は二人存在したが今は五年前の事件で十歳の鳰さんが過去へ飛ばされたため、一人だけということです。
何を言ってるかわからないと思いますが、そうとしか考えられないのです!
私はとりあえず過去を見る視点を切って、隣の神野さんにこう報告したのでした。
「こんなところで悪いですが、私が見たことを伝えます」
「ありがとう。何を見たの?」
「確かにここで井上鳰さんが捨てられていました。でも、その赤ちゃんを抱いていて、置き去りにしたのは井上鳰さんでした」
「は……?」
「だから赤ちゃんを置き去りにしたのが井上鳰さんなんですよ。
あなたが四宮家で井上鳰だと紹介された大人の女性は十五年前、自分自身を乳児院に預けた井上鳰さん本人なんです!」
「じゃあ彼女は約二十五歳で、井上鳰で、時空を飛び超えたということか!?」
「当然時空を超えたのは五年前の事件であなたが彼女を次元の扉へ飲み込んだせいでしょう。
恐らくあなたのお父さんも同じく時空を越えているでしょう……未来へか過去へかはわかりませんが」
「そうか。過去へ飛ばされるなら未来へ飛ばされることも有り得る、か。
実際父は僕が二歳の時から飛ばされて八年後へ飛ばされたと見るべきだ」
「じゃあ夏樹ちゃんは?」
「さあ……あの子が過去もしくは未来から飛ばされてきた一族の赤ちゃんなのかな?
まあどっちにしろこれは相当難航しそうだな……こんな難解なことが起こっているとなると……」
「正直、あなたの産みの親が誰かすらかなり怪しくなってきませんか?
言いたくはないですがお母さんがあなたにやたら冷たかったのも実の子供じゃなかったからじゃ……?」
「まさか。本部長も僕の出自はとっくに調べて不審な点があれば突っ込んであるはずだ。
出生に不審な点はなかったはずだ。その道のプロである本部長が太鼓判を押すぐらいにはね」
「そうですよね……そうだったら既に教えてくれてるはずですもんね」
「しかし鳰か……これは頭がおかしくなりそうだが、まあよくわかったよ。
鳰は五年前消し飛ばされて十五年前の過去へ行き、赤ちゃんを乳児院に預けた。
それは十分わかった。だが肝心なことがわからないじゃないか?
つまり、その赤ちゃんを産んだ鳰の親とは? 鳰とは何者だ?」
「過去、もしくは未来の神野、四宮家の人間であることは確かでしょうね」
「うちの妹も同じだ……突然空中から現れた。鳰も妹も産んだ親がいないって事はないだろう。
だが親がわからない。鳰の親が誰か突き止める事が出来れば妹の親も見つけてあげられるだろうね。
もう僕の過去を見ることは……ただ僕だけの自己満足の域を越えてしまっている。
だからこれからもお願いしたい。君の力を貸してほしい」
「他人行儀ですね。私はこれでも幸せを感じているんですよ?
私はあなたに必要とされて頼られることがとても嬉しいです。
あなたも、目の見えない私が体を委ねて心まで預けているのが好きなんでしょう?
妹さんの世話をしているときもそう。そういう風に必要とされていることが幸せなんでしょう?」
正直、確認というよりはそう答えてほしいという懇願に近かった事は認めます。
「ならどうする? 君は僕がもう君の力を欲する事がなかったら、どうしたらいいのか迷ってしまうんじゃないか?」
「そうなんでしょうか……多分そうなんでしょうね……」
「あとどれだけ一緒にいる気か知らないが……僕は捜査が終わったあとの君との事も考えてるよ」
などとリップサービスを忘れない律儀な神野さんでした。マメな人です。
「私もですよ。別れさせられるっていうのが少し気になりますが」
「いやそれは僕の伝え方が悪かった。それは正確ではない。
正確に言うと、僕が君に別れてくれと言わざるを得ない状況に陥るだろうと四宮イザナに予言されたっていうのが正しい」
「引っ掛かる言い方ですね?」
「どうとでも受け取れる表現だね。思い知れ、とも言われた。
君と結ばれ得ないということを思い知れだとさ。そんなことを言われても困る」
「どんな風にですか?」
「言われると逆にどんどんムキになるよ。逆に何があっても君を離したくなくなる」
「とても別れたいなんて言いそうには見えませんね……」
「そうだね。そして奴らはこうも言っていたよ。熟した果実を摘み取るように。
君と僕の関係が盛り上がって来たところで完璧な一手を打って邪魔をする気らしい。
つまり僕と君が今、関係を深めていく事を邪魔する人間はどこにもいないよ」
「それに……人も居ませんしね」
朝の乳児院の前を通る人は少ないですし、少ない方がきっと社会にとっていいんでしょう。
私はこのまま神野さんとキスする気満々でしたが、貞操観念の方は厳しめに教えられていますから、そう簡単には体を許しません。
そこでこんなことを聞いてみました。
「ねえ神野さん。あなた鳰さんが生きてるってわかって、それでも私に甘い顔ばっかりするのはなんでです?
