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君を忘れるために  作者: 寧々
1/1

完璧な絶望

いつか君を忘れることが出来るのなら、それが例え痛みや苦しみを伴おうとも、

僕は無抵抗に受け入れる。

何よりつらいことは、君を知りながらどうすることもできないことだ。

1.





「瑠伽、瑠伽」


 その日の夢の終わりも、やはりその声だった。

深い眠りの海の底から朝日の揺らめく海面へと僕をいざなう。その声がする方へと、僕は温かい水をかき分け浮上していく。優しく、幼く、僕を無邪気に呼ぶ、愛らしい声。

ここはどこなのだろう。何度も来たことがある気がする。足の指に感じる水圧も、必死に水を蹴るひ弱なふくらはぎも、全部昔の僕のものだ。ずっと昔の、10年以上前の。


 あぁ、このままずっと君の声を聴いていたい。君に名前を呼ばれていたい。ずっと朝が来なければいい。こんなにも君が一生懸命に呼んでくれているのだから、僕は今すぐ海面から顔を出して、僕はここだよここにいるよと言って、君を安心させてあげたい。そして君の美しい瞳で僕に笑いかけてくれ。――

一気に押し寄せた太陽の眩しさに耐えきれなり無意識に開いた瞼によって、暗闇はふわり霧のように消え、優しい声もどこかへ行ってしまった。




 枕元を手探りして黒縁メガネをかける。目が覚めて、脇のヒヤリとする感覚に目をやると、グレーのパジャマの脇にたっぷりと汗シミが出来ている。昨日洗濯機回したばかりなのに、とぼやきながら脱いで洗濯機に投げ入れる。下着だけになって、冷蔵庫のアクエリアスを口に含む。

 新居に引っ越してきてからもう4日も経つのに、我が家にはろくに食べるものがなかった。昨日の帰り路にコンビニで買ったペットボトル数本と缶ビール、さけるチーズにかにかましかない。部屋には開けていない段ボールが3つも積まれている。いたずらに足先でもてあそんで、口の中の液体をぐいと喉奥に押しやる。


 洗面所の鏡の前に仁王立ちして、歯を磨きながらしげしげと自分の体を眺め、さすってみる。中高共にバスケットボール部だった僕の肌は、あまり太陽にさらされなかったから白い。唯一、去年の夏の二週間だけやったフェスのバイトで焼けた首の後ろだけはなぜか浅黒いまま残った。


 洗濯したばかりの首の詰まった白いニットに袖を通すと、染めたばかりの金髪がくっついてくる。やはり二回もブリーチをしてしまったから髪の毛が抜けやすくなってしまったか。

 僕がこんな奇抜で不本意な髪形をしているのには訳がある。大学に入る前から切ってもらっているから、もう三年の付き合いになる美容師の水田さんに懇願されて、つい先日人生初めての金髪にした。美容師のコンテストというのは全く馴染みのないものだったけれど、金髪パーマだったから、周りからはアンディウォーホル見たいだと言われたが、帰って髪を洗うと、元のド直毛にもどってしまい、鬼太郎みたいだな、と鏡の自分を見て思う。水田さんは似合っていると言ってくれたけど、今度暗い色に染め直してもらったほうがいいだろう。


 朝ごはんは駅前のコンビニエンスストアで買っていこう。ゼミは9時半からだけど、きっと先輩たちが来るのは十時過ぎだろうからそれまでに研究室で済ませればいい。この時間だと、通勤ラッシュもだいぶ収まっているだろうか。なにせつい数日前に越してきたばかりだから、まだ都心の勝手がわからない。このあたりには、いかにも年収の高そうな若い夫婦や初老の夫婦はたくさんいるが、僕のような学生はほとんどいないようだ。僕の生まれ育った場所と違って、山も川もない。僕の心を癒すものといえば、十分ほど南に歩いた神田川沿いの桜並木だろうか。それももう葉っぱの方が花より随分と多くなってしまい、青々あとした大ぶりの枝が川の左右から互いに手を伸ばしあっている。


 井の頭線は相変わらず混んでいて、僕はいつもの通りかばんを前に抱えて人と人の間に体をねじ込む。185センチある僕はいつも通り周りの人間の頭皮の臭いを避けるように、このでかい体をドア横のスペースへと滑り込ませた。



 同じくドア横のスペースに、僕と同じような背丈の人間が同じようにリュックを前に抱えているのが目に入る。ノースフェイスの白いリュックからは、スポーツドリンクのボトルが顔を覗かせている。寝癖のままの黒髪が揺れ、その男は僕を一瞥し、すぐに手元の文庫本に視線を落とした。


 例えば、十年も会っていない人間をたった一度、それもほんの一瞬見ただけで認識できるのだろうか。大抵の場合、そんなことは不可能だ。

 しかし、この時の僕は、今自分の目の前に立っているこの男こそが、いつも夢の中で僕の名前を呼んでくれた声の主であり、僕の初恋の人間であることを一瞬で理解した。と同時に、この衝撃に心臓の位置が明確に分かるほど動悸し始めた。吸った酸素は肺までいかず、すんすんと鼻先で音を立てて漏れている。人間は心底驚くと、声も出ないし体が硬直するというのは本当なのだ。きっと傍から僕を観察している人間がいたら、双眸は揺らぎ、立っているのもやっとな僕の現状を、病気の発作かと思うだろう。午前九時前の井の頭線は、幸いにも他人の挙動に気を配る人間も、そんな隙間もないほど混んでいる。


 僕はこの日を一体何年待ったのだろう。そして待ちわびた再開はあまりにもあっという間で虚しいものだった。

 明大前駅までたったの一駅しかない。彼がそこで降りることも、または大勢の乗降客に押し流されて視界からフェードアウトしてしまう可能性だって十二分にある。最良の策を見つけ出すのに、三分は短すぎる。こんなにも井の頭線の一駅分は短かっただろうか。今この瞬間に電車が壊れて止まってしまえ。


 電車は朝のラッシュでごった返す二番ホームに停車した。僕は降りる乗客に流されて、一旦ホームに降りる。彼はそのまま京王線のホームへと続くエスカレータへ消えていく。待ち続けた再会はこうしてあっけなく終わり、優柔不断な僕は呼び止める機会を逸してしまった。





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