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「変じゃない?綺麗?」
「大丈夫、とっても素敵よ」
卒業パーティ。
今日が最後の夜になる、ほとんど片付けの終わってしまった部屋の中で、私とレオラは身支度を整えた。前とは違う紫のドレスに身を包み、イミテーションのジュエリーで飾り立てた私たちは、お互いのパートナーを待っていた。
レオラに何度も何度も不備がないかを確かめ、その度に大丈夫だと言われて私は気持ちを落ち着ける。
でも今日が最後なのだ。
「あら、来たみたい」
部屋の扉がノックされ、レオラは軽い足取りで出迎えた。私はどうせシリルはもっとギリギリに来ると思って窓の外を眺めていた。
「ヴィオレタ」
「は、えっ!」
レオラに呼ばれて、私ははっとした。扉の向こうにはシリルがいた。私は慌てて靴を履いてシリルを出迎える。
「こんなに早く来るなんて思っていなかったわ、だって去年は…」
「一緒に過ごす時間が少しでも欲しいから」
照れることもなくさらりとそう言った。私は思わず熱くなった頬を両手で隠す。
シリルは前と同じようにコサージュを私に渡して、スミレの砂糖漬けを手渡した。
「シリル、いつもありがとう」
「いいんだ、俺が渡したいだけだから」
「あのね、私も用意したの」
「ハンカチか?」
「ええ」
私はこの日のために何日もかけて刺繍したハンカチを差し出した。紫の糸で、シリルの名前を縫い付けて、そしてスミレの花を縫い込んだ。不器用だけれど、レオラの手も借りず1人でひと針ずつ刺した、とても思い入れのあるハンカチになっていた。
我ながらなんて意味深なハンカチを縫ったのか。
「スミレか、嬉しいな」
「ええ、貴方の名前しか刺していないから、長く使ってほしいな」
「ずっと大切にする」
シリルはそう言って微笑んだ。
レオラがこほん、と咳払いをした瞬間、私達ははっと我に返った。
「じゃ、レオラ…お先に」
「ええ、楽しんで来てね」
「レオラも」
「もちろん」
レオラはひらひらと手を振って私を見送った。私は贈り物を大切に荷造りの終わったトランクの上に乗せて、シリルの腕に手を回す。
2人揃って会場に入ると、普段とは違う厳かな雰囲気に包まれた。卒業式自体はもう終わっていて、この後夜祭が終われば本当に学園生活は終わりだ。明日の昼にはもうそれぞれが実家や、あるいは新天地へと羽ばたいていく。
私とシリルもこの夜が最後だ。
「ヴィオレタ、卒業おめでとう」
「シリルもおめでとう」
ダンスが始まる前に、シリルは私に囁いた。私も小さな声で囁き返す。おかしな距離感だった。私達は腕を組んでいて、こんなに距離が近くて、恋人同士のようなのに、まるで遠い。
話し方を忘れたみたい。
バイオリンが滑らかな音を奏で、ピアノがワルツを弾き始めた。一斉にダンスが始まり、私とシリルもダンスに混じる。
前に踊った時とは状況が大違いだった。
大きな声で話すこともできない。手を叩くこともない。大きなステップもなければ、弾けるような笑いもない。
麗しい音楽に、決まった緩やかなステップを踏み、いかがわしいほどの距離の近さで、ひそひそと話す。
それが貴族。それこそが貴族で、シリルのあるべき姿。そして私も、本来ならこうあるべきだ。
「ヴィオレタ」
「なに?」
「楽しいか?」
「わからない…」
わからないけれど、楽しいと即答できない。
楽しさよりも寂しさが勝る。シリルとまた踊れて嬉しいのに。
「俺はさみしいよ」
「シリルも?」
私は思わず聞き返した。同じ気持ちでいるだなんて思ってもいなかった。
「ダンスが終わったらもうヴィオレタに会えない」
「離れていても友達だよ。手紙だって」
「書いてくれるのか?」
「書くよ、シリルも書いてくれるよね」
「毎週書くよ」
シリルは嬉しそうに微笑んだ。私も同じように微笑んで、喉に引っかかった気持ちを無理やり飲み込んだ。
