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ボーイとガールがミートして  作者: ニャンコ教三毛猫派信者
LOG 1
12/75

五月十三日

五月十三日。


翌日は朝一番で化学の授業でした。


「……であるからして、アボガドロのーー」


科学、物理などに多大な影響を与えたイタリア人というとレオナルド・ダ・ヴィンチやフィボナッチを想像しますがアボガドロの方が教科書でその名をお目にかかる機会は多いです。

それだけ学生を苦しめているわけですね。

私はギリギリ大丈夫ですがタイムマシンがあればアルキメデスかアボガドロをブッ殺すという人は多いかもしれません。


科学の授業が終わると次は体育です。私は可能な限り出席するつもりなので、着替えに更衣室へ向かおうと廊下を歩いていると、思いもかけず、神野さんに話しかけられました。

着替えない気かと思い、振り返ると無言で神野さんの瞳を覗き込みます。


「ちょっといい?」


「あの、何です?」


「その……いや何でもない」


「気になるでしょ。何なんです!?」


「言いにくいんだけど、もし本部長が真犯人だったとしても君達に罪はないと思う。

僕はあの人を殺すが、名誉を傷つける事はしない」


「何を言ってるんですか! 私も瞳もあの人を信じています。

はいはい優しいですね。私に構わず好きにしてください!」


うん。だと思いました。それしか話題はないでしょう。

まさかデートに誘って来るはずもありませんし。

私は手酷く神野さんをはねつけました。こんなの誰でも怒りますよね。


「わかっ……た……」


と私に背を向けた神野さんに、私はうっかり失念していたことを急いで言いました。


「あの、女の子はどうしました? 今日もダメだったんですか?」


「全く酷い目にあったよ。認知症の身内を介護してるみたいだった」


「じゃあ……朝起きたら全部忘れてたんですか?」


「うん」


「何とかしてあげたいですね……」


「細胞を自由に変質する力が暴走しているって」


「何とか訓練つけてあげられないものでしょうかね。

可哀相に。十歳前後の子供なの……に……?」


「どうしたの」


突然気が狂ったように床の一点を見つめて硬直しだした私を神野さんは心配して私の肩を抱いて来ました。


「あ、違うんです……私……恐ろしい事に気づきました」


「というと?」


「あの子って……鳰ちゃんでは?」


「なんでだよ……」


神野さんはさすがに呆れて私をバカにしたように苦笑いしました。


「あの子と同じく、あなたのことを好きな女の子って……彼女以外は知らないもので」


「鳰とは年齢が合わない。鳰が僕のことをそんなに好きだったかも、正直怪しいよ。

僕にとって彼女は唯一でも、鳰にとってはその他大勢の一人だったはずだ」


「細胞を自在に操る彼女なら何でもありでしょう。

十歳のときの姿と変わらない、というのも頷ける話です。

彼女はあなたのことだけを思って記憶を失いながらさまよい続けていたのでは!?」


「顔が違う」


そうです。過去に報道された写真を見るかぎり、鳰さんはタレ目でレッサーパンダのようなかわいらしい顔をしています。

そういえば、うちの学校にいる桜井千春さんも同じ系統の丸っこいタヌキ顔ですね。

一方あの子は目が大きくて釣り目、顔が小さくて口や鼻が小さい。

美人な猫系の顔です。神野さんも猫顔。私もそっちに分類されるかとおもいます。

謎の少女も鳰さんも美人かとは思いますが、系統が随分違うように思います。


「それは私も知ってます。でも彼女は自分の顔すら覚えてないはずです」


「うーん……?」


「それに思い出したんです。例のネズミは、彼女の血筋に近いほど神野家と引き寄せ合うと言ってました。

あなたが鳰さんと引き寄せ合ったのは、実はあの女性の娘だからだとしたら……?」


「鳰は捨てられていたんだろ?」


「何かが起こったんでしょうか……あるいはあの人は井上さん?」


「さあわからない。しかし……あの時消えたはずの鳰が生きていて、誘拐犯から逃げたはいいが、記憶を失いさ迷い続けて、僕と再会した……か。

よくそんなロマンチックな仮説を考えつくね? いや嫌味ではなくて」


「嫌味でしょそれ!」


「嫌味じゃないって。褒めてる。そうであれば……嬉しいよ。

いや。そうでもないか。彼女の記憶を取り戻す手だては存在しないからな」


一瞬明るくなりかけた神野さんの顔がすぐに暗く陰りました。

この人が、明るい顔を私に見せてくれるようになるのはいつの事でしょうか?

