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あの日  作者: 古流
9/12

心の傷

 店の人は感情を抑えるようにうつむいた。そして前を向くなり両手を前に突き出して、顔を二人に向けた。

「小さな女の子が、今にも階段を降りようとするお父さんの背中を押したの。こんな風にね」

「え!マジですか」

 鯨島はオーバーに驚いて見せたが、さほど興味があるようには思えなかった。

「大変な騒ぎだったのでよく覚えててるわ」

「で その人はどうなったの」

 葉子が店の人と鯨島の表情を見比べながら、微かに微笑みをうかべて聞いた。

「それはよくわからないけど、足に大怪我したらしわよ」

 店の人は大変なお話好きらしく、それも上手に話をするので葉子はついつい引きこまれていった。そして何かを思い出したらしく大声を出した。

「その小さな女の子の母親が叫んだのよ。私はその声が忘れられないわ」

 その時、あまり興味なさそうに話を聞いていた鯨島の目が女の人に向いた。

「なんて叫んだの」葉子の声と鯨島の声が同時にでた。

「仲のいい事ね‥‥」

 店の人の声に、二人は恥ずかしそうに頭をかいた。

「だってその母親がこの店で買い物していて、私が精算している時だったから、突然の大声にビックリしたのよ」

 二人は顔を見合わせた。

「なんて叫んだの」

 今度は葉子が聞いた。

 店の女の人は一歩下がってから、お盆を胸の前で持ち、顔の表情を曇らせながら感情込めて叫んだ。

「‥‥よう子〜!」

 声が店中に轟いた。

 それは悪魔の叫びとなって葉子の耳に突きささった。鯨島も一瞬、耳を塞ぎたくなった。

「ごめんなさい。若いころ演劇をやっていたもので‥‥」

 女の人は顔を上気させて言った。まるでマリーアントワネットにでもなった気分で。

「ほんと、真に迫る演技でした‥‥」

 鯨島はあきれながらも、感嘆の声を上げた。

「うろたえるお母さんから私がその女の子を預かって、抱きしめてあげたのよ。まだその身体のぬくもりを感じるわ。女の子は嫌がって泣いていたけど、そうそう右の首筋に可愛いほくろがあったわ」

 店の女の人の顔が葉子を向いた 。

 葉子は女の人の声を聞いた時、その声に被さるように違う叫びを聞いていた。葉子の表情が梅雨空のように曇った。

「その母親が律儀な人でね、しばらくしてからこの店に挨拶にこられたんですよ。確か、霧山さんだったか霧島さんだったか」


 その時 新しい客が入ってきた。店の人は葉子の表情を気にかけながらも軽く笑顔を残して立ち去った。

「とにかく階段を下りなくてもいい事はわかった」

 鯨島が立ち去った店の人の後ろ姿を見つめながら言った。

「私と同じ名前‥‥」とポツリと漏らした葉子の声に元気がなかった。

「俺だって驚いたよ、突然、よう子〜だもんな」

 鯨島は今、葉子が何を考えているか知っていた。葉子の心の中を無遠慮に覗き込んだみたいに。

 葉子の顔は下を向いた。

「まさか?」

 それならばと、鯨島は葉子の顔を無遠慮に覗き込んで、頭をかしげた。

「よう子なんて名前の子なんか腐るほどいるだろう」

 鯨島は、その小さな女の子が自分ではないかと考えている葉子を、その場から連れ去りたかった。

 葉子が窓を見た。

 窓に写る葉子の首筋に小さなほくろがあった。

「私が葉子で、私が小さい時に父が大怪我して、首筋にほくろがあって、名前が‥‥片 桐‥‥」

 鯨島は手を伸ばせば届きそうだった幸せが、あの叫びでこっぱみじんに吹っ飛んでいったと感じた。

 今までそこにあったものを。

「冗談はやめてくれよな。ほんとに。君が葉子で、父が小さい時に怪我をして、首筋にほくろがあって、名前が片桐でも、それは単なる偶然だよ」

 鯨島は葉子を見て、笑うしかなかった。

「そうよね、私って馬鹿みたい。‥‥葉子なんて名前、くさる程あるのに。ほくろだって中学生の頃からだし。名前だって……それに、毎日お母さんの葉子、葉子を聞いているから」

 葉子はにっこり微笑んだ。それを見た鯨島は安心して、葉子の手をとってゆっくり立ち上がった。その時、みやげ物屋の店先で店の女の人がこっちに向かって大きな声で叫んだ。

「片桐だったわ!」

 声は店中に雷鳴のように響きわたった。その瞬間、あわてた鯨島は椅子につまずいて「ああぁ……」大声を上げるや、葉子とぶつかっり、後の板壁に当たった。脚が木製の椅子に引っ掛かり、同時に椅子がガタガタと鳴った。

 葉子は驚いたように鯨島を見て「ドジね」にっこり微笑んだ。

 鯨島は椅子を元に戻しながら「椅子がこんなところにあるのが悪い」と毒づいた。

「椅子は前からそこにあったわ」

 葉子は椅子に八つ当たりをしている鯨島をからかった。

「椅子は悪くない、ならば、誰が悪いのだ」

「別に誰も悪くない。ただ、どうしようないドジな男が一人いただけ」

 鯨島は苦笑いしながら、不機嫌な表情でその店を出た。


 事実を知ったところで、何になるのだろう。

 葉子の心の声がそう言っている。

 父の怪我の原因が幼い頃の自分にあったとしても、それを今知ったところでいったい何が出来るのだろう。葉子の心は悩みながらも葛藤を繰り返していた。

「私は本当のことを知りたいだけ」

 葉子は鯨島に、搾り出すような声で言った。

「知らなくていい事は知らないほうがいいよ」

 鯨島はそう言っただけだった。

 知らなくてもいい事を人は何故か知りたがる。

 知って辛くなる事ほど、人は必死になって知ろうとする。

 自分が傷つくのがわかっていても、それを止めることが出来ない。

 傷ついて奈落の底に転落するまでの、一部始終を見届けようとする。


「今日は有難う。楽しかった」

 葉子の声は、鯨島に虚ろにひびいた。

 鯨島は葉子のうしろ姿を見つめていた。

 時は、幼いころの出来事を、なぜ今頃になって葉子に突きつけるのだろう。

 鯨島は葉子の辛さの中にに立ち入り、全ての辛さのもとを引き抜いてやりたいと思った。

 人にはできることと、できないことがある。

 葉子は知られたくない秘密には、誰一人として立ち入ることを拒んだ。

 葉子の歩みは、夜の闇の中に立ち止まった影のように、鯨島には見えなかった。


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