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あの日  作者: 古流
7/12

遠くない街

 葉子が住む家と片桐二郎の実家は鉄道の五駅へだてた距離にあった。

 決して遠くない距離なのだが、葉子にとっての五駅は無限と思われるほど遠かった。

 芳江と別れた片桐二郎は実家に戻って母と二人で暮らしていた。

 父は早くに病気に倒れ、3歳上の長男の精一郎は仕事の都合と言って嫁の貞子の実家の近くに家を買って住んでいた。仕事の都合は口実で、二人姉妹の姉の貞子が両親の面倒を見るのに都合がいいから、貞子が半ば強引にそこに家を買ったのが実情だった。5歳下の三男の幸三は小さな劇団で演劇をしていて、テントを抱えて全国を回っているのでほとんど実家のほうには寄り付かない。又、二郎とて足が悪いので満足に母の面倒を見ることは出来ないが、それでも二郎が離婚して家に帰ってきてからは母も少しは元気になったように思えた。

 世間では長男が身体の弱い母の面倒はみるのが本当なのだろうが、母自身が頑ななまでにそれを望まなかった。年に数回の墓参りに姿を見せるだけだった。その時は母を連れ出し高級料亭で食事をして、家にもよらず帰っていくのだった。

「兄貴に戻ってきてもらった方がいいんじゃないか」

 二郎も最初は母によくそう言っていたが、生返事の母を見て今ではほとんど言わなくなっていた。

 二郎が離婚したその年の暮れ。

「今日ね、貞子さだこさんと精一郎が来たのよ」

 母が外出から帰ってきた二郎に向かって嬉しそうに言った。

「あ、そうかい」

 気のない返事の二郎だった。

「これはね、貞子さんが買ってきてくれたのよ。有名な和菓子屋さんの和菓子の詰め合わせ、きっと高かっただろうね」

 母が喜ぶのが二郎には嬉しかったが、なぜ精一郎が来たのかが気になっていた。

「なんの用事だった」

 二郎は足をこすりながら椅子に座った。

「なんか今度の長男の亮一が高校受験らしい、それでよく分からないけど有名な進学校に進ませるため、こっちの家に来てもいいかって、そんな話だった」

 母は和菓子の詰め合わせの中から一つ取りだして「これおいしいから食べてごらん」と二郎に渡した。

 二郎はそれを食べながら「兄貴が戻ってきたら俺は厄介者になるから、どこか別の家を探さないと駄目だな」そう考えた。

 長男がどんな理由であれ家に戻って母と一緒に暮らすのはいいことだし、その場合は自分が別のところに住めばいいと思っていた。幸い、得意の書道で教室を開いたり、伝手を頼って文字を書いたりしながら何とか一人分くらいは稼ぎ出せていた。贅沢さえしなければ人の三倍の時間をかけてゆっくり人生を生きていくことが出来るような気持ちになっていた。

「心配しなくてもいいよ」

 母は足の悪い二郎を不憫と思っていた。

「何が?」

「一緒には住まないから」

 母は二郎にお茶を入れながら、それはまるで自分に言い聞かすように呟いていた。

「せっかく兄貴がそう言ってきたんだから一緒に住めばいいんだよ」

 二郎は熱いお茶をふうふう冷ましながら、テレビに目をやったまま「まだ元気だけど、何時また寝込むか知れたものじゃないし」

「まだまだ大丈夫」

 母は笑っていた。

「だけど、そんなことは前から分かってたろうに、突然どうしたんだろうね」

「いろいろ考えてのことじゃないの、亮一に一生懸命だから貞子さんは、成績も学年でトップらしいよ」

「知っているよ、会えば必ずその話になるから」

「まぁこの家のこともあるのだろうけど」

 何気なく言った母の一言だった。二郎はそんな感じがしていた。

 二郎がこのまま家に住んでしまうと、二郎に家を取られるように思ったのかもしれない。

「足の悪い俺よりも、やはり兄貴がこの家に住むのが一番いいよ」

 二郎はそう言って、自分の部屋にゆっくり歩いていった。

「仕事があるんだ。小説の題字を頼まれてね」

 隣の部屋の襖を開けて、足を引きずりながら部屋の中に入っていった。


 年が明けて正月になると、恒例の年始回りで長男夫婦が子供を連れてやってきた。三男の幸三は、やはりこの年も帰ってこなかった。

 母の手製のお節料理がテーブルの上に並んでいた。もっぱら母と貞子さんが世間話をしながら無口な二郎は時々相槌を打つだけで会話には入らなかった。兄の精一郎は貞子さんの会話に所々説明を加えていたが、好きな酒を飲むにつれて二郎に絡み出した。

