五月二十一日・序
五月二十一日。土曜日です。
今日は帰省の日。ちなみに、それまでの間は特にこれといった事件とかはありませんでした。
朝早くからユキくんと一緒に登校。二度とないとは言いませんが、当分はこれで最後となる日です。
彼には、一切遠慮する事なく甘えることにしました。何なら、移動教室の時はお姫様抱っこで行ってほしいくらいです。
彼のほうもそれを望んでいました。互いに遠慮せず全身全霊で甘え、そして受け入れる関係を。
しかし人目もあるので、特に普段と変わらず学校での時間を終えてお昼には生徒会役員の会合がありました。
行ってみると、何やら岡本さんがプリプリ怒っているではないですか。
別に事件とはなんら関係のない話ですが、ちょっと記憶に残ったので記しておきます。
「全くもう!」
いつものように仕事もせずソファに座ったままくつろいでいる岡本さんが、今日は同じソファで怒っていました。
「どうしたんです先輩?」
女性にはなるべく紳士的な態度で労るように接するユキくんでさえ、岡本さんは異性と認識してないのか実に冷たい訳ですが、私は一応声をかけてみました。
すると先輩は案の定、心に抱えていた不満をぶちまけました。
「全くもう! ちょっと聞いてよ。私のパートナーいるでしょ?」
「ああ、バレンタインデーに作るパートナーの?」
「そうなの。せっかく男のパートナー見つけたのにさ!
せっかく契約したのにもう私との契約は更新しないで今年のバレンタインデーは別の子を既に相手として見つけてるっていうの!」
「それは悲しい事ですけど……恋愛とかパートナーとかいうのは、そういうものだと思いますよ。
ユキくんはどうですか。私、あなたの恋愛観についてちょっと興味があります」
そう。私は妹のモードに指摘された通りです。おしゃべりで恋愛脳。
寡黙な男性にはとても鬱陶しがられるタイプの女なのです!
そしてうっかり神野さん呼びではなくユキくん呼びしてますが、当時の私は気づいてもいません。
「恋愛観?」
「聞きたいです」
「私も聞きたーい!」
「興味あるわね」
会長も岡本さんも乗ってきたのでユキくんは正直に答えました。
「中世ヨーロッパでは厳格なキリスト教の倫理観で貴族が動いていたため、離婚は出来ませんでした。
しかしどうしても別れたい場合は教会により結婚自体が無効であると宣言を行ってもらうという形で別れていたそうですよ」
「いきなり何を言い出すの神野くん!?」
岡本さんは求めてた回答とだいぶ違うらしくて困惑し、ユキくんに軌道修正を訴えますが、彼はこういう人です。
話が長くなりがちな人です。それは会長も私もわかっていました。
彼は岡本さんを気にせず続けます。
「その後も離婚は罪悪というキリスト教的な教えは欧米で支配的でありつづけるも、近現代では離婚は当たり前の時代となりましたよね先輩。
僕が言いたいのは、結婚すらが一方的に反古にされても文句は言えない約束だってことです。
まして付き合ってるなんてただの口約束。付き合ってるっていうのは、その人とセックスしますってことじゃない」
「セッ……!?」
《岡本さん、そんなことで驚かないでください。年上なんですから》
そう私は思いながらユキくんの長い話に耳を傾けます。
「むしろ逆で、私はあなたと付き合ってるから、他の人とはそういうことをしない、という約束な訳ですよ」
などと、ユキくんは岡本さんに気を使ってストレートな言葉を、今度はボカしました。
すると岡本さんは納得してくれたご様子。
「うん……まあそうだよね……付き合ってるかどうかの線引きはそこだよね……」
「飽きられたらそこで負け。自分より優れた魅力のある人がパートナーの前に現れたらそこで負け。
恋愛っていうのは所詮そういう競争だと思っています。僕は佐々木さんと付き合ってますが……」
