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私は自分で思っていたよりずっと負けず嫌いだったらしい。
「ほら可愛い!ずっとこうしたかったのよ!ねえ明日は髪を巻いてもいいでしょ?ね?」
レオラが生き生きとしながら私の顔に化粧筆を滑らせる。鏡に映った私は昨日とは別人だ。
まず前髪を分けて、目がしっかり見えるようにした。これだけで随分印象が変わった。血色の悪い顔に頬紅を差し、眉毛を整える。地味なお下げを、レオラの香油を借りて真っ直ぐに下ろす。それだけ。それだけのことでこんなにも印象が違う。
昨日までの私は垢抜けない田舎の地味娘だった。それが今朝の私はまるで都会の娘のようだった。
「仕上げよ」
「わっ!」
レオラが私に香水を吹き付けた。私は驚いて飛び上がる。自分の動きに合わせて、レオラがいつも纏う軽やかな香りが広がった。
「いい匂い…」
「男ウケ抜群よ」
レオラにウインクされると疑いようがなかった。
「にしても驚き!あのヴィオレタが、イメチェンしたいだなんて!」
「まあ…たまには…ホラ…」
「しかもその理由がシリルなんて!」
違わないけど、違う。
シリルのために変わりたいのではなくて、私はシリルを見返したいのだ。
可愛くない私なら、ダンスに誘っても問題ないだなんて、二度と言わせたくなかったのだ。自分がレオラやローズのような美女だとは思わないが、ブスだとも思っていない。少なくともシリルに貶されるようなブスだとは思わない。
私はシリルを見返すためだけに可愛くなりたいのだ。
「可愛い。いい匂いがする」
教室に入るとまずローズに真顔でそう言われた。私はローズの隣に座り、広すぎる視界で教室を見渡す。あの2人はまだ来ていない。
「文句なしに可愛い。シリルと付き合いだしたから?」
「馬鹿言わないでよ、私とシリルは付き合わないよ。ローズとウィンストンじゃあるまいし」
「私もあいつと付き合っちゃいないわよ!保留よ!」
ローズは顔を真っ赤にして叫んだ。
「ええ、酷いなあ。あれは保留だったの?」
ウィンストンがローズの前に座った。遅れてシリルもウィンストンの隣の席を陣取る。シリルはちらりと私に目を向けて、口を開けて固まった。
ローズは真っ赤な顔のままウィンストンに冷たく吐き捨てる。
「仕方ないからパーティは一緒に出てあげるって言っただけよ!」
あれはどう見てもお付き合い了承の返事だったが、私は黙っておいた。
「ローズちゃんの前でこんなの言うのアレだけど、ヴィオレタちゃん随分綺麗になったね」
「ありがとう」
「最初は別人かと思ったよ。ね、シリル」
ウィンストンはシリルに話を振った。振られたシリルは口を閉じて私をじっと見て、ふいと目をそらす。ずき、と胸が痛んだ。
「別に。あんまり変わってないけど」
シリルはさっさと前を向いてしまった。私は、本当は嫌味でも返すべきなのだろうけれど、なぜか言葉が出なかった。きりきりと心臓が痛んで、隠すように俯いた。
「シリルって鈍感なのね」
ローズが呆れたように言った。
「シリルは褒めてくれた?」
「な、なな…」
刺繍のクラスで、黙々と針を刺しているとレオラがやってきた。針が乱れて歪んだ薔薇がさらに歪む。
「…目、逸らされた。結構変わったと思ってたけど、シリルの前じゃ地味でブスな私のままなんだって」
「あらあら。シリルったら」
レオラはくすくす笑った。
「みんな今回の作品はパーティの相手へのプレゼントにするんだって。ヴィオレタはどうするの?」
パーティのパートナーにはお互いに何か贈り物をするのが通常だ。男の子は女の子にコサージュとプレゼント、女の子は男の子に何か身につけられるものを。そしてお互いにそれを身につけて出席する。
「これはあげられないわ。そんな出来じゃないから」
