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あの日  作者: 古流
4/12

娘のための選択

 片桐二郎と離婚した芳江は旧姓の鮫島芳江に戻った後も、再婚という道を選択しなかった。愛する人と結婚して一緒に暮らしたい気持ちがあっても、葉子のことを考えると決心できなかった。

 結婚したい気持ちが熱いほど燃えていたはずなのに、障害が全てなくなった時に、その道を進めなくなる人生の皮肉さに似ていた。それは人として生きていくための芳江の選択だった。芳江が葉子のために選んだ道だった。


 夕暮れの街角にそのレストランはあった。

 蔦の絡まる白壁に、ほのかに影が揺れていた。

 薄暗い店内にはキース・ジャレットの美しいピアノが流れていた。

「最高だよ。このピアノ」

 男は瞑想しながら独り言のように呟いた。

「立花さんって音楽が好きなのですね」

 芳江は小刻みに身体でリズムとる立花を見ながら、押しつぶされそうなほど小さくなった心の動揺が止まらなかった。

「芳江さんと一緒にいる時は、音楽も好きになるんです」と笑う立花の笑顔を芳江は正視できなかった。

「正確に言うとジャズピアノが好きなんです」

 立花は小さな会社に勤めるサラリーマンで芳江より少し若かったが、女の噂が途切れたことがないほどのいい男だった。

 立花は芳江を見た。

「‥‥」

 芳江は何も言えず目を伏せてしまった。それを待っていたのか、霧雨が瞼を濡らし、閉ざされた心が咽び泣くようにピアノは哀愁を帯びた曲へと変わった。

「ある映画の別れのワンシーンにこのメロディが流れるんだ。切ない別れの時にはこれに限るよ‥‥」

 立花の笑顔が小さくなっていた。

「えっ‥‥」

 芳江はそれ以上声が出なかった。

 珈琲カップを持つ芳江の手が微かに震えた。

 突然、電池が切れたウォークマンみたいにピアノの音がプツッと止んだ。

 一瞬の静寂と焦燥。

 それでも立花の身体は、消えた音を愛しむように微かにリズムを刻んでいた。何か話さなければと芳江が立花を見た時、立花の動きが止まり、その目は芳江を見つめていた。

「ここはいい店なんだけど、時々音が切れるのが玉に傷なんだ。」

「ほんとね‥」

 芳江は笑えない。

 立花は芳江の心に火をつけようとでもするかのように煙草に火をつけた。白い煙が立ち上って消えていった。

「さっきの映画の続きなんだけど‥去っていく男を見送る女の涙がスクリーンにアップになったところで音楽が突然消えたんだよ。今みたいにさ‥‥そしてシーンが変わったら、この二人どうなったと思う?」

 立花の心に微かに火がついた。

「どうなったの?」

 芳江が少し微笑んだ。

「賛美歌に包まれて、二人は教会で結婚式を挙げていたんだ」

 立花は煙草の煙で芳江の顔が隠れないように、そうっと火を消した。

 心の火はそのままに「marry me?」

 立花は小さな声で言うと、芳江を見つめた。

「‥なんて言ったの?」

 芳江はこれで終わりにはしたくなかった。

「結婚してくれないか?」

 立花の心の火は芳江を燃やし尽くしてしまうほどに熱くなっていた。今、初めて聞いた言葉ではなかったが、これが最後になるかも知れない言葉だと芳江は思った。服の上から見ても分かるほど、胸の動悸が止まらない。

 再び、夕暮れのレストランの中に静かなピアノが流れてきた。まるで二人の気持ちを知り尽くしてでもいるかのように、別れにはピッタリの音楽だった。

「選曲のセンスがいいんだ。ここのマスターは」

 立花は寂しそうに笑い、芳江の返答を待った。

「でも、私はバージンロードを歩けない」

「大丈夫だよ、俺、子供好きだし。今でも葉子ちゃんと仲良しなんだよ‥ほら、これだって葉子ちゃんから貰ったんだよ」

 小さな青い鳥のキーホルダー。

「いい事あるよって‥」

 立花の手の中の小さなキーホルダーを芳江は涙に霞んで見えなかった。

「賛美歌も歌えない私‥‥結婚はできないの」

 芳江の声は消えそうだった。

 立花はその言葉を聞くと再び煙草に火をつけようとした。しかし心の火が消えたみたいにライターにも火がつかない。

「そうか‥この言葉だけは言いたくなかったんだけど‥」

 火のつかない煙草を指で回しながら、立花が芳江に向けたのは笑顔だった。

「‥‥分かったよ、芳江さん」

 笑顔は切ないほど、芳江の胸を刺した。

「忘却とは 忘れ去る事なり。 忘れ得ずして 忘却を誓う心の悲しさよ‥昔の映画の台詞なんだ」

 立花は自分の今の気持ちを芳江に伝えたかった。

 その時、再び、電池が切れた電動歯ブラシみたいに、ピアノの音がプツッと切れた。

「おーい!新しいステレオ買った方がいいよ」

 立花はマスターに聞こえるように大声で言った。

 カウンターの向こうで髭のマスターは笑っていた。

「芳江さん、まだ若いうちに再婚しないと、そのうち誰も相手をしてくれなくなりますよ」

 立花は別れ際に優しく芳江の肩を抱いた。

「そうですね‥」

 立花の肌の温もりにそれだけ言うのが精一杯の芳江だった。

「嘘です。芳江さんは幾つなってもきっと魅力ある女性ですよ。何年たってもバラが美しいように!」

 ウインクしながら立花は本当に芳江の元から去っていった。

 立花が雑踏の中に見えなくなるまで、そのうしろ姿をいつまでも見送る芳江だった。

 芳江の瞳から溢れるように涙が流れた。

 片桐二郎と別れる時は決して流れなかった涙だった。


 それからでも立花は時間を作って芳江に会いに来ていたが、葉子が中学生になる頃には十歳ほど年の若い女性と結婚してしまった。

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