「ちょ、ええええええ!?」
岡本さんがさっきからリアクション担当としての役割を実に見事にこなし、今回も百点満点のリアクションでした。
そしてユキくんは岡本さんのリアクションを見たくて言ったのが明白ですが、ついでに私の反応も見ていたんでしょう。
つい先日彼は私に交際を申し込み、その試みは失敗に終わりました。
ですから付き合ってるという口約束を私と彼が交わした事実はありません。
それなのに岡本さんや会長に、そして私に聞こえるように「僕らは付き合ってる」と宣言した意味。
当然私の反応を見ているわけです。私はこの状況で肯定も否定もしません。
もし嫌っている相手だったら怒ったゴリラのように目を剥いて必死に否定しているところですよ。
つまりこの状況で黙っていることが意味するのは、九割肯定ということ。
ほぼ付き合ってると、岡本さん達やユキくん本人に対しても認めている態度です。
「付き合ってますよ。それとも会長、不純異性交遊はダメですか?」
「いえ……異性と交遊しても不純でなければ構いませんわ。不純異性交遊ではないのだから」
「ありがとうございます。とても論理的な答えですね」
と冗談混じりに言ってからユキくんは中断していた話を再開します。
「僕は佐々木さんと付き合ってますが、他に好きな人が出来たら止める権利はないと思っています。
彼女は仮に結婚した後でさえも、僕の物ではありませんから」
「そうですよ! 一番好きじゃなくなったのに付き合っていてもお互い不幸になるだけですからね!」
私は挑発するように言い、ユキくんは少し笑ってから続けます。
「その通り、僕が一番じゃなければ好きにすればいい。誰も口出しする権利はない。
僕の恋愛観はそういうドライな競争ってイメージです。もちろん僕の一番はいつも彼女ですけどね」
ちょっと笑いそうになりました。いや、人間って一番嬉しいときは単純に笑うものなんだと思いましたよ。
私は嬉しくて、ただただ笑顔が止まらず、遅れて頬に紅潮がやってきました。
「神野くん、それが言いたかっただけでは?」
「あはは、ばれたか!」
「ばれたかじゃない! 人が男にフラれたってのに惚気やがってこのミノタウルスがぁーっ!」
岡本さんはいつもの怒ったふりとかじゃなく本気でキレてるのが声でわかりました。
そして高校生にもなって男女で取っ組み合いの喧嘩に発展していました。
何かゴロゴロと転がってテーブルの足に体をぶつける音すら聞こえました。
「このサイコドクター野郎!」
「悪気はないんですって悪気は!」
散々喧嘩したあと、ユキくんは制服についたホコリを落とすためか、制服を脱いでソファの背もたれにかけ、突然こう言いました。
「先輩、ケーキ買っといたんですけど要らないんですか?」
「要る!」
「前回のお詫びですよ」
ユキくんは冷蔵庫へ行くと、キンキンに冷えたケーキを取りだし、すっかり機嫌を直した岡本さんと一緒に四人とついでにリス一匹でケーキを食したのでした。
さて二人で下校し、今住んでいる家の前に到着した私はユキくんにこう別れを告げました。
「あと数分で車が来る手はずです。しばらくお別れですね。
それとも、あなたも違う方法で地元へ戻るんですか?」
「ま、僕も一緒かな。親戚に車を出してもらうよ。
僕の爺さんは僕の言うことなら何でも聞くから」
「……現在、一族では唯一の若い男だからという理由で、経営一族に売り払う約束をしたからですか?」
私は言いにくい事を勇気を出して口にしました。
「売り払うというと人聞きが悪いが、まあ爺さんもうちの両親も、了承したんだろうね。
全く、何を被害者面してるんだって感じだよね。
今すぐモデルやアイドルにでもなれそうな女の子と結婚できて、日本一の金持ちになれる約束なんだからね」