少しだけ胸が痛みました。最初は怪しんでいました。でも、今では瞳と同じで救ってあげたいと思っています。

私は今まで遺族の方や被害者の感謝と笑顔の感情を見たくて父の仕事に極秘で協力していました。

そのために私の目が必要になるなら喜んで助けようとしました。

今、父から散々きつく止められているというだけの理由で、こんなにも苦しんでいて、必死な人を放っておいていいものでしょうか?

もちろん神野さんの家にいる女の子の事も出来れば居場所を見つけて、救ってあげたいと思っています。


「能力の訓練をしてあげればきっと……」


「もしかすると、記憶をこれ以上失わないようにはなるかもしれない。

でも、一度失ったものは二度と取り戻せない」


私は本当に大切なものを失った事がありません。

失った事のある人の言葉に圧倒され、二の句を継げないでいると、神野さんが表情を変えました。

明るくはならなかったものの、優しい心配そうな表情を向けてくれます。


「あ……ごめん。つい癖で」


「全く。あなたはいつまでも悲劇の主人公気取りで!」


気付けば私は説教を開始していました。私の心境は、神野さんにはわかるはずもないでしょう。

急に怒られたと縮こまる神野さんに私は続けます。


「暗いんですよ。不景気を移さないでくださいよ。

わかりました。その顔はもう私は見飽きましたから」


「ごめん……」


「だから、私が協力します。事件の謎を解いて、あなたが笑って暮らせるように。

その方が瞳も喜びますからね。私もあなたに不景気をばらまかれずに済みますし」


神野さんは顔を伏せました。手で顔を隠して泣いています。よっぽど感動したんでしょうか。


「でもさっきは……」


「嘘をつくわけがないでしょう。私はあなたのことも、鳰さんの事も助けるつもりです」


そう言い終わった瞬間には神野さんは顔を上げ、彼は目の周りを赤くしてこう言いました。


「ありがとう。それしか言う言葉が見つからない」


今にも抱き着いてきそうなので私は二、三歩距離を取りました。


「お礼にはまだ早いですよ! それは事件を無事解決に導いてからです!」


「わかったよ……そろそろ行かないと遅刻するね。それじゃまた今度」


「はい……」


会話が終わってから、私はうっかり勢いで予定を変更し、神野さんに全面協力することを約束してしまったことを思い出しました。

今更取り消しは効きません。何なんでしょうか、あの人は?

別に何かしているわけではないのに、私は強く心を動かされてしまいました。

何が動かしたんでしょうか。いや。神野さんのせいにしてはいけません。

私が、私の意思で父に反抗したんですから。私はつくづく甘い人間です。


でも私は無反省にこれから何度も同じ事を繰り返す事でしょう。

そこは変えられないと思います。

私は五分近く話していたのでかなり時間に遅れそうになりつつも、着替えを済ませて体育の授業に出ました。

それからしばらく、私たちは全く他人のふりをして過ごしましたが、その一方で私は神野さんの事がやけに気になって観察を続けます。

どうも彼、友達らしい友達がほとんど居ないのですが、ただ一人、桜井さんとだけはたまに何か話しているようです。


会長や桜井さんも怪しいですし、神野さんも何か秘密がありそうです。

正直な話、彼の抱えている秘密のために鳰さんが事件に巻き込まれたのでは?

そんな気がします。それならば父の言っていたことも合点が行きます。


父は、神野さんは鳰さんをどうこうしていないとハッキリ言っています。

事実とみて間違いないでしょう。

鳰さんが消えたのが神野さんの抱える何かの秘密のせいだとすれば、彼は知って後悔するでしょう。

間違いなく、そのシナリオこそ真実だと私は確信しました。

父はその何かを見てしまい、神野さんを守るために嘘をついたのでは?