体だけが目当てなんでしょう。わかってますよそんなことは……」
「あ、もしかしてそれでユキくん呼びをしなくなったのかな?
僕的には呼んでほしいけどまあ、無理にとは言わない」
「質問に質問で返さずにちゃんと答えてください」
「君が好きだからだ。それ以外には何もない。清々しいほどにね。
鳰に未練はない。もちろん妹にも」
「それで?」
「もう時間がないのかもしれない。邪魔をされる。
もう何一つだってこの手から落としたくない。
あの時みたいな思いはもう嫌なんだ。絶対に離したくない。
君に甘い顔をするのは何故かと聞いたよね。それが答えだよ」
「すみません神野さん……私、面倒臭いですよね?」
などと言ってる私はこの時気づいていませんが、そう聞いている時点で既に面倒臭いです。
なぜなら、既に半ば「面倒臭くないよ、むしろそこがかわいいよ」と言わざるを得ない感じになってますからね。
にもかかわらず、彼は面倒そうな素振りなど全く見せずにこう言ってのけました。
「空気を読むのは苦手じゃない……君といると自然と口数が多くなるよ。
友達もいないし普段、全然喋らないのにね。君以外の誰とも口を利かない日もざらにある。
君が僕の言葉を、僕からの言葉だけを求めているなら、それに応えるのは幸せなことだよ?」
聞きましたかトントン。全国の男性に見習ってほしいですね神野さんを。
あと彼の言っていることはモードの書いて送ってくれるログを見る限り多分事実です。
彼、事件の捜査に関連してないことは全然喋りませんよね、あと生徒会でも。
「ええ。少し話しすぎですね」
「そうだね。ここへ来てからの会話で君が何度僕からの言葉を求めただろうか?
いや、蒸し返さないでおこう。ところで瞳、赤ちゃんを抱いて出現した十歳の鳰だが、ここへ来たルートを追えるか?」
「既に見ました。時空間系なのか何なのか、突然赤ちゃんを抱いたままの姿でここへ現れそして消えました。
ヘンだと思います。あの幸村さんも公園に突然現れて忽然と姿を消しましたし」
「手詰まり、というやつだね瞳。これ以上見るべきところがない」
「手がかりがほぼないですもんね。何か心当たりとかあるんですか?」
「まあ、ないではないけど……四宮家周りを調べる。
でも恐らく四宮家周りを調べようとしても妨害されるのがオチだろうな……」
「となると残るは何でしょう?」
「本部長に頼んどいた四宮家関連の資料の捜索。
そしてDNA鑑定。そのために髪の毛とかを採取してくる必要があるし、東京に帰ったらまた家へ行ってみるよ」
「あ、そういえば聞きたかったんですけど、今日はこっちに泊まりですか?
それとも今日のうちにまた帰ってしまうんですか?」
「いや。祖父の家があるしそこに泊まろうかなって」
「そうですか……よかったらうちに、と思ったんですが」
「君の家って、そう言えば言ったことないね。家には君とお母さん以外いない感じか?」
「ええ。トントンは同居してるんですが家を空けることが多いですし」
「あれ、本部長は子供はいないけど奥さんいるんじゃなかったっけ?」
「数年前に離婚を……子供が出来なかったので」
「ああ……」
神野さんは察してくれました。子供が出来ない原因がトントンにあることは、なるべくハッキリ言いたくなかったですからね。
「聞いて悪かった。君のお母さんは再婚とかは?」
「家にママンの新しい恋人が来た事はないですねぇ……」
「何か悪いな、そんな家でご厄介になるのは。でも君との関係は是非進めたい僕もいるし……」
「遠慮しないで下さいよ?」
「じゃあお言葉に甘えて。その前にデートしよう。いつものカフェで」
「ああ、毎度お馴染みのあのカフェでですか……」
その後の事は割愛します。盲導犬を連れて入れるバリアフリーなカフェで他愛もない話をしながら、神野さんが言ってくれる私への数々の愛の言葉に酔いしれる時間をしばらく過ごし、その後は神野さんは我が佐々木家で一泊しました。
今後の方針を二人で協議し、とりあえずトントンの調べてくれている四宮家の情報をもとにどこを捜査するか決めるという事に決定。
私は男の人どころか、他人を家に入れて泊まってもらったこと自体も初めてで、酷く高揚した気分のままろくに眠れず朝を迎えました。
え? 泊まって私と何をしたのかって?
ママンがいるので変な事はしてませんよ。私も彼も時間さえあればする気は満々ですけどね。
今日はここでログを終わります。しかし鳰さんって何なんでしょうか?