「赤の薔薇は彼のイメージでもないわね」
たしかにイメージではない。
何をあげるかなんて全く考えていなかった私は悩み込んだ。
「じゃ、こういうのはどうかしら。とりあえずそのハンカチは諦めて、新しいハンカチを作る」
「うん」
「で、端っこにシリルの名前を刺して、反対側にヴィオレタの名前を刺すの」
「カップルみたいだわ」
私は首を振った。
「こんなカップルじみたものをあげても貴方とは付き合わないっていう意思表示としてよ」
「そんなのあるの?」
「シリルを見返したいんでしょ」
レオラに強く言われると、私は思わず首を縦に振った。レオラはにやにやしながら新しいハンカチを渡してくれた。私は枠をはめながらレオラの手元を覗く。レオラは見事な刺繍を施したハンカチに、恋人の名前と自分の名前を連ねて刺していた。本当の恋人はやることが随分甘い。
「シリルの名前は青がいいな。私の名前は紫にしよう」
「いいじゃない」
レオラはくすくす笑いながら糸をくれた。私は深呼吸して、今度こそ失敗しないように祈りながら針を突き刺した。
「ドレスの色はシリルに伝えた?」
「うん。ネクタイちゃんと用意するって言ってた」
「あの色見つかると良いわね」
「シリルなら大丈夫だよ」
通常、男の子は女の子のドレスの色に合わせたネクタイをしてくる。用意のために早めにドレスの色を伝えておかないといけないのだ。私のドレスの色のネクタイは、多分シリルにならすぐそれとわかるだろう。
「マナーのクラスでもヴィオレタのイメチェンは話題になっていたわよ。みんな感心していたわ」
「ほんと?それなら嬉しい」
気付く人は気付く。褒められているなら、私のイメチェンは間違いではなかったのだ。
「シリルの相手がヴィオレタってほんと?」
私とレオラのテーブルに何人かの女子が割り込んだ。華やかで綺麗な子たちだ。
「本当。でも、友達としてね」
「ただの友達なの?デートは?」
「したことないし、する予定もないよ」
「なーんだ、良かった!」
女子たちはほっと息を吐き出し、私の全く進んでいない刺繍をちらりと眺めた。
「じゃあ私たちがダンスを申し込んでも、悪く思ったりはしないわよね?」
「もちろん!私も最初のエスコートとダンスだけで課題は終わりだから、あとは好きにしていいよ」
と、言いながら胸が痛んだ。
最初だけ格好が付けば、あとは流れ解散で良い。いつもそうしてきた。それなのに、ほんの少しだけ苦い気持ちになってしまった。
「貴女達、相手は見つかったの?」
「ええ、もちろん!」
レオラの問いかけに彼女達は笑って答えた。
「シリルじゃないなら誰だって一緒だもの」
彼女達の言葉は、私にも突き刺さった。
短い準備期間が終わり、パーティの日になった。
私は授業以外ではあまりシリルには会わなかった。前のように勉強を教えてくれることもなくなり、私はローズと2人で図書館にこもることが多くなった。シリルはいつもどこかへ行っているのか、滅多に姿を見なくなっていた。
お先に、と明るく笑ったオレンジ色のドレスに身を包んだレオラを見送ったのが20分前。
私は今日のために新しく購入した華奢なハイヒールの、飾り細工が綺麗な紫色の靴に足を滑らせた。ぱちん、ぱちんと留め金を嵌めて、靴を固定する。鏡の前に立ったらとても気分が良くなった。ちょっぴり窮屈だけど、それでも良い。
それから私はシリルに渡すハンカチを折っていた。何度も何度も折直してはおかしくないか眺める。そうして待っていると、やっと部屋の扉がノックされた。
「遅かったわね」
と言いながら扉を開ける。扉の前には髪を後ろに撫で付け、いつもの数百倍フォーマルな格好になったシリルが待っていた。黒いタキシードのネクタイもベストも私のドレスに合わせた紫色に染まり、大人びたシリルの顔によく似合っていた。
というか、格好良すぎた。