こうして体育、次の英語と次の国語の授業を終えるとお昼ご飯の時間です。


私は友達と、神野さんは一人で食べていると、そこへ予想外の来客が。

窓を開け放った夏の日の教室にチョロチョロとうごめく小さな黒い影。

その影がジグザグに動き回りながら床の上を駆けて神野さんの机にまで上ってきました。


「リス!?」


リスが机の上。アメリカの公園の木陰なんかにいて、どんぐりやナッツをいつも口に含んでいるあのリスです。


「神野さま、先日命の危ないところを助けて頂いたリスでございます!」


「リスなんか会ったことないけどなあ……」


「寝たら忘れるワタシより忘れっぽいんですね神野さま!」


と問答しているうち、すぐこのことが教室中の話題を集め、やじ馬が神野さんのところへ寄ってきました。

居心地が悪そうな顔で冷や汗をかいているようです、彼。

目立つのが一番嫌いそうですからね。

一挙手一投足を観察されながら神野さんはリスと話を続けます。


「お礼にどんぐりくれるって言うんなら一応受け取っておくけど」


「いえいえ。ワタシは命を救って頂いたあなたさまにお仕えしたいのです。

このシマリス、命を懸けてもあなたをお守り致しましょう!」


「何から守るんだよ……」


「あっ、ついでに小銭あげますよ!」


どこから拾ってきたのか、リスはしっぽのくるくると口の中から百円玉を三枚、十円五枚を出してきました。


「しめて三百五十円です! 五百円分おごってもらいましたから、今日中にあと百五十円拾ってきますね!」


「いや、いいって。お礼はもう十分だよ。ポケット入る?」


「入ります!」


神野さんの腕を駆け上がり、リスが胸ポケットへ入った瞬間女の子達から悲鳴のような叫び声があがりました。


「きゃー! かわいいー!」


「いやーどうもどうも。喋るリスですはい。もちろん本当は人間ですよ!」


とリスが神野さんの胸ポケットから上半身だけ出して言うと、桜井さんがすごい形相でそこを見ていました。

神野さんも気づいているはずですが、私は確信しました。

確実に彼女はリス、つまり謎の女の子のことを何か知っています!

そういえばこの前のネズミ、いやこれは記憶喪失の女の子ですね。


桜井さんは神野さんに駆け寄ってきて、こんなことを言い出しました


「そのリス本当に命を助けたの?」


「いや別に。命を助けたなんてそんな大したものじゃ。

強いていえば、この子に売った恩は今朝たまごサンドとから揚げを奢ってあげたくらいかな?」


「もしかして名前は、ゆい……とか名乗ってなかった?」


あっ。一瞬、神野さんと私は無言のまま目を見合わせました。

私と彼の心は今、一致していたのです。

ゆいという名前は知りませんが、間違いなく桜井さんは女の子の素性までも知っています!


「ちょ、ちょっと千春、来てもらっていい?」


「いいけど……」


「じゃあリス、しばらくみんなの相手をしといて」


リスを胸ポケットから追い出した神野さんと桜井さんは、そそくさと教室から逃げるように退却し、恐らく人気のないトイレへ向かったものかと。

私は盗み聞きするのもアレなので無視します。


ややあって神野さんが教室に戻ってみると、数人の女の子にまだリスちゃんが愛嬌を振り撒いている最中でしたが、神野さんを教室の入口で見つけた瞬間、リスは彼のところへ飛んでました。

すぐに足を器用に駆け上がり、肩に乗って耳元で囁いています。


「何話してたの?」


「別に……何でもないよ」


神野さんはとりあえずさっきの会話については隠しておくということでしょうか。

うかつに話しかけられない雰囲気を感じ、私は大人しく一人と一匹の様子を観察することに。

胸ポケットに入ってきたリスの頭を撫でると、神野さんは言いました。


「リス。もう帰れ。いいな?」


「はーい。じゃあ……私帰りますね……」


リスは「とちとち」と爪の音を立てて床を歩き、窓から出ると、そのまま見えなくなりました。

女の子たちの間でため息がもれます。


「もう終わりかー」


「結局あの子何だったんだろう?」


「どういう関係性?」


神野さんは無視して下校時刻まで、もっぱら右隣りの方にいる桜井さんの横顔を睨みつけて過ごしていました。

そして、反対方向からも私が桜井さんを目線で焼き殺しそうなほど凝視していましたが、彼女は素知らぬ振りです。

神野さんは私とも特に話をすることもなく、普通に一人で家へ帰りたがっているようなので無理に声はかけず、彼がこの前瞳にしたのとは反対に、ストーカーのように数十メートル後ろを隠れながらついていきました。