「あ……やっぱり思ってましたか。四宮イザナさんは可愛いなって」
正直に言えば、私は四宮イザナさんには負けたと思ってます。
人類が到達しうる美しさの果てにいるかのような彼女に比べれば私などジャガイモですよ。
文章で表現することが叶わないのは残念ですが。
「何でもうちの学校は大学から小等部まであるそうだが……そこの中等部で三年連続ミス学園だったそうだね。
さて、今年のミス学園は佐々木モードか、それとも彼女の四連覇かな?」
「それも彼女が話したんですか?」
「ああ。ミスキャンパスも含めて十連覇する気満々だと言ってたよ。
おっと、医学部に進む予定らしいからもっとかな?」
「あの人一族の人間らしいですけどあなたとどういう続柄なんでしょうね。
たぶん、いとこよりは遠い血縁関係だと思うんですけど……」
「彼女の高祖母と僕の高祖母がいとこ同士らしい」
「ほぼ無関係!」
「そうなんだよ。ほぼ無関係なんだよ。彼女はそもそも四宮一族の出で、神野家に四宮の血は一滴も流れてないそうだ。
おかしい。絶対におかしい。そもそも大阪に住んでるとか言う経営一族って会ったこともないしな……」
「経営一族で娘しか生まれないのでその中のお嬢様とユキくんを結婚させたいと考えたのならわかります。
でも、四宮家は無関係って一体どういうことなんでしょうか……」
今から百年前より三十年間の暗黒時代が到来しました。
世界各地でスペイン風邪の流行とともに略奪、強盗、殺人が氾濫し、人口は激減していきました。
日本も例外でなく、混乱の渦が巻き起こり、しかもスペイン風邪が国内で広まり続けていた最悪のタイミングで関東大震災が発生。
言うまでもなく政府の機能が麻痺している中、人々はただただ混乱の坩堝にハマって飢餓や医療体制の崩壊に毒性の強いスペイン風邪の流行が重なって凄まじい死者が出たそうです。
今私たちがいる東京や関東一帯は一時は無人となり、難民が各地に押し寄せ、私たちの故郷東北地方や東海地方なんかは人口が爆増したため大混乱に。
まるでそれをわかっていたかのように、神野家は事前に大阪に拠点を移していたそうです。
そもそも、神野家は昔は奈良や京都の貴族だったんですし、江戸時代終わり頃東北に来るまでは関西にいたそうですから、里帰りみたいなものです。
そういえば関西とか関東って何で決めてるんでしょうか。
私はてっきり、岐阜にあるという関ヶ原から見て西か東かで分けているものだと思ってましたが違うみたいです。
いえ、まあその話はまた今度にしましょう。
とにかくそれ以降神野家は大阪に住むようになり、ついて来る事を許されず東北に取り残されたのがユキくんの直接の先祖らしいです。
そして大阪に行った神野家は明治、大正時代に神野博士らが残した研究を受け継ぎ、地道に人々に医療を施したそうです。
たとえどんな戦乱、混乱の時代であろうと人々には医療が必要ですし、悪い人だろうといい人だろうと医療関係者をないがしろにはしません。
むしろ悪い人の方こそ、思う存分権力を振るいたいですから医者の存在は不可欠ですよね。
そうして混乱の時代にあって神野家だけはある種聖域となり、傷つけられたり奪われたりすることなく研究や医療に専念する事が出来ました。
そして七十年前に復活したのが神野家の神農製薬。
この会社の薬が世界中でシェアナンバーワンとなり、それで儲けたお金でスーパーマーケットや金融、保険、リース業などといった儲かる業界を根こそぎ独占する大財閥になった、というのが神野家のサクセスストーリーです。
だから、東北の神野家の生まれであるユキくんは経営や遺産などとは無縁でした。
大阪にいる経営一族というのは謎ですが、一つわかったことがあります。
実はユキくんと結婚するという、あの四宮イザナさんの生まれた四宮家こそが真の実力者なんです!