「…まあ、その、用意に手間取った」
「あ、そ、そうなの。私も…」
私の用意は殆どレオラがやってくれたのだけれど。
私は菫色のドレスに、ふわふわに巻いた髪、透明の大きなガラスで作られたネックレスと揃いのイヤリングでまとめていた。かなり良い出来だと思うが、シリルは褒めてくれそうにない。
「色、全く同じ。すごいね」
「砂糖漬けのスミレと同じ色って言ってただろ。結構探したけど、いい色があったからな」
こんなにばっちり色が合うことは滅多にない。毎年パートナーに色を伝えても全く違った色味のものをつけられてきていたから、期待していなかったのに。
「これ」
「あ、ありがとう」
シリルに差し出されたコサージュは、かすみ草にスミレの花、黄色い薔薇で作られたものだった。それは腕を巻きつけ、シリルは胸元にピンで留めた。
「それとこれ」
シリルは私に紙袋を渡した。包装されていないものだった。
「ありがとう。…もしかしてこれ、金平糖?よく見つけたね。どこにも売ってないのに…しかも紫色だわ!こんなの初めて見た!ねえどこに売っていたの?教えてよ」
「よく回る口だな」
シリルがくっと笑った。紙袋の中には綺麗な瓶が入っていて、その中には小さな砂糖の粒が沢山入っていた。大好物の金平糖に違いなかった。
「教えてくれないつもりね。良いわよ、明日探すから。…私からはこれ」
「だと思った」
「なにそれ」
折ったハンカチをそのままシリルの胸ポケットに押し込むと、シリルは笑った。レオラあたりからバラされたのかもしれない。
「ありがとう」
シリルは少し屈んで、私の耳元でそう囁いた。急に耳が熱を持ち、頬がカッと熱くなる。
シリルのエスコートで会場入りする。会場はすでに熱気に満ちていた。色とりどりのドレスの女の子たち。誇らしげに胸をはる男の子。女の子たちはシリルを見ると熱っぽくシリルを見つめた。
最後に会場入りしたから、ローズやレオラを探し出す余裕がなかった。すぐにダンスの時間になった。
「手を」
「はい」
「足踏むなよ」
「ちゃんとリードしてくれたらね」
くすくす笑うと、シリルもにやりと笑った。シリルの腕が腰に回され、距離が縮まる。シリルの整った顔が近付き、あの下級生にそうしていたように柔らかく微笑まれる。
どき、と胸が高鳴り、顔が熱くなる。赤くなっていないかしら、シリルにばれやしないかしら、なんて気にしながら音楽に合わせて身体を動かす。
「ヴィオレタ」
「なあに」
「楽しいな」
「楽しいね」
シリルが優しく微笑むと、そこだけ世界が煌めいて見えた。
ダンスが終わると、2人でダンスフロアを抜けた。私が靴擦れしてしまったのをシリルがすぐに見破ったからだ。私はシリルに席に座らされ、休憩していた。シリルは私のために飲み物を取りに行ってくれた。
「ヴィオレタ?」
「ええ」
同じクラスの男の子が私の名前を半信半疑で呼びながら近付いてきた。
「最近随分綺麗になったよな」
「そう?」
「シリルと付き合ってるって本当なのか?」
「まさか」
私は首を振った。
私はシリルに相手にされていないのだから。
「じゃあ俺にもチャンスある?」
「ずるいぞ!ヴィオレタ、今度俺と街に出かけよう」
「それなら俺も」
「ちょ、ちょっと」
急に大勢に声をかけられると私は戸惑ってしまった。少し地味じゃなくなっただけで、こんなに声をかけられるなんて。
「おい」
「あ、シリル…」
私が仰け反るように逃げの体勢に入っていると、シリルが綺麗な水色の液体が入ったグラスを両手に持って帰ってきた。男の子たちは気まずそうにシリルに席を譲る。シリルは全員を値踏みするようにゆっくりと眺めて、はっと嘲笑った。
「自分のパートナーはどうした?」
「さっさとシリルを探しに行くって消えたよ。まあ俺といたほうがシリルに会えただろうけどな」
「それでお前はヴィオレタか?」
