3度の飯より
葉子には大学に入学してから交際している恋人がいた。
大学のサークルで知り合ってからの付き合いだった。鯨島学という名前を聞いた時、葉子は思わず笑ってしまい、葉子が鮫島葉子と名乗った時、鯨島学が思わず吹き出した、以来ずっと離れずにいた。
初めてのデートの時、海へ行こうよと二人同時に言った。そして、渚に佇んで鯨と鮫が海に沈む夕日を見つめ、風はやわらかく二人をつつんだ。
「鯨島さん夕日がきれいね」
葉子はそう言った。
「きれいなのは夕日だけじゃない。さざ波の音もきれいだよ」
鯨島の声は、波の向こうから聞こえてくるようだった。
「そうですね。心が洗われるようだわ」
波の音は絶え間なく押しては引いていった。
誰が聞いていようと聞いていまいと、それは当たり前のように繰り返される。
鯨島は砂浜に座って後にした両手で身体を支えていた。
葉子は膝を抱えるように前かがみになって座っていた。
葉子は夕日にそよぐ、風になりたかったのかも知れない。
「鮫が好きですか?」
さざ波が葉子に言わせた言葉だった。
「鮫の肉は腐りにくいし、料理しだいでは美味しいんだ。でも鯨のほうが美味い」
「肉の話じゃなくて」
葉子の両腕がさらに身体を抱え込んだ。
「水族館で見たジンベイ鮫の大きさには感動したよ」
鯨島はジェスチャを交えて言った
「そう言うことじゃなくて」
葉子の身体は膝を抱えたまま、その顔は砂浜に埋もれてしまうほどだった。その時、反り返っていた鯨島は身体を起こすと葉子の顔を覗きこみながら言った。
「もちろん葉子鮫は、3度の飯より好き」
「3度の飯‥‥」
葉子の夕日は一瞬にして雲に隠れ、突然、風は止んだ。
葉子は鯨島を見つめてため息をついていたが、鯨島学は間違い無く葉子が好きだった。
3度の飯よりもずっと好きだった。
「そうだ、今日は海に来たから、次は山に行こう」
「山は苦手だわ」
「海の生き物だから」
「そうじゃなくて、中学生の頃に山に登って長い階段で転びかけたのよ」
「山で転んでも、海ではおぼれない」
「プールでおぼれかけた」
二人は夕日の中で笑っていた。
「じゃ、山は止めようか」
鯨島は葉子の顔を見つめながら、押し寄せる波の音を聞いていた。
「でもいいわ、山にハイキングに行きましょう」
葉子は肩で鯨島の肩を押した。
「よし決まった!鯨と鮫が山にハイキングなんて洒落てるよ」
肩と肩を寄せ合う二人は、沈む夕日の中で一枚の絵画のようにそこに佇んでいた。
運命の糸は複雑に絡まっていた。
見えない糸の先を手繰り寄せながら人は静々と生きていく。どんな思いがけない世界がその先に待っていようと。
二人は皮肉な運命の糸に絡まるように、鯨島がセッティングした山にハイキングに行く事になった。
緑の中、ひたすら長い階段を二人は上っていた。
「この神社は友達が教えてくれたんだ。長い階段を上ったら、そこには幸せが待っているんだって」
「幸せが待ってるんなら、上らないと」
葉子の足取りは口ほどにもなく重くなっていた。
「幸せにはそう簡単に届かないものだな」
鯨島学も息を切らして立ち止まってしまった。
その横を60代の夫婦らしい人が、元気に通りすぎていった。
「しっかり!元気出して、もうすぐよ!」
それを聞いた二人にようやく笑顔が戻ってきた。
「頑張ろう」
葉子がにっこり笑うと上を見た。
60代の夫婦はずい分前を歩いていた。振り返って葉子に手を振っている。
葉子も手を振ると少し元気になったような気がした。しかし、ふと気がつくと二人は話すことを忘れたかのように無口になっていた。
「幸せは遠くにあって思うものか‥‥」
鯨島が呟いた。葉子は再び上を見た時、その階段はまるで天までつながっているかのように雲の中に霞んでいた。