大阪の神野家に力があるようには思えません。神野家の秘密が気になります。
何故東北の神野家は大阪に行く事を許されなかったんでしょうか。
こっちが本家です。神野博士直系の子孫はこっち。正統はこっちです。
何かがおこったんです。過去に何かが。
「おっ、そんな話をしているうちに車が来ましたね」
「そうだね。じゃあまた」
私は警察が手配した黒塗りの車に乗り込みました。
付き合っているならお別れのキスでもしたいところです人目がありましたからナシです。
さて、県を超えるというのも私からしてみれば大冒険です。
何しろ学校へ通うためモードが叔母夫婦の家に住むことになった事自体奇跡みたいなもので、私に至っては県外はおろか市外にさえ基本的に出ることを許されませんでした。
正直言うと百年前の時点では東北と東京ははある種一方通行。
東京が東北から若者などを吸い上げる事はあっても東北の県に恩恵はない。
そんな時代でしたが、今では対等なので、直通する広い高速道路もあり、だいたい二時間あれば秋田まで到着可能です。
お家に着くまでが帰省です。車が駅に到着すると、何故か下ろされました。
「アンジェリーナ様、ここまでです」
「どうしてですか?」
「刑事部長閣下がお待ちです」
「石黒さんですか!」
石黒さんは知り合いのおじさんで刑事部長。
正しくは県警本部の刑事部を総括する警視正だそうです。まだ四十代ですから超エリートですね。
これより偉い人は県警内部には県警本部長しかおらず、言うまでもなく本部長は私のトントンです。
例えるなら江戸幕府の一番偉い人が将軍として、この人は老中とかそんな感じです。
すいません。余計わかりにくくなったかもしれません。
何故かその石黒さんの迎えの車が駅前にしっかりと準備してありました。
「おじさん、どうしたんですか? 何故車を変える必要があったんですか?」
「迎えに来たよ。本部長は気が利かないみたいだからね?」
「そんなこと言ってるところ誰かに聞かれても知りませんからね?」
と冗談を言いつつ私は近づいて行きます。
既婚で私と変わらない歳の娘が居て、中学まではよく遊んだので、この人は家族同然です。
「いやぁ、瞳ちゃん大きくなったね」
「なってませんよ。どこも!」
私は思いついた時に身長や胸やウエストを計測しているので、最後に会った時からほとんど変わらない事は知っています。
最後に会ったのはほんの二週間ぐらい前。適当なことばかり。この人の悪い癖です。
「えーと、ママンは?」
と車に近づきながら聞いてみました。
「土日はいつもレッスンがあるからね」
「ああ、そういえば。迎えがおじさんだけなんてちょっと寂しいですけど……」
「まあまあ。すぐ家まで送るから……」
「あっ、ちょっと待ってください。実は寄りたいところがありまして」
「ん? まあアイスクリームくらいなら買ってあげるけど?」
おじさんによくある勘違いです。若い女の子はみんなアイスクリームかミルクティーが好きだと思い込んでいます。
確かにそういう人もいますが、私は別に。
「違うんです。中原公園に行きたいんですけど」
「ああ、ここからすぐだなぁ。どうしたの?」
「依頼がありまして。すぐ終わると思いますから……ね?」
「わかった。お父さんに報告は?」
「ナイショで」
「ふ……いいね若いね青春だね。おじさんわかっちゃったぞ」
と言いながら石黒さんは車に乗り込み、私も乗り込みました。
後部座席から聞いてみます。
「わかったとは?」
「さては好きな男の子の子供のころの姿を盗み見して、可愛さに悶える気だな!」
あながちその推理間違いではないのが怖いですが、私は冷静に返しました。
「違いますよ。一部合ってますけど」
「やっぱり好きな……」
「いい加減にしないと車から降りて大声出しますよ」
「変わってないね。そういう丁寧口調で辛辣なとこ!」
「変わるほどの時間経ってませんから……」
私とおじさんはいつもこんな調子です。決して嫌いではないですが話は全く合いません。
駅を抜け、前衛的な建築の県警本部ビルが見えます。
ここにいる父にはまだ到着したと報告はせず、例の公園へ。
あ、今ここで説明しておきますが私の父はそもそも母と結婚しておらず、また、母は一度も結婚してません。
そして実質父親だったのは佐々木県警本部長。母の兄にあたる叔父なんです。
だからあの人のことは父とも表記することは頻繁にあります。
中原公園は私の実家がある県警本部のすぐ側からは歩いて三、四キロメートルくらいでしょうか。
歩いたら一時間くらいです。幼い頃ユキくん達と会わなかったのはしょうがない事ですね。
そこで井上鳰ちゃんは命を落とした。ユキくんに殺されて。
私は今でも答が出ません。ユキくんに何の能力もないのは明白です。
そして彼が鳰ちゃんを殺したのならば答えは一つしかありません。
彼は明確に殺意を持って鳰ちゃんを殺して隠した。
その上で父はそれを隠しました。父はこの事件に関与していた。
これが最悪の可能性。そしてその最悪の可能性が最も高い。
私はこの可能性を信じてはいません。父が隠したというのはともかく神野さんの鳰ちゃんへの気持ちは本物です。
あるいは、その愛は文字通り死ぬほど重く、生きている人間では受け止められないという事なんでしょうか。
《私も一回ぐらい男の人に死ぬほど愛されてみたいものですが、さすがに殺されて死体遺棄は勘弁です。
彼は、サイコなのでしょうか。サイコパス?