今日も桜井さんは誰かに呼び出されたのか、気配がしません。

私と神野さんは途中別れてそれぞれの家に帰るはずなのに、私は何故だか彼のことを追いかけて神野家のすぐ近くまで来てしまいました。

私は何をやっているのでしょうか。


「行儀よく待ってたね?」


と言いつつ神野さんが距離を詰めると、神野家の前で行儀良く待っていた例の女の子はこう返しました。


「ヒマだから図書館で漫画読んでた……あと小銭集めと……動物に変身して食べもの恵んでもらったり……」


「悪い。もう十分わかったよ。鍵を渡すから家を出入り自由にしていいよ」


「やった! お兄ちゃん好き!」


リスちゃんが神野さんに玄関先で抱き着いて。うらやましいです。

私だってあんな可愛い子供に懐かれたいです!

神野さんはされるがままにし、そして彼女を腕の中に抱いてこう言いました。


「君の記憶喪失は能力の練習不足にあると思う。

ヒマな時は練習した方がいい。僕も付き合うから」


「わかった」


神野さんは今にも家に入りそうです。私は窮地に立たされました。

気になります。とてもその続きが気になる訳ですが、私はやむを得ず声をかけることを断念しました。

いえ。嘘です。ここで声をかけなければいつかけるんでしょうか!?


「あの、神野さん!」


「あ! なんで君がここに!」


「そんなことはいいですから。上がっていいですか、話したい事が!」


「あ、ああ……どうぞ……」


と言った神野さんに例の女の子が、私を全く知らない人のように怪訝な顔して指差し、聞いています。


「誰アレ?」


「僕の顔見知りだよ」


「あれっ、顔見知りから一個もグレードアップしてないですよ?」


と言うと、神野さんはヘラヘラ笑ってごまかしました。


「そうだ。忘れてた。とても大切な人だよ」


女の子は目を伏せ、私を邪魔だと思っていること明白でした。

お兄ちゃんと二人きりだとでも思っていたのでしょうか


「そうなんだ……」


神野さんはたまに失礼です。

私は早速声をかけたことを後悔しながら神野さんの家へ。

ちゃんとした一軒家です。どうやら一人暮らしではなく家族と暮らしているようです。

例の事件のあった小学校五年生からずっと東京、ということでしょうか?


家へ上がらせてもらい、リビングでお茶とお菓子を神野さんは出してくれました。

几帳面なひとです。私はそれにはまだ手をつけず、彼より先に口を開きました。


「この子に名前はつけましたか?」


「付けたら情が移るだろ。だからつけていない」


「そうですか……」


女の子も眉尻を下げ、捨てられた子犬のようです。

いえ、子犬のようだというよりは、そのものでしょうか。


「この子は今日引き取ってもらえるはずだ。結局、その方が一番いい」


「私の家でなら引き取ってあげられるんですが……」


「確かに君のところなら……でも迷惑はかけられない。

この子も、納得してくれたことだ。しょうがないよ」


「神野さん、やっぱりダメですよこんな!

名前をつけてあげましょう! つけてほしいですよね!」


と女の子に振ると、彼女は力強く頷きました。


「うん。私は、お兄ちゃんの付けてくれる名前なら、なんでも……」


やれやれ。しかしどうしてこの子はそんなに神野さんのことが好きなんでしょう?