夫婦の姿もすでに見えなくなっていた。
「幸せが待っていると思うと、いつまでも辿りつかない様な気がしてきたわ」
葉子はため息をついた。
「誰も幸せが何かわからないのかも。」
「だったら、いつまで上ってもそこには到着しないってことなの」
葉子は再びため息をついた。
鯨島は葉子の手を取って笑った。
突風が木の葉を飛ばし二人の間を吹き抜けていった。
時に、風は粋でいじわるな嫉妬をするらしい。
風に驚いた葉子は鯨島の身体に抱きついた。
二人の間で時が止まった。
二つのシルエットが一つになった時、風がさらに強く吹き荒れて、カエデの葉が空を舞った。
学は葉子を、骨が折れるほど強く抱きしめていた。
葉子の顔がそこにあった。
二人のくちびるが風に押されて重なりあった。
時に風は粋でいじわるな嫉妬をするらしい。
胸の高鳴りを隠すように目を瞑った葉子は、人肌とは思えない冷たい感触にくちびるを離して少し目を開けた。
そこには目を細めた鯨島学が、口にカエデの葉をつけて立っていた。
「初めてのキスがカエデの葉かよ」
鯨島はカエデの葉を手にもって笑った。
「ドキドキして損したみたい」
葉子は鯨島の顔を見て微笑んだ。その時風は止んでいた。
風が吹くのを忘れるほどの、今度は本当にあたたかいキスをした。
ドキドキして損した気持ちを取り返そうとでもするかのように。
カエデの葉が鯨島の手を離れて、ヒラヒラと下に落ちていった。
「階段転ばないでね!」
二人の側をさっきの夫婦が声をかけ、微笑みを残しながら下りていった。
ずいぶん時間が過ぎていた‥‥葉子は恥ずかしそうにはにかむと上を見てさらに驚いた。
階段の終わりがすぐそこだった。
目の前に赤い鳥居が頭をのぞかせていた。
「幸せって待ってないのかも」
鯨島が葉子の顔を見つめながら、遠い目をして言った。
「ほんと!せっかくここまで上って来たのに‥‥」
鯨島はそれには答えず、葉子の手を握りゆっくりと階段を上りはじめた。
葉子もその手を強く握り返して歩き出した。
さっきのような足の重さは、不思議となかった。
「もう少しだ」
鯨島の声に葉子も元気がでたのか、ここまで来たからには、そこにある幸せを捕まえようと、鯨島の手を引っ張って上っていった。
神社の境内の片隅に軽い食事ができて、昔ながらの土産を売っている店があった。一人の女の人が店の前で参拝客と立ち話をしていた。
鯨島と葉子は参拝を済ますと、その店で食事をすることにした。
客は誰もいなかった。
二人は窓際のテーブルに腰を下ろした。
鯨島が注文し終わると葉子を見た。
葉子はその窓から外を見ていた。そこにはさっき上って来た長い階段が霧のように見えていた。それを目にした葉子は小さな吐息を出した。
「私、中学生の頃に階段を下りる時、転んだ事があるから下り階段が嫌いなのよ」
「行きはよいよい、帰りは怖い‥‥か」
鯨島はメロディをつけながら言った。
「今でも胸がドキドキするわ」
「そのドキドキは‥‥さっきの階段の‥‥」
鯨島がそこまで言った時、店の女の人が注文の品をお盆にのせて持ってきた。
テーブルの上で熱いお茶が湯気をたてた。
店の女の人が新しいお茶を入れてくれたのだ。そしてそこを離れようとした時、鯨島はその店員に声をかけた。
「その階段でないと、下へは下りられないんですか?」
やかんを持って振り向いた店員は40後半にみえた。
「少し時間はかかるけど、この店の横に階段の下に下りれる道があります。その道をいけば下りれますよ」
その方向を指さしながら教えてくれた。
葉子はほっとしたのか「よかったわ」とため息とともに声が出た。
「怪談話だもんね」
店の女の人が意味なく笑った。
「でもね、今から15年くらい前かな‥‥この階段で事故があったのよ。小さな女の子が泣いていたわ」