いや、動物と子供に好かれる人に悪い人はいませんよ。
何より私の人を見る目は確かのはずです!》
私は納得し、気分爽快にこう言いました。
「おじさん、そろそろ着きそうです?」
「そうだね。ところで、落ち着いて聞いてほしいんだが」
「はい?」
「なずな、覚えてるか?」
「忘れるわけないじゃないですか!」
なずなは私の幼なじみ。これもやはり同い年で、私は歳の離れた兄弟姉妹が欲しいとばかり思っていたので不満ではありましたが、中学までは仲良くしていました。
石黒なずなと言います。おじさんの一人娘でしたので、時折なずなに恋人でもいるか、と聞かれる事がありました。
スポーツが恋人の彼女からそんな話を聞いたことがなかったので、私はいつも知らないとしか言いませんでした。
私は彼女と友達だとは思ってましたが、目が見えなくなって学校に行けなくなって以降、二度と話す事はなかったので、所詮彼女にとって私はその程度の存在なのだな、と納得しています。
ユキくんのことを試しすぎたのもそのことがトラウマになっているかも知れません。
姉妹のように、親友のように接していた彼女が、本当に私が寂しい時には救いの手どころか、視線すら向けてくれないなかったことが相当私の中でショックだったみたいですから。
そのなずながどうかした、と聞きたくはありませんでした。
あまりよい答えが返ってきそうになかったので。
おじさんは前を向いたまま静かに言いました。
「なずなが誘拐された」
「なっ!?」
私はその言葉を聞いただけで、全てのいきさつ、これから起こる全てについてもたちまち了解してしまい、うなだれました。
おじさんは続けます。
「交換条件を受けた」
「私を渡せば……なずなは……」
「ああ。悪いがおじさんは、あの子の親だ。迷いはない」
「わかっています……」
「……くくく」
おじさんは、私の神妙な顔に思わず噴き出してしまった、という風にハンドルを握ったまま身を震わせます。
「くははは。冗談冗談。ジョークだって。なずなは元気にしてるよ」
「何ですかもう! 人がせっかく心配したのに! 人が悪いですよ、もうもう!」
「いやー悪い悪い。なずなは無事だよ。ただ、少し種明かしをしておく必要があってね?」
「はい?」
「実を言うとな。なずなと妻が病気なんだ。二人の治療費に莫大な金がいる。
言っただろ。おじさんはあの子の親だ。そのためなら鬼にでも何でもなってやる」
「え……ちょっと落ち着いてください、何を言っているんですか!?」
「これ以上言葉は要らないだろう。君は本当に純粋でいい子だね?
別に事前に待ち合わせていたわけでもなかったおじさんが待っていたのを、本当に何も疑わなかったのか?」
「え……トントンが気を利かせてくれたものと……ばかり……」
「ふん。おかしいと思わなかったか? 急になずなと疎遠になったこと」
「それは……少し冷たいなと思ってましたが……知ってたら戻ってきてましたよ!」
車が左折し、公園からは離れます。どこか遠くへ行こうというのでしょうか。
私はそれでも抗議を行います。
「あのですね! 私は知っていれば協力したのに! こんなことやめましょう?」
「いまさら止まらない。逆らえば命を落とすぞ」
「なら……なら……」
私はこれがこの人のためになることなのか、自信はないながらもこう言いました。
「それなら私は売られましょう。お金が必要なら私が何とかします」
私の目が使える事は誰でもわかるでしょう。
あらゆる暗証番号を知ることができ、やろうと思えば機密文書なども見ることが出来るかもしれません。
産業スパイ、銀行強盗。私の用途はいくらでもあります。
「言ってくれれば……私は働きましたよ。どうして言ってくれなかったんですか。
お金なら私が働いて工面しました。今からでも戻れますから……ね、やめましょう?」
おじさんの顔はミラーがあるのでよく見えます。
泣いていました。泣くくらいなら相談して欲しかったです。
泣きたいのは私ですよ。同情はしますけど。
「ありがとう。君はやっぱりいい子だ。とても。
本部長には娘の育て方を見習いたいくらいだな。
だがこれが別のやつだったら?