「お前が離婚してこの家に帰ってから……」

 精一郎の顔はすでに赤くなっていた。

「回りの人間がうるさくてしょうがない、ちゅうのも〜足の悪いお前に母の面倒を押し付けているように思われてる。えぇ……お前がこの家に帰ってきてから俺は肩身の狭い思いで生きているのだ。分かるか?二郎」

 二郎はこんな時はうなずくに限る事を知っていた。

「うん、分かるよ、分かる」二郎が答えると「返事は一度でいい」と精一郎の声が飛んだ。

「だから、お前も男だったらこの家を出て立派に一人暮らしをしてみろ」

 一人暮らしが立派かどうかは知らないが「ま、考えてみるよ」二郎はトイレに立つ振りをして、その場から離れた。

「ま、まったく、足が悪いだけじゃなく、あ、頭まで悪いんだから……」

 すっかり酔いが回った精一郎は、ゆっくり歩く二郎の背中に大きな声で叫んだ。

「……頭も悪いし、足も悪いし」

 二郎は苦笑しながら、その場を立ち去った。


 そんなことがあってからも、度々、兄夫婦はこの家を訪れては母の歓心を買うのだった。

 あまりに何度も一緒に住もうと言うものだから、母はそのたび嫁と姑が一緒に暮らす事がどれほど大変な事か、自分の体験を交えて話をするのだった。


「兄貴がこの家に帰って来たら、俺はこの家から出て行くつもりだから」

 ある日、二郎が訪れた兄に向かって言った。

「そうか、息子のこともあるしそうしてくれたら助かるよ、なんせ東京大学を目指しているのだから環境が大事なんだ」

 精一郎は煙草をくわえながら平然としていた。

「そうですわね、亮一が受験する高校は毎年、東大に何十人も合格者を出している高校だから本当に大変なのよ」

 貞子も首にかけた高級そうなネックレスを気にしながら、その高校に入学するのがいかに困難で大変名誉であると力説するのだった。ただ母が頑固なまでに一緒には住まないと拒むので困っていると精一郎は二郎に愚痴った。

「せっかく一緒に住んでやろうって言ってるのに、一人が気楽だって言うんだから、ほんとに頑固なんだよ。いつまでも元気なつもりでいるんだから」

「母が、嫁と姑の事で苦労してきているから、貞子さんにそんな苦労は味合わせたくないんだろう」

 二郎は母がいつも言っている言葉を繰り返した。

「母が嫌なら仕方がないでは済まないのだ」

 精一郎は二郎を睨み付けた。

 母は台所で料理をしていた。それでも貞子は客人よろしく料理を手伝おうともせず、部屋でお茶を飲みながらくつろいでいた。

「難しいことは分からないが、母が嫌だと言えば、それで終わりの話だと考えた方がいいんじゃないか。」

 二郎の言葉に貞子が口を挟んだ。

「二郎さんが一緒に住んでいるから、お母さんもそんな事を言うのよ」

「足の悪いお前でもいれば少しは心丈夫だからな、幾ら足が悪くてもまだ若いしそれなりに動けるから、お前に面倒見てもらうつもりなんだろう」

 精一郎が吐き捨てるように言った。

 二郎は二人が何を言いたいのかは解っていたが、母にとって最善の方法を二郎なりに考えていた。

「だから、お前がここから出て行ったら、母も頷いてくれると思うんだけど」

 精一郎の気持ちが高ぶっているのが二郎には解った。

 立て続けに煙草に火をつける手が、小刻みに震えていたからだ。

「お前もすぐには出て行けないだろうから、俺の知り合いの不動産屋にあたってあるんだ。すぐにお前に合った部屋を探してくれるよ」

 精一郎の声に、二郎はずい分の手回しのいいことだなと呆れるばかりだった。しかし芳江と別れる時、お互い絶望的な状況ではあったが、母の面倒を見るために家に帰ると言った言葉が嘘になるのではないかと考えると逡巡してしまい、葉子の顔を思い出すたび、葉子がいつこの家を訪れてもいいように、この家に住んでいたほうがいいのではないかと思ってしまう二郎だった。引きずるように歩く二郎の足が元のようになったとしても、葉子が二郎を訪ねて来る事などありえない事だと分かっていても、いつの日か訪ねて来るのではないかと微かな期待を抱きながら二郎は生きていきたかった。その日が永久に来ない事をうすうす感ずきながらも。


 しかし、その話もあっけなくご破算になった。母がやはり一緒には住まないと長男夫婦に通告をした事もあるが、自慢の亮一がその進学校の受験に失敗したからだ。それまで度々の訪問も、以前のように年に二回の墓参りに母と外食するだけで、家にも寄らず帰って行くようになった。

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