離れていても友達にならなれる。
友達になら。
「ヴィオレタ、また会えるかな」
「きっと会えるよ」
友達だから。友達ならいつでも好きな時に会える。会えないわけがない。たとえ距離が離れていても。
ダンスが終わって、私たちはそっと会場から抜け出して中庭に繰り出した。慣れないヒールの靴を理由にシリルの腕にしがみ付いて移動した。シリルは紳士的に私をエスコートして、木のベンチに座らせた。私の手をそっと握って、シリルも隣に座る。
シリルを見ると、シリルも私を見ていた。お互いにはにかんで、手の力を強くする。
「ヴィオレタのこと好きだったよ」
シリルの言葉に胸が高鳴る。熱くなって、心臓がどくどくと跳ね上がる。だけどそれは確かに温かい温度で、居心地の良い言葉だった。
「私もシリルのこと好きだったよ」
シリルは眉尻を下げて微笑んだ。そっと私の頬に口付けをし、耳元で囁く。
「いつか迎えに行かせて」
「きっと待ってはいないわ」
私は素直になりきれない。シリルほど、上手く微笑むこともできない。自分の気持ちを上手く言い表すことができない。
できない、けれど。
「どこの誰よりも綺麗だ。ヴィオレタ、これは本当のことだ。誰が見たってそう思う」
「目が悪いんだわ、そうに決まってる。でも…。…貴方こそ、どこの誰よりも素敵よ」
できなければ後悔する。きっと一生。
「ヴィオレタ、今だけ、少しだけ、俺を君の恋人にしてくれないか」
「ええ、いま、だけね」
嬉しい、ずっとそうなら良いのに、貴方をずっと想っていた。
そう言える私なら、きっともっと違った未来があって、過去があった。
でも私はヴィオレタで。
彼はどうあっても、シリルだ。
私たちは2人きりでダンスをして、誰にも見られないように木の陰でこっそりキスをした。髪を撫でて、隣に座って、たくさん話をした。2人きりで海に行ってみたいとか、そんなとりとめのないことを。
叶うわけのない未来を2人で夢に見た。
すぐに覚めてしまう夢を。
帰りの馬車の時間ギリギリまでシリルと過ごしたせいで、私はぎりぎりに馬車に乗り込んだ。荷物はシリルが手伝って、積み込んでくれた。
「またいつか」
「ええ、また、いつか」
馬車の窓から身を乗り出して、シリルの手を握った。別れに涙が滲んで、シリルが良く見えない。
「ヴィオレタ、泣かないでくれ。永遠の別れじゃない。手紙だって送る」
「泣いていないわ。でも、すごく寂しいのよ。自分で決めた道なのに、私って最低だわ、こうなるのはわかっていたのに、今更、後悔を、して、い、いるわ」
シリル達と同じ進路を選べば良かった。
そうすれば離れる必要はなかった。
でも現実的にそんな進路は取れなかった。
それは私の金銭的な環境も、能力的な素質も。
それに、シリルは私と同じ道を行くと言ってくれていた。それを断ったのはわたしだ。
それなのに後悔なんて、酷い話だ。
「ヴィオレタの選択を後悔させない。誓う」
「どうしてそんなことが言えるのよ」
「お前が言ったんだよ、俺とお前は違う人間だって。だから、ちゃんとそれを自覚して、それを全うする。俺は本当は自分に自信がないんだよ、でもお前が、俺ならできるって言ってくれた。だから、ちゃんと頑張る」
シリルの弱音を聞いて、私は思わず息を飲んでしまった。
完璧超人だと思っていた彼が、自分ではそうと思えないだなんて。
そんなこと考えたこともなかった。
「ヴィオレタ、元気でな」
「シリルも、頑張ってね」
指と指が離れて、馬車はゆるりと動き始める。私はその姿が見えなくなるまでずっとシリルを見つめていた。シリルは千切れるほど大きく手を振っていた。
いつまでも、いつまでも。
私は彼の輝かしい未来と、私の私らしいありふれた平凡な幸せを願って、そっと目を閉じた。
これが、わたしの淡くて鋭い恋。
砂糖漬けになってしまった私の恋のお話。