君をさらう奴が、別の組織だったとしたらどうする?」
「それは……」
と言いながら私はある事実に気づきました。
我ながら、自分が危ない状態で実に呑気なのですが、私は他人のことをつい考えてしまいました。
鳰さんが誘拐されたのは能力を見込まれたからじゃないでしょうか?
それで、神野さんが彼女を殺したというのは何かの間違いと。
それならよくわかります。
今までは特にどうとも思っていませんでしたが、自分と同じ境遇にある同い年の女の子のことを思うと胸が締め付けられます。
鳰さんは今も何かの能力を見込まれ、働かせられているのでしょうか。
死んだというのは本当でしょうか。今も生きているのでは。
「着いたな」
「どこにです?」
「おとなしくしていろよ。命の保証はないぞ」
「はい……」
フロントガラスから見える景色でわかりました。
住宅街にあるどこかの貸しガレージ。用意周到です。
ガレージが開くと中から車が出てきて、こちらの車は逆にガレージへ。
私は外に出され、バンに乗せられました。
運転席には中年男性が乗っていて、ガラスにはスモークが施されています。
明らかに誰かを誘拐するための車であり、プロの、組織の犯行で間違いありません。
経験上、こういう場合下手に抵抗してもかえって逆効果なので、私は無言のまま無抵抗で後部座席に乗り込みました。
「本当にうまく行ったな?」
「はい……」
おじさんは私の隣に座り、どこから手に入れたのか、私は手錠をかけられました。
「約束の金は後で払わせよう。しかしその子は凄いな。
噂通り可愛いし……『売れっ子』になれそうだ」
「冗談を……そんな勿体ない使い方はしないでしょう」
「冗談だ。我々に反感を抱かれても困るしな。できる限りVIP待遇はするつもりだ。
さて……お嬢さんをエスコートするか。しかし何であんた、この子の行動を知ってたんだ」
暴力団の人ですらさすがにおじさんの情報力は不思議なようです。
私も思います。一体どうして私の行動が知られてしまったんでしょうか。
事前に連絡は取ってないはずですが。
「警察の動きでわかった。県警に緊張が走っていた。
特に大きな事件も何も起こってないのに。そういうときは必ずこの子のこと。
あとは本部長を飲みに誘って理性のなくなってる本部長から詳細を聞き出すだけ……」
「優秀だな刑事さん。敬意を表するよ。持つべきものは信頼できる友人だな」
と運転席の男性が皮肉を言った時でした。
高速道路に入る前の信号で待っていた車を何かが揺らしました。
と、次の瞬間、きしむ金属音とともに、唸りを上げて私の座っている後部座席が傾き、私は一体何が起こっているのやらわかりません。
「なんです!?」
「畜生! 嗅ぎ付けられたとでもいうのか!?」
ありえません。でも、それしか考えられません。
運転席の人は素早く車から出るやいなや、次の瞬間には数発の発砲音と叫び声が私の耳に飛び込みました。
「クソ、こんなところで! こんなところで邪魔されてたまるか!」
おじさんも車から飛び出します。手には拳銃。
経験上私はそれが本物かくらいわかります。確実に本物です。
そして、十発以上の発砲音が車外から聞こえ、その後、完全な静寂が車内を支配しました。
《喜んでいいんでしょうか。私は助かったんでしょうか。
なら何故、私はこんなにも苦しくて悲しいんでしょうか。
おじさんが、誇りや友情や何もかもを捨てて、結局欲しがったお金どころか、全てを失った事が心に刺のように突き刺さるからでしょうか。
そうかもしれません。命が助かった事を、素直に喜べません。
せめてなずなだけでも助けてあげられないでしょうか。
難病で莫大なお金が要るのはきっと海外の超絶技巧をもった名医でなくては治せないから。それも奥さんまで病気で!》
私にとってはあの家の皆さんは、幼なじみで、友達でした。
私は、誰かに助け出され、命が繋がったまさに今この時、自分の無力を痛感しました。
私を誘拐した二人の男が静かになってから数秒、または数分。
何やら天井で奇妙な音がするかとおもったら、天井の鉄板が引き裂かれ、元から裂け目があったとでも言うように、天井が剥がれて外の陽光が急激に車内へ降り注ぎました。
誰かが車の上に乗っていたようです。
「ああ……ユキくんでしたか」
私はついうっかり、憎まれ口を叩いてしまいました。