優しいしそれなりにかっこいいし、まあ、ストーキングさえなければ気持ちはわからないでもないですが、異常です。

昨日の事を必ずすべて忘れるというこの子が、朝起きる度にこの人を好きになって。

ああ。どうしよう。なんだか少しだけロマンチックで、羨ましく思ってしまう自分がいます。

朝起きる度、私は運命の人と古くて新しい恋に落ちる。何て素敵なんでしょう。

実際に自分の身に彼女と同じ災難が降りかかるなら、絶対に勘弁してほしいですが。


「よし。じゃあ一つ提案だ。佐々木さんは何かアイデアある?」


「え……神野さんは、春雪でしょう? 季節系の名前がいいですよね」


「ああ。性別すら本当はわからないんだよな……千秋とか、冬なんとか、とか?」


「夏とか、同じ春でもいいですね?」


「ああ。じゃあ決めたよ。春の次は夏。君は神野夏樹(じんのなつき)だ」


「……その名前、知ってる。ああ。知ってる。それは私の名前!」


「何だって?」


私も神野さんも予想外の夏樹ちゃんの反応にどうしていいか、どぎまぎとします。

そんな地雷を踏んでしまうとは。いや踏んでよかったんですかね。


「わたしのなまえ! 夏樹! 私、夏樹!」


「あ、ああ……それなら、それは、よかった。ちゃんと今後も覚えてるんだぞ?」


「わかった……」


神野さんも夏樹ちゃんも落ち着きを取り戻し、座るのを待ってから私は切り出しました。


「なら私の姉に頼んでみますね!」


「姉がどうかしたの?」


「瞳はビーズアートという手芸の一種をやってまして。

要するに私なんかよりよっぽど女の子らしい子なんです。

夏樹って描いた何かを作らせますから、必ず届けに行きますからね!」


「そうだったか……」


「ありがとうお姉ちゃん……さっきから、すごく嬉しい……」


語彙が何も出てこなくなった夏樹ちゃんは食卓を離脱すると私に抱き着いて来ました。

ああ。可愛いです。瞳は双子なので、もっと年下の弟や妹が欲しいと密かに思っていた私にはこれはご褒美過ぎました。

髪の匂いも服の匂いも神野さんそっくりで、何から何までお兄ちゃんの真似をしているのでしょうか。


改めて神野さんが羨ましく思いました。


「神野さんには、夏樹ちゃん以外にも妹がいましたっけ?」


「というか、君は僕の個人情報を聞きに来たのではないのか?」


「え……まあ、はい」


本当は成り行きでこうなったとは言えない私でした。


「妹とは仲は悪くないけど、正直、最近不気味なんだ」


「といいますと?」


「なんかこう……実を言うと夏樹ちゃんと妹は、顔が似ている」


「そうですか。これは是非ともDNAの鑑定が必要ですね?」


「君の考えている事はわかる……」


神野さんは棒状のクッキーにチョコレートが塗り付けられた美味しいお菓子をつまみ、膝の上の夏樹ちゃんに手で与えながら続けます。


「僕が誰の子か……そこをはっきりさせようというわけか」


「まあ、その目的も当然あります」


「……DNA鑑定をすれば、それが明らかになる可能性は決して低くはない。

信じたくないけど僕の親類の誰かが、下半身が自由なんだろうね。

いや、父は立派な人だと思うよ。夏樹ちゃんをしばらく面倒見ることも同意してくれた。

小児科医でね。僕は父を心から尊敬してるんだよ」


「はい……」


はい、としか言えませんでした。他に何と言えばよかったのでしょう?