シリルは低い声でそう言うが、男達は引かない。
「だって2人は付き合ってないんだろ。こんなに可愛いヴィオレタを見て口説かないやつがいるか?」
そう言われると、急に誇らしくなった。目に見えて表情が明るくなった。今日の私は、可愛い。誰の目から見てもそのはず。シリルだって私がとなりにいることを誇らしいと思ってくれるはずだ。私だって、綺麗になれたのだ。口説かずにはいられないほどに。
「舞い上がるなよ、ブス」
シリルの冷たい言葉は頭から冷や水をかけられたようだった。すっと頭が冷めるかと思ったらむしろ逆で、脳まで沸騰するように熱くなる。カッと頬が熱くなって、私は立ち上がった。シリルははっと驚いた表情になり、失言にうろたえた。
「シリル、なんてことを…」
と先ほどの男の子たちがシリルを責めた瞬間。
「あっ」
私はシリルが持っていた飲み物をひったくり、シリルの整った顔に向けてグラスをぶちまけた。シリルの整えられた髪が乱れて、黒い髪の先から飲み物が滴る。首元のシャツは水色に染まっていた。私はグラスをゆっくり机の上に置く。男の子たちは驚いて何も言えなかったようだ。世界が一瞬、時を止めたようだった。
シリルは驚愕の表情のまま固まり、私は走って会場から逃げ出した。
「痛っ」
走って走って、会場から抜け出して中庭まで戻ってきたところで足の痛みを思い出した。1人で中庭のベンチに座り、靴の留め金を外していく。
ーー淑女養成コースだったら、反省文10枚とお説教たっぷり2時間の罰則だったな。
生憎経営者コースのわたしには関係ない話だけれど、少しだけほっとした。淑女ならば、如何なる時も実力行使に出てはならない。私にはそうなれそうにない。
(舞い上がるなよ、ブス)
それが彼の本音なのだ。
私をブスだと思っているのだ。何をどうしたってそれは、変わらないのだ。こんなに見た目を整えても、他の誰に綺麗だと褒めそやされそうが、それは覆らない。覆らないのだ。
そう思うと急に涙が出そうになった。ここはまだ中庭だ、耐えろ。部屋まで帰ったらゆっくり泣こう。
足から靴を引き剥がして、両手に持つ。もうこの靴では歩けない。私にはこんなに高いヒールで細身の派手な靴は合わなかった。身の丈に合わない靴だった。シリルと同じように、私には見合わないものだった。靴もシリルも素敵だけど、それは地味なわたしには分不相応。履けば履くほど、隣にいればいるほど私が傷つくものだった。
「ヴィオレタ!」
シリルが中庭まで走って追いかけてきた。私はベンチに座ったまま、靴をそっと背中に隠した。
「その、さっきのーー」
「貴方の隣に立っても恥ずかしくないように努力したけど、残念だわ」
私は淡々とそう言った。
「パーティのパートナーになっても貴方のこと好きになったりしないって言ったわね。そうね、私なら貴方を好きにはならないし、その後の展開も期待しない」
私の言葉にシリルの表情は傷付いていく。どんな気持ちで私を追いかけてきたのだろう。少しくらい悪いと思っているのなら、私と同じくらい傷付いてほしい。
「貴方のこと、好きにはならないけど、嫌いにはなったわ」
シリルの表情が、無になった。
言い返されるのが怖くて私は素足のまま立ち上がり、靴を両手に持って歩き出す。シリルは追いかけてくることもなかった。
部屋まで裸足で歩き、部屋に入るとぺたりと床にお尻を付けて、しばらく泣き崩れた。
シリルに貰ったコサージュをゴミ箱に投げ捨て、菫色の金平糖はクローゼットの一番奥に仕舞い込んだ。それだけは捨てるのが忍びなかった。いつかそれを見ても胸が痛まない日が来たら、その時に開けよう。それまでは、それまではーー見たくもない。この胸の傷が癒えるまでは、シリルのことを思い出したくない。菫色のドレスを脱ぎ捨て、髪を解き、アクセサリーを全部片付けて、私は寝台に身体を投げ出した。