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あの日  作者: 古流
6/12

遠くない日のために

 葉子は高校生になる頃には、両親は離婚したことを知っていた。別れた理由までは知らなかったが、ただ足が悪く満足に働く事ができない父が言い出したらしいとは、親戚の人の話で知った。しかし母の口から、そのことについて真実を一度も聞いた事がなかった。そしてなぜ、父の足が動かなくなったのかも葉子は知らない。

 母が何故か話したがらないからだ。

 葉子も聞かなかった。

 父の話を家の中でしてはいけないというそんな空気があった。しかし親戚の人が集まって酒が入ると、二郎が酒の魚になった。

「あの男は足が悪いのをいい事に、家族を捨てた悪魔みたいな奴じゃ」

 親戚の長が開口一番、二郎は悪魔になった。

「足が悪いのに芳江に乱暴をするし、葉子を叩いたりしたらしいじゃないか」

「足を怪我したのも女遊びが原因らしい。芳江も苦労したもんだ」

「今はどんな生活している事やら」

「なんでも、実家に戻ってからは母の面倒を見るどころか、やりたい放題らしい、結構借金もあるらしいよ」

「養育費をちゃんと送ってきてるのかい、芳江」

 芳江の姉が顔を赤くして言った。

「さぁ‥‥」芳江は笑って答えない。

「あんたも男運が悪いよ。うちの旦那みたいに一流大学を出て、一流企業で働いてる男を探さないから貧乏くじ引くんだよ」

 そんな姉の声に芳江は言葉をつげない。

「お前とこの旦那、暮れのボーナス百万超えたらしいってな」

 芳江の姉と親しい叔父が口をはさんだ。

「そうなのよ。百五十万よ」

「やはり一流企業は大したもんだ。うちの会社なんか‥‥」

 話はこの辺りから自慢話と自虐話へと変わっていく。

 誰しも憎しみがある内は別れた人間を決して良くは言わないものだ。

 母方の親戚ならなおさらである。

 

 少なくとも葉子の記憶の中には足を引きずって歩く父の姿があった。

 父が優しかったとか怖かったとかそんな記憶もなく、父から逃げていた事ぐらいしか覚えていない。

 それだけで充分だった。

 事実なのは、葉子があれ以来、一度も父の顔を見ていないということだ。

 父が今どうしているかフト考えることがあっても、自分から家を出て行った父に会いたい気持ちなどは、葉先から落ちる雫ほどもなかった。

 好きな母が辛い労働をしている姿を見て、時として涙を流す葉子だったが、そのことは嫌いだった父への憎しみを増大させるだけだった。

 葉子は葉子なりに母の事や自分の将来の事を考えていた。

 高校二年の夏休み、夕食が済んで台所でお茶を飲んでいる母に向かって葉子は言った。

「お母さん、私コンビニの早朝のバイトする事に決めたよ。」

「‥‥朝、起きてこれるの」

 芳江は微笑しながら本気にしなかった。

「高校のクラブは最後までやりたいから、早朝のバイトしか出来ないのよ」

「バイトしてくれたら少しは助かるけど‥‥でも、いいのよ、無理しなくても」

「大丈夫だって、お母さんを少しは助けないと」

 葉子は胸を張った。母はただにっこり笑っただけだった。

 椅子がガタッと音をたてて、葉子が立ち上がった。

「それと‥」

 葉子は一瞬、黙ってから目を見開いて母を見た。

「私、高校出たら働くから‥‥」

「えっ‥大学へ行くって言ってなかった」

 母は怪訝そうな表情をした。

「別にいいの」

「小学校の先生になりたいのでしょう」

「生活大変だし、大学ってお金いるんでしょう」

 椅子に座りながら、葉子の声はだんだん小さくなっていった。

「大丈夫よ、そのためにちゃんと貯めてあるから」

 芳江はニッコリ笑った。

「ほんと!」

 椅子がガタッ鳴った。

「大学を八年行っても大丈夫よ」

「それじゃ卒業したら適齢期が過ぎちゃうじゃない」

 葉子は嬉しかった。

「目が肥えていいんじゃないの」

「よく貯まったね、そんなお金」

 葉子は不思議に思った。

 芳江は椅子から立ち上がりながら葉子に背中を向けた。

「片桐二郎から、葉子への養育費よ」

「片桐……二郎」

 葉子の口から微かに漏れた。久しぶりに聞く父の名前だった。

「皆が言うからどんな悪い人かと思ってたけど、養育費をちゃんと送ってきてたんだ」

「それは一度も欠けた事はないわ」

「全然知らなかった、なぜ言ってくれなかったの」

「これは、なかったことにしてたの、いつか葉子のために使おうと思って黙ってたのよ」

 その時、葉子は素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。

「嘘でしょう」

「どうして?」

「だって家族を捨てた人でしょう、どうして養育費なんか送ってくるの?」

「きっと、お父さんがいい人だったからじゃないの」

 芳江の軽く言った一言だった。その言葉に導かれて葉子は真っ白な霧の中に立っていた。

「私はお父さんが嫌いだったことしか思い出さない。どうしてこんなの娘のために養育費を送り続けてきたの。いい人って嘘でしょう。家族を捨てた悪い人なんでしょう」

 葉子は混乱している自分を止められない。

「私はそんな人からのお金で大学に行きたくないわ。」

 母に対して自分をこれほど強く意思表示したのは、これが初めてだった。

 母は何も言わなかった。

 にっこり笑っていつものように葉子を見た。その時、芳江が飼っているシロと言う名前の黒い猫が、葉子の足元ににじり寄ってきた。

 葉子はかがんで黒い猫のシロの身体をさすりながらも、胸の高鳴りをなかなか止める事が出来なかった。

「お母さんも少しくらいお金持ってるし、奨学金を使う手もあるし、そんな事、気にしないで葉子は勉強してたらいいの」

 芳江は葉子自身が父親のことを少しでも考え始めたことが、なんとなく嬉しかった。

片桐二郎が葉子の父に違いがないのだから。

 幼い頃、父が嫌いであっても、葉子が父の思いを受け止めることが出来る日が来る事を芳江は信じていた。


 「葉子にやっぱりアルバイトしてもわらわないと」

 芳江はうずくまって黒い猫のシロを撫でている葉子の背中を軽く叩いた。

 シロと言う名前の黒い猫は、その時飛び跳ねるように葉子の足元から離れていった。

「アルバイトしながらでも大学はいけるわ。でもお父さんのお金少しくらい使ってもいいわよね。お父さんも喜ぶかも」

 葉子は明るい顔を向けた。

「‥‥」

 少しづつ、少しづつ、父に近づいている葉子を芳江は嬉しくもあり、一人の大人の女として、母の元を巣立っていく寂しさも感じていた。


 二郎からの養育費は、決まった金額が一度も欠けることなく送られて続けてきた。芳江はそのお金を葉子が高校、大学へ進学するために貯めておくつもりだった。しかし結局、葉子が大学に入学して四年後に卒業するまでに二郎の養育費に手をつける事はなかった。

「葉子の結婚式にあなたの父を招待できるように、その時まで使わずにおきましょう」

 芳江が微笑んだ。

「いつになるかわからないけど‥‥」

 はにかむ葉子の言葉をかみ締めながら、父と娘が再会する日を芳江は想像していた。

 そう遠くないその日のことを。

「いつになるか‥‥わからないけど」

 芳江は再び葉子を見て微笑んだ。


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