神野さんはまだお父さんの話を続けます。


「うちは医者の家系でね。神野(じんの)という名字は中国神話の神、神農(しんのう)を信仰している一族だからで、四千五百年前は中国にいたんだそうだ。

神農は医学薬学、農業、商売などの神で、食料事情が危ういと聞けば人々に農具と農業を教えた。

人々が病気と聞けば野山を駆け回って体によい薬草を片っ端から吟味して、自分の体で試したんだそうだ。

その話を小さい頃から本で読んだり父に聞かされたりして、神農は僕のヒーローになったよ。

誰かと戦う勇ましい神じゃなくて、ただ純粋に命を守ろうとする姿が、僕の理想になった。

医者になって子供を守る父の姿はそれと重なって、だから僕は本当に父を尊敬してるんだ」


「そうですか……私がもしお医者さんになるとしても小児科医は選ばないでしょうね。

あんな仕事サイコパスしかできないと思います!」


「ああ。僕もそう思う。痛がる子供や絶望する親を見ても、医者だけは平静を保たないといけないからね。

僕は無理だ。メンタル弱いから。僕は医者を目指してるけど、小児科はちょっと……世の中に必要な仕事だけど……」


私はとある事情で子供が死んだ事件に携わり、お葬式に出たことがあります。

まず目に飛び込んできた棺桶がとても小さく、私はそれだけで頭を金づちで酷く打ちのめされたような気分になり、今にも倒れそうになりました。

人生の酸いも甘いも噛み分けたお年寄りの葬式は、別にそこまで泣いてる人はいません。

あるいは早く死ねとさえ少なからず思われていたかもしれません。

でも子供のお葬式はそんなものとは桁違いの地獄みたいに冷たくて重苦しく、刺々しい雰囲気が立ち込めています。

母親の言葉にならない号泣、咳すら許されない張り詰めた空気は二度と味わいたくもありません。


私は、このような地獄を引き起こすかもしれないプレッシャーと戦いながら治療を行っている神野さんのお父さんには尊敬の念を禁じ得ません。


「何を隠していようとそれは変わらない。でもあとで調べよう。

それじゃ、僕も君にそんなに付き合ってる時間はないから勝手にさせてもらう」


「えっ?」


「この子は……ちょっと練習が必要なんだ。それじゃ」


神野さんは夏樹ちゃんを膝から下ろすとそそくさと二階へ行ってしまいました。

私はそれに続いて二階へ行かざるを得ません。

考えてみると他人の家の他人の部屋に入るのは、捜査以外ではあまり経験がありませんが、不思議と緊張はしません。

神野さんは保育園の先生みたいに図鑑を開いて夏樹ちゃんに見せます。


「これが熊の手だ。これがティラノサウルスの手。猫の手。タコの手、イカの手。

五本の指で全部同時に再現してみるんだ。ほら、はじめ!」


「ええ……いきなりそんな修業編? ジャンプだったら打ちきられるよ?」


「ごちゃごちゃ言うな。僕も面倒臭いんだ毎朝毎朝同じ事言うのは。

早く早く。修業しなさい。出来たら教えて」


「ええ……」


神野さんは夏樹ちゃんに背を向けて机に向かうと今日出された課題にとりかかったではありませんか。


「それじゃ神野さん、手が空いたと思うので大変重要なことを聞いていいですか?」


「ん? どうかした?」


「いや、それがですね……神野さん、鳰さんには何と呼ばれてました?」


「ユキくんって呼ばれてたよ。ハルくんだと千春と被るからね」


「瞳にそう呼ばせていたのは、つまりどういうことですか?」


「鳰にそう呼ばれていたから。だから、他の誰にも今まで絶対呼ばせなかった。

瞳のことは特別扱いしているつもりだし、あの日の思い出は彼女と一緒に上書きして、忘れるつもりでいる」


「わかりました。私からは何も言いません……勉強しますか」


私も幸いにしてかばんは持ってきていたので私も神野さんの隣で課題をやることにしました。

神野さんは医者を目指してるというだけあって、目をつぶっていてもできる、という風な顔で夏樹ちゃんの方を気にしながら勉強を進めていました。

十分後くらいに、神野さんのシャツの裾を夏樹ちゃんが引っ張りました。


「ねえ。出来たよ?」


私も振り向くと、リアルな五種類の生物の指を模写したグロテスクな指が。


「いきなりかよ! すごいな!」


「すごいですね夏樹ちゃん!」


「もっと褒めて褒めて。褒められて伸びるわたしです!」


夏樹ちゃんは照れるということはせず、その代わり嬉しそうに笑います。

我慢できないという具合のニヤニヤ笑い。わかりやすく喜んでくれて私達も嬉しいです。


「じゃあちょっと上脱いで」


「えっ!?」


神野さん。もしかしてあなた、そういうの平気な人なんでしょうか。

彼は何の疑問も持たず、年端も行かない女の子に上服を脱げと命令しました。


「はーい」


何の起伏もない上半身があらわになると、神野さんはそれを見下ろし、無理難題を出したんです。


「じゃあクイズ出すから胸と腹に毛を生やして文字を書きなさい。

その文字でクイズの答えを出すんだ。いくよ?」


「面白いね!」


お、面白いんでしょうか。何を言ってるんでしょうこの二人は。


「君には、もしかすると物忘れ防止に頭の体操が有効かも知れないからね」


神野さんは夏樹ちゃんを子供扱いしているのか老人扱いしているのかハッキリしません。


「いくよ。葬式とかけて、昼とときます。その心は?」


「なにそれ?」


「クイズだよ。そんなに難しい問題ではないよ」


「あっわかった」


夏樹ちゃんは、謎かけ初体験です。まあ当たり前ですね。

今日が人生初めての日にも等しいんですからね。

でもその割に、一瞬で答えを言い当てました。

夏樹ちゃんのお腹には、はっきりと「どちらもモーニングのあとです」と白黒のパンダのような毛で書かれていました。


夏樹ちゃん、子供の割に博識です。そんな英単語知っていたとは。

そして彼女が答えやすい易しい問題を神野さんが出す気がないことも理解できました。


「えらいえらい。能力も十分扱えてるし……頭もはっきりしてるね」


「でしょ? なんかほかに問題ある?」


「えーとね、超難問。これに正解出来たらハグしてあげよう!」


「ほんとに!」


仲睦まじい事ですね。二人の思い出の蓄積は一日分しかないはずですが。


「あと帰り道に買ってきたお菓子もあげようかな?」


神野さんは先ほど床に乱雑に置いておいたかばんの中身を指差しました。

中身がちらっと見え、夏樹ちゃんの興奮もマックスです。


「はやく! 問題!」


「じゃあ問題。ある葬式では、出席者みんなが泣いていました。

その会場で、故人の身内にも関わらず笑っている人物がいました。

その人物のことは誰も怒りません。不思議です。さてこれはどういうことでしょうか?」


「えー、それはやっぱり、笑ってたのは赤ちゃんだから、とか?」


「鋭い! さすが僕の妹だ!」


「ふふふふ……もっと褒めなさい。褒められて伸びるわたしです!」


「よーしよしよしよし!」


頭も撫で、ハグをし、神野さんたちはクイズを通じて親睦を深めあいました。

便乗して私もハグをさせてもらいました。

念のため言っておきますが、神野さんではなく夏樹ちゃんとです。


満足した私は夏樹ちゃんから離れると、彼女はすぐ神野さんにくっつきに向かいました。

まるで動物のように、彼女は神野さんに頭をスリスリしています。


「よーしよしよしよし、可愛いやつだお前は」


「私、お邪魔だと思うのでそろそろ帰りますね神野さん。

夏樹ちゃんも、なるべく早く記憶が戻るといいですね」


「はい……」


「送って行こうか?」


「いえ、お構いなく。神野さんは夏樹ちゃんと一緒にいてくださいね?」


「ああ……ところで、少しいいかな?」


「はい?」


神野さんはポケットから携帯電話を取り出すと、私の胸をドキドキさせるようなことを言ってきました。


「よければ連絡先交換できないかな。嫌ならいいけど」


「え……あっ。ふたりはまだそういう関係じゃなかったの?」


「そんな心配してたのか? 大丈夫だよ。ゴニョゴニョ……」


と神野さんが夏樹ちゃんに耳打ちを始めます。


「え、そうだったの!?」


「何をコソコソしてるんですか?」


私は何となく話している内容は察しました。神野さんは頭をかいてごまかしました。


「あー、まあ、よければ連絡先を……」


「わかりました。それでは……」


私は変な汗を脇や膝の裏などにかきながら、神野さんと連絡先を交換し、かばんに荷物を纏めて家を出ました。

この家のすぐ近くに私の住んでる家もあるので直後に帰りましたが、無断で予定を乱し、遅く帰ったことを怒られてしまいました。

私は管理され守られている。逆らう事は出来ません。

夏樹ちゃんのことを少し心配しつつ、私はこの日も自分の部屋で眠りにつきました。

春の次は夏の風が私の透明な心に吹き込みました。

春の雪は儚く解ける。それと同じように、夏の樹も短い盛期のあとは秋が来て、葉を枯らすのです。


などと詩的な事を思っているとうちに思いがけない来客がありました。

瞳です。あの現在を見ることの出来ない瞳が我が家にわざわざ乗り込んで来たんです。

玄関を開け、我が姉を目の当たりにした私の口から初めて出たのはこの質問でした。


「えっ、瞳。何で。どうやってきたの?」


「今日は十三日の金曜日ですね」


「……だから?」


「土曜日は学校なんですよね?」


「うちはね。うちは進学クラスだし」


「もちろん知ってます!」


「ちょっとま、まさか!」


私は気づいてしまいました。こんなところまで来た瞳の魂胆に。


「モードに会いたいと言ったら喜んでトントンが車を出してくれましたよ。

クックック。まあ続きは中で話しましょう……」


瞳はずけずけと中に入ってきて、私の使わせてもらってる部屋に乗り込んで来たではないですか。

私は瞳の魂胆が何かはお見通しなので、先手を打ってこう言っておきました。


「瞳。もし明日私に扮して学校に行こうというのならやめといた方が。

危険ですよ。それにすぐ見破られるかと思いますし」


「大丈夫です。こんなこともあろうかとカラコンを用意してました!

これで目を開けて過ごしても多分大丈夫です!」


「ああ、そうだ。まあ制服は貸しますけど、そんなことより大事な話があります」


「そんなことよりって……」


私は自分のナイスアイデアが無視されて怒っている瞳は無視して続けました。


「今日、神野さんと連絡先を交換することが出来ました。瞳にも教えてあげます」


「……モード、えっ。まさかモードもユキくんを狙って?」


我が姉ながら、正直言って一瞬殴ってやろうかというほどムカつく態度でした。


「何を言ってるんですか。向こうから言って来たんですよ。

瞳に教えてあげようと思ってその話受けたんですから……」


「さすがモード! お姉ちゃんがナデナデしてあげましょうか?」


「生まれるのが二分早かったくらいで何がお姉ちゃんですか。

他にも話があります。うちの古着を欲しいって言ってたんですよ神野さんが。

例の記憶喪失の女の子のために、妹さんのお古の服を着回すのも限界あるからって」


「そうでしたか……もちろんおやすいご用ですね。ママンに言って送ってもらいましょう」


「それが……何故か瞳の古着のみ送ってほしいって。私のは要らないって言うんですよ」


「それはつまり……私のニオイが嗅ぎたいって事ですかね?」


「それはないと思いますけど一応……あと夏樹という名前をですね、その古着に一着だけでもいいから付けてと頼まれたんですけど、瞳がうちにいる気なら無理そうですね」


「夏樹? まあいいですけど……なんかユキくんの妹とか娘みたいな名前ですね」


「まあそんなところでしょうか……」


瞳は長旅から解放されてテンションが上がっており、終始ペチャペチャ喋って実にうるさかったですが、やがて瞳の方が疲れて先に眠り、私も一緒のベッドに眠りました。

私は良く男勝りとか、クールとか、氷の女なんて言われる事があります。


瞳はそれとは反対で、女性的と一般的に言われる要素をこれでもかと集め、凝縮して煮詰めたような性格をしてます。

おしゃべり。恋愛脳。そしてどんなときもブレずに感情論優先です。

誰々が可哀相だからとか、私がこうしてあげたいとか、瞳にはそれが全てです。

そのため、とても優しい性格なんですが、優しい上にとても甘いので人の上に絶対立ってはいけないタイプです。

また、極端に戦いが嫌いです。平和主義者で、人と競争したり衝突すること自体を嫌います。

間違いなく会社のトップになったら一ヶ月で会社が潰れますね。


そして第二に依存的な性格。自分が必ず困ってる人を助けているのだから、自分もそうしてもらえるのが当然と考えている節があります。

県警の車を私物化して東京まで来ることに全く躊躇がないのがその証拠ですよね。


瞳の場合、極端に平和主義で、極端に感情論優先なのでこの上なく人畜無害の優しい子になりました。

でも世の中には極端に感情論優先で、なおかつ攻撃的という厄介な人種も存在しますよね。

私も瞳もそうならないように自省したいですよね。

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